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玉砂利の参道の先にある、神々の時代を今に伝える聖地の風景 - 伊勢

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一生に一度は行きたい夢のお伊勢参り あいにくの雨。普段ならば気落ちしてしまうところですが、今回は少し事情が違います。 「神宮は早朝、雨ならなお良い」 地元の方からこう聞いていたので、雨は願ってもない好条件。夜明け前の静寂の中、小雨にけむる伊勢神宮を訪れました。 「お伊勢さん」「伊勢神宮」の呼び名で親しまれていますが、正式名称は「神宮」。皇室の祖先神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祭る内宮(皇大神宮)と、衣食住と産業の守護神・豊受大神を祀る外宮(豊受大神宮)を中心に125社から成る神宮は、今も昔も大勢の参拝客でにぎわいます。 街道が整備された江戸時代、庶民はこぞって旅へ出るようになりました。中でも「おかげ参り」と称された伊勢参詣は人気の旅先。「伊勢に行きたい伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」と歌われるほどで、1830(天保元)年には、半年間に日本の総人口の6分の1に当たる500万人が参宮するという社会現象にもなりました。飛行機や電車で気軽に移動出来なかった当時の交通事情を考えると驚異的です。ちなみに、現在も年間600万人もの人が伊勢神宮を訪れます。 お伊勢参りには、講と呼ばれるグループで訪れるのが一般的でした。一人で行くのはお金が掛かりすぎるため、村ごとに資金を積み立てる講を作り、講単位で参宮します。いわゆる「伊勢講」です。積み立て金があるとはいえ、江戸からで往復30日は掛かる大旅行。30泊するだけの旅費を持って行ける人などほとんどいなかったといいます。満足な宿泊施設もない道中、時には危険をも冒す、まさに命懸けの参詣でした。 そんな思いまでして伊勢を訪れる人々に対し、内宮宇治橋に続く参宮街道の人々は、旅人に「施行」と呼ばれる振る舞いを行いました。新品のわらじや薬、江戸時代には珍しかった白米のおにぎりなどを無償で与え、旅人を温かく迎えました。その日、仕事が出来るのも、家族が平和でいられるのも、全ては神様のおかげ。だから伊勢の人々は、同じく神様をお参りしに来た人々に施行したのです。 伊勢中が盛り上がる、20年に一度の神様のお引っ越し 話を平成の世に戻します。 神宮では20年に1度、すべての社殿を新造し、隣接した更地に御神体を移す「式年遷宮」の儀式が行われます。始まったのは飛鳥時代の690(持統4)年と古く、中断を挟んで1300年以上続く、神宮で最も重要な祭で

自然の恵みに感謝して、海に暮らしを賭ける志摩の海女漁 - 志摩

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海女小屋での至福のひととき 複雑に入り組んだ入り江や大小の島々が点在する志摩半島は、素潜りでアワビやサザエをとる海女漁が盛んな地域。自らの肉体と知恵を頼りに獲物をとらえる海女漁は『万葉集』にも登場する原初的な漁であるが、その頃から大きく形を変えることなく現在まで続いています。 太平洋に面した半島の東海岸。海に沿ってポツンポツンとトタン屋根の小屋が建っているのが目に入ります。そのうちの一つの小屋にウェットスーツ姿の女性が連なって入っていくのが見えました。女性たちは、その日の漁を終えたばかりの海女さんたち。小屋は海女小屋と呼ばれる彼女たちの休息場です。中には、ものすごい熱気が充満していました。見ると部屋の真ん中には巨大なストーブが置かれ、一人の海女さんが薪をくべていました。 「海女はね、地獄の商売と言われるの。海の中で収縮した血管を元に戻すために、どんなに外が暑くてもこうして火に当たらないといけないから」 と、その海女さんが教えてくれました。少なくとも1時間半はじっと火に当たらなくてはならず、これがなかなか大変なことなのです。それでも海女たちは「海女小屋は天国」だと口をそろえます。 「日常の生活から解放されて、気の合う仲間と話し合ったり、食べる物を分け合ったり、楽しいことも辛いことも分かち合えるのが海女小屋なの」 仕事が終わった後、ここでの団らんのひとときほど、楽しくくつろげる時間はないそうです。 徒人と舟人、二つの海女漁 志摩の海女漁といえば、なんと言ってもメインはアワビ。県の規則で元日から9月14日までと漁期が定められていますが、地区によっては更に漁期を規制しています。市内のある地域では3月16日がアワビの解禁日でした。また、漁協によっては、潜水の日数や回数、時間制限などを決めている所もあり、資源を絶やさない取り組みが徹底されています。 漁の方法は2種類あります。一つは、木製の磯樽を浮きにして5~8mと比較的浅瀬を自力で潜水して漁を行う徒人という方法。徒人は陸から泳いで漁場に出る場合が多いのですが、漁場が遠い地区では舟に乗り合い沖へ出ます。桶を持って大勢で泳ぐ海女の姿はポスターや絵はがきなどで紹介され、志摩の風物詩として知られるようになりました。最近では、磯樽に代わってタンポと呼ばれる発泡スチロール製の浮輪が使われています。 もう一つの漁法は、他の地域には見られない

世界遺産、熊野古道伊勢路に残る石の道を歩く - 熊野

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獅子岩 強固で美しい峠の石段 紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に登録されたのは、2004年のことでした。険しい山地に覆われた紀伊半島の南端にある熊野は、自然崇拝と神道、仏教が融合した聖地として信仰を集めました。浄土思想の広まりと共に熊野は現世の浄土と見なされて、盛んに参詣が行われるようになります。 熊野三山への参詣道には幾つもの道筋がありましたが、中でも歴史が古く主要な道は、畿内から紀伊半島を西周りする紀伊路と伊勢を起点に東回りする伊勢路に大きく分かれます。紀伊路が平安中期から頻繁に行われた上皇や貴族の参詣道だったのに対し、伊勢路が栄えたのは室町時代以降のこと。庶民の間で伊勢参りが流行し、伊勢から更に熊野詣や西国三十三カ所の巡礼へと向かう人々が歩いたのがこのルートです。伊勢参宮を終えた人々は、巡礼の白装束に身を改めて伊勢路へ旅立ちました。 伊勢から現在の和歌山県新宮市にある熊野速玉大社までの行程は約170km。熊野市の七里御浜で熊野本宮大社に向かう本宮道が分岐します。伊勢を出てから七里御浜のなだらかな海岸線に出るまでは、幾つもの峠越えが続きます。険しい山道には古くから住民の手で石を使った舗装が施されて、今も随所に古い石畳や石段が残っています。 そんな石の道が残る松本峠を歩きました。熊野市の大泊と木本を結ぶ松本峠は標高135m。峠の登り口は、昨年開通した熊野尾鷲道路の熊野大泊インターチェンジに近い国道脇にあります。 うっそうとした木立の下に踏み入ると、谷間を流れる湧水に沿って大小の自然石を積んだ石段が現れました。江戸時代に築かれたもので、石積みは厚い所で2m近くもあります。この辺りの山々は熊野古火山の活動によって出来た花崗岩の岩盤で、石段には豊富にある山中の石が使われました。 松本峠へ向かう古道 この地方は国内有数の多雨地帯です。巧みに築かれた石の道は、しばしば襲来する台風や豪雨に耐えて今に残りました。2011年に、台風12号と15号が甚大な被害をもたらした際、熊野市の隣の尾鷲市では孤立した集落の救援に向かう大勢の人が、古道を歩いて物資を運びました。 江戸時代、松本峠には寺院や茶店があったといいますが、今は数基の石仏や石碑が並び、周りはびっしりと竹林に覆われています。峠を越えると、道は大きな切り