大地の躍動を感じさせる山々に抱かれ神話と古代史が息づく場所 - 霧島

霧島神宮
うっそうとした木々に囲まれた霧島神宮の三の鳥居

神話の舞台にある二つの神宮

霧島市中心部に近い城山公園の山上からは、北に霧島連山、南には錦江湾(鹿児島湾)に浮かぶ桜島の姿が見えます。どちらも今なお活動を続ける活火山です。霧島市には「神宮」の社号を持つ神社が二社あり、霧島神宮は霧島連山の高千穂峰を背に、もう一つの鹿児島神宮は桜島を真正面に望むようにして建っています。

高千穂峰は天孫降臨神話の地。霧島神宮は、地上に降りた天照大神の孫、瓊瓊杵尊を主祭神にまつってお、あし。高千穂峰は古来修験の地でもあり、6世紀には社殿が築かれたと言われます。社殿は噴火の度に移され、現在地には500年ほど前に遷座。古くから薩摩を根拠地とする島津家の崇敬を集め、現在の社殿は1715(正徳5)年、島津吉貴が寄進しました。その拝殿へ、禰宜の赤大和さんの案内で上がりました。

「島津家が寄贈された社の特徴の一つが、本殿の手前にある龍の柱です。本堂の外陣には獏や麒麟など想像上の動物の彫刻が施され、内陣の壁や天井も彫刻や絵画で飾られています。島津家は鎖国の時代にも大陸と貿易をしていたので、絵画には大陸の風物が描かれています」

極彩色の龍が巻き付いた柱から天井へと目をやると、年月を経て色あせた草花図が見えました。「鹿児島神宮では奇麗に残っていますよ」と、赤さんが教えてくれました。

高千穂峰の麓で深い緑に囲まれた霧島神宮から天降川沿いに車を走らせること約40分。鹿児島神宮は錦江湾へ注ぐ天降川河口にほど近い隼人町にあります。祭神は、瓊瓊杵尊の子で山幸彦と呼ばれる彦火火出見尊です。

「ここは古代、隼人族が住んでいた場所で、その先祖と言われるのが山幸彦の兄、海幸彦です。海幸山幸の神話は大和族が隼人族を征服したことを表し、大和族すなわち宇佐八幡がこの地にやってきたと言われます。ここにはその八幡様もおまつりしていて、正八幡宮と呼ばれた時代が千年以上の長きにわたりました」

霧島神宮
霧島神宮の社殿

鹿児島神宮
建設当時の色彩を残す鹿児島神宮拝殿の天井
権禰宜の伊賀昇三さんが言うように、堂々とした勅使殿に「正八幡宮」の扁額がありました。社殿は1756(宝暦6)年、島津重年の寄進で造営され、本殿前に霧島神宮と同じく龍の彫刻を施した柱があります。拝殿の天井に描かれた240枚の草花図の中にはバナナなど日本にない草花もあり、島津家の南蛮貿易の影響がうかがえます。

拝殿の片隅に、赤魚をかたどった木製の玩具がありました。海幸山幸の神話にちなむ鯛車です。神話では山幸彦が海幸彦から借りた釣り針を無くし、海神の助けを借りて鯛の喉から見つけ出します。色鮮やかでどこか愛嬌のある鯛は、形を切り出すところから彩色まで全て手作業です。鯛に付いた車輪は前輪がやや小さめに出来ています。

「神様の前で頭を低くしているんです」と話すのは、工房みやじ4代目の花見ユリ子さん。名人で知られた父の宮路武二さんの仕事ぶりを見て育ちました。現在は娘2人の手を借りながら、鯛車を始めとする9種類の玩具を作り、鹿児島神宮に納めています。素朴な玩具の数々には、手仕事の温もりが感じられます。

江戸時代から続く露天仕込みの黒酢

霧島市国分から国道220号を桜島方面へ向かう途中に、亀割峠という峠があります。峠の先にある旧福山町は、健康食品として脚光を浴びている黒酢の産地。壺を使った露天仕込みという独自の製法には、200年の伝統があります。昔は、この峠の難所を越えて黒酢を運ぶ途中にしばしば壺が割れたことが、その名前の由来だそうです。亀割峠を下り切ると、目の前に錦江湾が開け、桜島が間近に迫ってきました。国道が通っている海岸近くにまで山が迫り、その傾斜地に黒酢の壺をびっしりと並べた壺畑が点在しています。

福山で黒酢造りが始まったのは江戸時代後期。その始まりには諸説ありますが、要は中国南部の製法が黒酢造りの好条件がそろったこの地に伝わって根付いた、ということになります。その条件とはまず、四季を通じて温暖で寒暖の差が少ない気候。そして、福山港が米の集積港だったことや、薩摩藩内で島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工たちに始まる薩摩焼が盛んに作られていたことなど、原料や資材の入手が容易だったことが挙げられます。

黒酢
黒酢の仕込み

この地には戦前まで24軒の醸造所があったといいますが、現在は7軒。創業1820(文政3)年の伊達醸造は、味噌や醤油の醸造も手掛ける昔ながらの醸造所でした。黒酢の仕込みは春と秋の年2回、4月と10月にそれぞれ1カ月余りかけて行われます。取材当日は今にも雨が降り出しそうな空模様で、約6000個の壺が並んだ壺畑では、早朝から慌ただしく仕込み作業が始まっていました。

黒酢の原料は、玄米と米麹に水。米麹は自家製で、蒸し米に麹菌をまぶして数日間寝かせて作ります。仕込み作業は、壺の底に米麹を入れて水を注ぎ、そこに蒸したての玄米を入れて更に水を加えます。最後に片手で粉のようなものを振り入れては、しきりに中をのぞき込んでいます。

「あれは振り麹。乾燥させた麹で隙間なく覆いふたをすることで、雑菌を防ぎます。表面に浮かんだ振り麹は発酵と共に外側からゆっくりと沈んでいきます」
工場長の板元秀和さんがそう説明してくれました。

黒酢
古い仕込み壺

仕込みを終えた壺の中では、麹菌の働きによる糖化、アルコール発酵、酢酸発酵という変化が自然に進んでいき、半年ほどで黄金色の酢が出来ます。それを1年から長いもので3年かけてじっくり寝かせることで、まろやかで芳醇な黒酢になります。出来上がった黒酢はそのままでは酸度が強過ぎるので、適度に調整してから出荷されていきます。

仕込みの後は時折、壺一つひとつの発酵の具合を確かめて、その度合いに応じてかき混ぜる作業をしながら、じっと熟成を待ちます。まるで畑の作物の成長を待つように、この地の風土が黒酢を育むのを見守るのです。

2017年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)


▼鹿児島県霧島市

2005年に国分市と姶良郡溝辺町、横川町、牧園町、霧島町、隼人町、福山町が合併し、県内で2番目に人口の多い市となりました。北に韓国岳(1700m)を最高峰とする霧島連山、南に桜島を望み、霧島温泉郷、妙見温泉などの温泉に恵まれています。天孫降臨神話の舞台であると共に、約9500年前の集落跡が残る上野原遺跡や古代の隼人族にまつわる史跡など、神話と歴史に彩られた地でもあります。市内には鹿児島空港があり、九州自動車道の開通を機に国分隼人テクノポリスの指定を受けたことでソニーや京セラなどの企業が進出してハイテク産業も盛んです。
【交通アクセス】
市内にJR日豊本線と肥薩線が通り、国分駅、隼人駅など11の駅があります。鹿児島中央駅から国分駅まで特急で約36分。
九州自動車道、東九州自動車道が通ります。鹿児島空港溝辺ICまで鹿児島市から約40分。

隼人塚
隼人塚(はやとづか)

写真説明

●霧島神宮の社殿:中央手前から勅使殿、拝殿、本殿の屋根が連なります。その前に並ぶ門守神社は「門の神様で、神様を守るいわばガードマン」と赤﨑さん。この門守神社があるのも島津氏が寄贈した社の特徴です
●黒酢の仕込み:仕上げに振り麹で表面をしっかり覆い、壺にふたをして仕込みが完了します
●古い仕込み壺:既に仕込みが終わった一角にかなり古そうな壺が並んでいました。昔は上部についている耳の部分にひもをかけて運んでいたといいます
●隼人塚(はやとづか):『古事記』『日本書紀』に登場する「熊襲(くまそ)」と「隼人」は、古代の南九州に居住していた人々で、隼人族の祖は火須勢理命(ホスセリノミコト)すなわち海幸彦だとされています。大和朝廷はこの地に大隅国府を置いて支配を広げ、これに対して720年、隼人の乱が起こりましたが、隼人族は1年半近くの戦いの末に敗れました。隼人塚はその供養のために建てられたと伝わっています。塚は1921(大正10)年に国の史跡に指定されており、高さ約3mの盛り土の上に五重石塔3基と四天王の石像が立っています。近年行われた発掘調査によって平安時代後期の建立と判明しました。国分平野にある城山公園や姫木山は隼人族が籠もったという山城で、後に島津家によって城が築かれました


●幼い頃、鯛車を引いて遊んでいたという花見さん。毎年、地元小学校の子どもたちに玩具の製作を教えています


●工房みやじでは鯛車や初午祭で鈴掛馬に飾る初鼓、香箱など鹿児島神宮に伝わる信仰玩具を製作(Tel.0995-42-2832)


●壺一つに入れる蒸し米の量は約9kg


●じっくり熟成した黒酢は酸味は強いがまろやかな味わい(協力/合資会社伊達醸造 Tel.0120-592-016 http://datejozo.co.jp/)

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