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藩政時代の面影が薫る商人街の元祖アーケード - 黒石

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往時の姿を今に残す木造アーケードの街 雪国の冬は厳しく、降り積もる雪の処理だけでも大変な重労働となります。今でこそ道路に除雪車が入りますが、雪かきをしなければ家から出られませんし、屋根の雪下ろしをしないとその重さで家がつぶれてしまいます。だから人々は、過酷な冬に打ち勝つためにさまざまな工夫をしてきました。そんな雪国ならではの工夫が、青森県のほぼ中央、黒石市の一角に残されています。 藩政時代の面影が残る中町通りには、道路に面して等間隔で木の柱が並び、その上にひさし状の屋根が張り出しています。木造のアーケードを思わせる通路は「こみせ(小見世)」と呼ばれ、夏の強い日差しや風雨、冬の吹雪や積雪から人々の往来を守ってきました。 「かつてのこみせはもっと長く続いていたようで、雨でも雪でも傘がいらないので快適に街を移動することが出来たといいます。近隣市町にもこうした通路は見られますが、連続した形で現存しているのは他に例がありません」 黒石商工会議所の三上昌一事務局長は、こみせの独自性をこう説明します。隣の弘前市にもひさし状の屋根が張り出す家屋が点在しますが、黒石のように連続した風景は残っていません。また、弘前のものは1人がようやく歩ける幅ですが、黒石のこみせは幅が1間(通常は約180cmですが、津軽サイズで190cm)。大人2人が並んで歩ける程の広さがあります。 黒石にこみせが出来たのは江戸の初期。津軽信英公が弘前の津軽藩から分家して黒石津軽藩を創立した1656(明暦2)年に、陣屋を築造し、以前からの古い町並みに侍町、職人町、商人町などを加えて新しい町割りを行いました。その際、商人町に割り当てられた現在の中町にこみせを作らせたといいます。その後、中町通りは青森市へ通じる街道筋として栄え、造り酒屋や米屋、呉服屋などが軒を並べました。 中町通りでもとりわけ立派な屋敷が高橋家住宅。代々黒石藩御用達の商家で主に米穀を扱っていました。同家に伝えられている古文書によると、建築されたのは1763(宝暦13)年。一度、土間の増築工事をした以外、大きな修理はないそうです。 昔に比べれば少なくなったといいますが、それでも冬には屋根に1m近く雪が積もります。相当な重量になるはずですが、14代当主の高橋幸江さんは家屋の頑健さに絶対の自信を持っています。 「外から見ていてつぶれそうだから、と心配で電話をか

三本の弦が放つのは津軽の風土が育んだ魂の響き - 五所川原

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三味線の活気にあふれる津軽の春 桜前線の訪れに足並みをそろえるかのように、津軽では三味線熱がピークを迎えます。大型連休中、桜の名所でにぎわいを見せる花見客をよそに、県内3カ所で津軽三味線の大会が開催されます。中でも津軽三味線発祥の地である五所川原市金木地区の「津軽三味線全日本金木大会」は全国から演奏者が集まる大会で、これまで多くの有望な若手を輩出してきたことから、若手の登竜門として知られます。 津軽三味線は、その名の通り青森県の津軽地方で生まれた三味線音楽です。民謡の唄を引き立てる伴奏楽器であった三味線は、この地で次第に伴奏の枠からはみ出し、独奏でも聴く人の心を引きつける芸能として確立されていきました。バチを叩きつけるように弾く打楽器的な奏法が特徴的で、強いビートと迫力のある音は世代を超えて多くの人々を魅了しています。 演奏者の年齢層も幅広く、金木の大会にも老若男女が腕を試しにやって来ます。小学生以下、中高生、一般、60歳以上のシニアと年代別にそれぞれ個人戦と団体戦があります(シニアは個人のみ)。一般の部は更に習得年数5年未満のC級、5年以上のB級、習得年数を問わないA級に分かれます。純粋に三味線を楽しみたいという人たちの参加が多数を占める一方で、最高の実力を競い合うレベルの高い闘いも繰り広げられます。 4年前から、個人一般の部A級に限って1対1の勝ち抜きトーナメントが導入されました。自分が得意とする津軽民謡を1曲選んで披露するB、C級とは異なり、A級では対戦ごとに津軽五大民謡(じょんから・よされ・あいや・小原・三下がり)から1曲がくじで選ばれ、その曲を弾き合って勝敗を決めます。つまり、五大民謡全てを弾けないと勝ち進むことが出来ないのです。津軽民謡から逸脱する演奏は評価されず、基本的な民謡の旋律を守りつつ、いかにアドリブを加えて個性を出すかが勝負の分かれどころです。トーナメント制の導入後は、これまで以上に手に汗を握る曲弾き対決が生まれ、結果的に大会そのもののレベルが向上しました。 撮影協力:津軽三味線会館 中高生団体の部で過去に3連覇を成し遂げている五所川原第一高等学校を訪れました。金木の大会まで残すところ3週間とあって、放課後の校内には津軽三味線部の大きな音が鳴り響いていました。練習は既に仕上げの段階に入っており、主に演奏の早さや間をチェックしていました。なかなか

雄大な岩木山を望む「ふじ」の生まれ故郷を訪ねる - 藤崎

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夕焼けに浮かび上がった岩木山のシルエット 一粒ひと粒に愛情込めて 青森空港から国道7号線へ出て藤崎町方面へ向かうと、目の前になだらかな裾野を広げた岩木山が見えます。藤崎町へ入って少し経った頃、両側に広がっていた稲田の景色がリンゴ畑に変わりました。ここは、日本のリンゴ収穫量の55%を占める品種「ふじ」の誕生の地です。 今や海外にもそのおいしさを知られる青森リンゴの始まりは、明治初頭にさかのぼります。1871(明治4)年、日本に初めて西洋リンゴが輸入され、当時の内務省勧業寮から各県へ苗木が配られました。青森県にも3本が届きました。同じ頃、弘前市の東奥義塾に招かれた宣教師が教え子や信者に西洋リンゴを紹介。 リンゴ栽培は明治維新で職を失った旧津軽藩士を担い手の中心として広がっていきます。その後、弘前市に設立された化育社を先駆けに、リンゴ栽培を目的とした組織が津軽各地に発足。栽培技術の向上や病虫害の研究、品種開発が進み、リンゴ産業の発達を招きました。 藤崎には明治18年に株式組織、敬業社が発足し、地域のリンゴ栽培熱が高まっていきました。昭和13年には、寒冷地での園芸作物研究を目的に農林省園芸試験場東北支場が開設され、ここで新品種ふじが誕生することになります。ふじは「デリシャス」の花の花粉を「国光」のめしべに交配して出来た品種で、昭和37年に品種登録されました。 果汁が豊富で甘みと酸味のバランスが良く、シャキっとした歯ごたえがその特徴。名前は、藤崎町の町名と、日本一の富士山にちなみます。藤崎町にあった試験場は、ふじ誕生から間もなく岩手県盛岡市に移転し、ふじの原木も盛岡に移植されました。町内ではその原木から株分けされた木が育っています。全国で唯一の「りんご科」がある県立弘前実業高校藤崎校舎の農場内に作られたふじ原木公園に、生徒たちの手で栽植されました。 9月末、岩木川の河畔にある野呂與志勝さんのリンゴ畑では、ふじの袋を外す作業が行われていました。袋は二重になっていて、外側の袋を外して4日で残った袋も外し、徐々に色付きを促していきます。袋がけをすることで、奇麗な赤色に色付き、皮が薄く柔らかくなって、日持ちも良くなります。一方、袋をかけずに日光をたっぷり浴びて育ったものは「サンふじ」と呼ばれ、より強い甘みを持ちます。