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石を知り尽くした職人の一彫りが、天然石に新たな命を吹き込む - 対馬

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芸術品の域にまで高められた硯 九州の北方、玄界灘に浮かぶ国境の島・長崎県対馬。島の南部、奥深い山間を流れる若田川の川辺で採取される若田石は、国内でも有数の硯(すずり)の良質原料石です。色は青みを帯びた漆黒、表面に美しい斑紋や条線が浮かび上がる石は、堆積した粘土が幾層にも重なり固まって形成された頁岩(けつがん)の一種です。 この石が持つ文様をそのまま生かして作られる若田石硯は発墨性に優れ、多くの書家から名品として高く評価されています。嘘か誠か平安時代中期に紫式部が『源氏物語』を執筆した際に使用したとも伝えられます。現在、島に4人だけとなってしまった硯職人の一人、広田幸雄さん(82)に事の真相を伺いました。 「どのようにして若田石硯が玄界灘の孤島から京の都に渡ったのか、とてもロマンのある話ですが、これを立証するものが残っていないので真偽の程は分かりません。ただ、江戸初期に若田川で硯の形状をした石を拾った人物が、この石を天然の石硯として高く評価したという記録は残っています」 記録とは、大儒者・林羅山が著した『霊寿硯記(れいじゅげんき)』で、この中で天然の石硯は質が良い上、美しい文様を兼ね備えていることから、中国硯の最高峰「端渓」「羅文」に優るとも劣らないと評されています。 実のところ、若田石硯はいつの時代から作られているのか、誰がどのように伝えたのかは一切不明です。明治の中期から商品として本格的に制作され、大正末期に漆塗りで光沢を出す現在の技法に改められました。1991(平成3)年には長崎県伝統工芸品に指定され、全国的に知られるようになりました。 若田石に魅せられて 「硯作りは石で決まる」と広田さんは断言します。従って、職人の仕事は石選びから始まります。 自宅の裏に作った作業場から、のどかな田園地帯を5分も歩けば採石場の若田川です。川縁に畳を何枚も重ねたような縞模様の岩が続いていますが、この岩こそが原石の若田石です。岩々をじっと見つめ、その中から「良い石」を見つけると、鍬で1枚1枚岩盤から剥がしていきます。 「良い石とは、良く墨が擦れる石。つまり『鋒芒(ほうぼう)』が適度に細かい石」と広田さんは言います。「鋒芒」とは微細な石英粒の集まりのことで、ちょうど下ろし金のような役割を果たします。石英の量が多いと墨が良くおり、少ないと墨が滑って発墨しません。鋒鋩が細かすぎず、荒すぎ

華やかな大航海時代の面影と、キリスト教受難の歴史を持つ港町 - 平戸

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かくれキリシタン信仰の誕生 東シナ海から玄界灘に抜ける海上交通の要衝だったことから、古来、大陸との交易港として栄え、戦国時代には南蛮貿易の拠点となった港町平戸。この町を語る上で欠かすことが出来ないのが、キリスト教の伝来と弾圧の歴史です。平戸にキリスト教(カトリック)が伝来したのは1550年のこと。西欧の船として初めてポルトガル船が平戸に入港したのがきっかけです。この知らせは、前年に鹿児島に上陸していたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの元にも届きます。思うように進まない鹿児島での布教を急きょ取りやめ、すぐに平戸に入ったザビエルは領主の松浦隆信に丁重に迎えられ、領内での布教を認められました。ザビエルが布教を許されたのは、ポルトガル国王の庇護下にあったイエズス会が布教の交換条件として、利益の多いポルトガル船との南蛮貿易の仲介役を申し出たためです。これ以後、平戸港には定期的にポルトガル船が寄港し始め、領内では宣教師による布教が盛んに行われました。 ところが、急速に増えていく信者を目の当たりにした隆信は、領主の力が及ばなくなることを恐れ、これまで布教に寛容だった態度を一変させます。豊臣秀吉が発した伴天連追放令(1587年)以降、キリシタン(キリスト教徒のこと)への禁教政策が強まっていたこともあり、平戸でも厳しい弾圧が行われました。宣教師や信者は捕らえられ、国外に追放されるか処刑されました。迫害を恐れ、キリスト教を捨て仏教徒になる者もいましたが、中には表向きは神仏を祀りながら密かにキリシタンの信仰を守る潜伏信者も生まれました。しかし、宣教師はことごとく国外に追放されてしまったため、キリスト教の教義は時間がたつにつれ希薄になっていきました。その一方で、地元で殉教した者たちに対する崇敬の念が潜伏信者らの精神的なよりどころとなっていきました。こうしてこの地に伝わったカトリックは、独特の信仰形態「かくれキリシタン信仰」へと変容していくのです。 かくれキリシタンの島 1873年に明治政府がキリシタン禁制の高札を撤廃すると、約250年ぶりにヨーロッパから神父が来日し、カトリックの布教を始めました。各地の潜伏信者らは、カトリックへ改宗することを求める神父の言葉から、自分たちの信仰が再布教されたカトリックとかなり違っていることを知って戸惑います。しかし、カトリックへの改宗はすなわち、先

潜伏キリシタンの祈りの日々を今に伝える島の教会 - 小値賀

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旧野首教会 安住の地で守り抜かれた信仰 小値賀町を構成するのは火山活動で生じた大小17の島々。その中で、最も大きいのが小値賀島、その次が野崎島です。小値賀島が平坦なのに対して、野崎島は海面に山が突き出したような地形をしています。島の北端にあり704年創建と伝わる沖ノ神嶋神社が五島列島一円の信仰を集めると共に、小値賀島の住民にとっては薪山の役割も果たしていました。 野崎島からは2001年を最後に住民がいなくなりましたが、キリシタンの集落だった島中央部の野首には、旧野首教会が残されています。この教会は五島列島を中心に多くの教会堂を建設した鉄川与助が、初めて手掛けたレンガ造りの教会です。 教会の周囲には昭和40年代まで信徒たちが暮らしていましたが、今は石段を残して住居は跡形もありません。地面がまるで丁寧に芝を刈り込んだように見えるのは、野性のキュウシュウジカの仕業。樹木の葉もシカが届く範囲は綺麗に食べられています。 野崎島にはかつて三つの集落があり、昭和30年代には約650人の島民が暮らしていますた。最も古い集落が平野部にあった野崎で、沖ノ神嶋神社の神官家を中心にした氏子集落。他の二つは、外海地方から移住した潜伏キリシタンが作った野首と舟森の集落です。 野崎に最初にキリシタンが入ったのは江戸時代の末。1797年、五島藩が大村藩に対して開拓民の受け入れを申し入れ、迫害を逃れ安住の地を求めるキリシタンが五島へ移り住みました。 小値賀は平戸藩の所領でしたが、2組のキリシタンが野首に住み着きました。もう一つの舟森集落の始まりについては、次のような逸話が残ります。 小値賀島の船問屋田口徳平治は、大村の浜辺で翌日に処刑されるという3人のキリシタンに出会いました。徳平治は3人を船に隠して救い出し、舟森に住まわせました。野崎島の南端に位置する舟森は小さな入り江に急峻な斜面が立ち上がり、人の侵入を拒むような場所です。その険しい斜面を切り開いて段々畑が築かれました。 江戸幕府が出した禁教令は明治政府が樹立された後も続き、島でひそかに暮らしていた人々にも過酷な弾圧が及びます。1869(明治2)年、二つの集落合わせて15戸の住民が平戸に連行され、拷問の末に改宗させられました。 島に戻った人々が信仰の自由を得た