先人が残した木の国・紀州の伝統産業を受け継ぐ人たち - 海南
シュロ皮の採取
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よみがえった紀州産シュロたわし
すくっと真っすぐに伸びた幹のてっぺんに、濃い緑の葉を茂らせるシュロ。九州南部の原産でいかにも南国らしい姿ですが、意外なことに寒さには強く、本州でも広く見られる植物です。葉の付け根部分には網状の繊維が絡み合ったシュロ皮が幾重にも巻き付いています。そのシュロ皮から取れる繊維は、耐水性や伸縮性に富んでいます。その性質から、縄や蓑、たわし、ほうきなど、暮らしに欠かせないさまざまな道具に利用されてきました。
海南市東部から紀美野町にまたがる野上谷一帯では12世紀頃からシュロの栽培、加工が行われていたといいます。明治になると専業の製造者や問屋が現れ、特に日清・日露戦争で軍需用の縄や綱の需要が増大し、地場産業として確立されていきました。その後は時代の変遷と共に、シュロから輸入パーム(ヤシの実の繊維)や化学繊維に原料を変えながら、海南は家庭日用雑貨の一大産地へと成長を遂げました。その一方で、需要がなくなったシュロ山は、ほとんどが杉の山へと姿を変えていきました。
今から10年ほど前、地元産のシュロに再び目を向けたのが、髙田耕造商店の3代目、髙田大輔さんでした。髙田耕造商店では、職人の手で一つひとつ巻き上げてたわし作りを行っていましたが、原料は輸入に頼っていました。家業に入った髙田さんは、純国産のたわしを作りたいと思い立ちますが、既に紀州産のシュロ皮は入手困難なものになっていました。何とかつてを頼り、有田川上流の地域で入手したシュロ皮は、黒ずんだ色合いで、中国産に遠く及ばない素材でした。
「その時は単純に、中国産の方が品質が良いから、国産が廃れたのだと思いました。後になって、木の手入れがされていなかったのが原因だと分かったんです」
素材に適した良質なシュロ皮を取るには、枯葉を取り、蒸れて腐った皮を剥いで、新しい皮が生み出されるようにする必要があるのだそうです。シュロの加工は山間の集落で細々と続けられていましたが、高齢化が進んでシュロの手入れをする人はほとんどいなくなっていました。そんなことがあって、いったんは国産を諦めた髙田さんの元に、2年を経て山間の集落から再びシュロ皮が届きました。赤みを帯びたその繊維は、以前のものとは打って変わり、それまで手にしたことのない、しなやかな感触でした。髙田さんの思いに応えようと、時間を掛けてシュロの手入れを続けてくれたのでした。
それから髙田さんはその山里に通って地域の人たちの協力を得て知恵を学び、自ら山に入ってシュロ皮を採取。その優しい肌触りを生かして、グラス洗いなど用途に合わせた形状のたわしを商品化しています。中でも体を洗うためのボディ用たわしは、今では製造が追いつかないほど高い支持を得ています。
「伝統を守るとかいうのではなく、時代が変わっても必要とされる物は、残っていく。それは使う人が決めるのだと思います」
シュロ山の再生を目指しながら、過疎化が進む山間地の現実は厳しく、個の力には限界も感じるという髙田さん。自分が山に入ることで、共生の道を探りたいと話していました。
黒漆の上に朱漆を塗る谷岡敏史さん
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紀州漆器の伝統と技
和歌山の旧国名「紀伊国」は、一説には「木国」が転じたものと言われます。温暖多雨な紀伊半島は、豊富な森林資源に恵まれています。その地の利を背景に、早くから全国に販路を広げたもう一つの地場産業があります。海南市黒江で作られ「黒江塗」と呼ばれた紀州漆器です。室町時代、近江系の木地師集団が移り住み、檜の椀生地に柿渋で下地を施す「渋地椀」を作ったのが起源とされます。更には、秀吉の紀州攻めで四散した根来寺の僧によって根来塗の技術が伝わり、影響を与えたと考えられています。
江戸時代には紀州藩の保護を受けて発展し、椀の他に膳や盆なども作られ、蒔絵などの装飾技術も導入。また分業制によって庶民向けの器として大量に生産することが可能になりました。江戸後期編纂の『紀伊続風土記』には黒江の漆器について「今は國として至らさる所なく、其製最佳好なり」とあり、広く販路を広げていたことがうかがえます。
そこで大きな役割を果たしたのが、伊予商人でした。伊予商人は「椀船」と呼ばれる回船に伊万里や唐津の陶器を積んで大坂へ向かいながら売り歩き、帰りは黒江の漆器を仕入れて九州各地へ行商しました。
当時は現在の川端通りの中央に港につながる堀川が流れていて、両側に問屋や商人が泊まる宿が並んでいました。その裏には通りごとに加飾、塗師、下地師、木地師の職人が住居兼工房を構え、独特の職人町が形成されていました。
製造の拠点は今は郊外に移っていますが、漆器の町の趣は町の随所に残っています。毎年11月初旬に開かれる紀州漆器まつりでは、川端通りに露店が連なり、2日間で約5万人もの人々でにぎわいます。
紀州漆器の伝統工芸士で、65年にわたりこの道一筋に歩んできた谷岡敏史さんは、長く途絶えていた根来塗の技術を復活させた塗師です。
根来塗は僧侶らが仏具や什器として作った漆器で、黒漆の下塗りの上に朱漆を重ねます。使い込むうちに朱漆が摩耗して下から黒漆が現れ、その模様に趣があると珍重されました。
黒江ぬりもの館
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谷岡さんが用いるのは、5年以上掛けて乾燥させた高野檜の木地。塗りの工程は80にも及び、塗っては乾かし、漆を密着させるために研いでは塗る、という作業を何度も繰り返します。その上に黒漆、朱漆を重ね、炭で研ぎ出して自然な模様が生みだされます。
現在、紀州漆器の伝統工芸士は谷岡さんを含めて3人。その一人は、5代目となる娘の公美子さんです。大学院で経済学を修めた公美子さんは、塗りだけでなく蒔絵の技法も習得。根来塗の他に、蒔絵を施したアクセサリー作品を手掛けて、伝統に新しい風を吹き込んでいます。
2019年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)
藤白神社と鈴木屋敷
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▼和歌山県海南市
県北西部、和歌山市の南に位置し、紀伊水道に面しています。四季を通して温暖な気候で、ミカンやビワ、桃の栽培が盛ん。沿岸部はシラスやハモ、ワカメなど海の幸に恵まれています。主な地場産業はキッチン、バス、トイレ用品などの家庭用品産業と漆器産業。どちらも江戸時代には産地として確立されて発展を遂げました。市内には京都から田辺に至る熊野古道の紀伊路が通り、現在の藤白神社(藤白王子跡)が熊野神域への入り口でした。05年に海南市と合併した旧下津町地区には、県下に七つある国宝建造物のうち、長保寺本堂、善福院釈迦堂など四つがあり、他にも多くの文化財が残っています。
【交通アクセス】
阪和自動車道に海南東、海南、下津の三つのインターチェンジがあり、大阪市内から約1時間。主要道は紀伊半島を一周する国道42号と、奈良市に至る国道370号。
JR紀伊本線に海南、黒江、冷水浦、加茂郷、下津の五つの駅があり、新大阪駅から特急くろしおが停車する海南駅まで約1時間10分。
写真説明
●シュロ皮の採取:山の斜面に群生するシュロに、丸太で足場を掛けてシュロ皮を採取します
●黒漆の上に朱漆を塗る谷岡敏史さん:上塗用の刷毛には、昔から漆刷毛に最適とされる女性の毛髪が使われています
●黒江ぬりもの館:塗師の町屋を改修しギャラリーとカフェを併設しています。玄関前に三角の空き地を設けた鋸歯状の町並みも一部に残っています
●藤白神社と鈴木屋敷:熊野古道・紀伊路の藤白王子跡で、熊野神域の入り口に当たります。藤白神社の権現堂には熊野本地仏が祭られ、神仏習合の名残をとどめています。境内の一角には、鈴木姓のルーツとされる「鈴木屋敷」があります。鈴木一族は熊野三党の筆頭と言われた豪族で、ここを拠点に全国に約3300余りの熊野神社を建立して熊野信仰を広めました。現在、クラウドファンディングや全国の鈴木さんの支援を受けて、老朽化した鈴木屋敷を復元する計画が進行中
●幹に巻き付いている網状のシュロ皮を専用のナイフを使ってはがしていきます
●紀州産シュロを使ったたわし製品。しなやかなシュロは人肌にも優しい素材です
●専用のたわし巻き機に短く切りそろえた繊維を均一に並べて銅やステンレスの針金ではさみ、ハンドルを回して巻き上げると棒状のたわしが出来ます
●たわしを作るのは、熟練の職人でもある2代目の髙田英生さん
●上塗り用の漆は、ほこりを取り除くために和紙で漉します。谷岡さんは薄くきめ細やかな吉野紙を二重にして使います
●美しい艶は、仕上げに鹿角の粉で磨きをかけることで生まれます。カン付きの壺と手桶は父の敏史さん、椀と皿は娘の公美子さんの作品
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