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江戸~東京の街を作った国産良材「西川材」に学ぶこと - 飯能

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江戸時代から重宝される都から最も近い林業地 埼玉県の南西部、荒川支流の入間川など数本の川が交わる一帯を西川地域と呼びます。この辺りは、古くから良質なヒノキやスギを育む林業地です。広く知られるようになるのは徳川5代将軍の頃。飯能周辺から切り出した木材で筏を組み江戸へ運んだため「江戸の西の方の川から来る木材」ということで、こうしたヒノキやスギは「西川材」と呼ばれるようになりました。 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火事の多かった江戸の都は、常にたくさんの復興用材を必要としました。そんな一大マーケットへ、河川を利用して大量の木材を供給することが出来たのです。 最初は天然木を切り出していましたが、じきに本格的な植林が始まりました。山師による丁寧な育林作業のおかげもあり、真っすぐに伸びた良木を切り出すことが出来ました。江戸後期までに飯能の林業は大いに栄え、貨幣経済が発達。当時の武蔵国内において飯能は、小京都と呼ばれた川越に次ぐ大きな街となりました。 「筏による木材の運搬は大正年間まで続きました。その後は鉄道が主流になります。今では影も形もありませんが、昭和40年頃までは現在の飯能駅周辺に材木問屋が建ち並んでいました」 飯能で製材所を営む本橋武久さんは木材で繁栄した街の歴史をこう説明します。昭和40年と言えば、国内で住宅建築ラッシュが始まった頃。住宅を造るには国産材だけでは間に合わないということで、北米材や南洋材(ラワン材)など圧倒的な低価格と品質を併せ持った輸入材が本格的に入って来ました。 「それでも西川材は、節が少なく年輪が詰まった質の高さから、柱や内装用に使われました。昔の家屋の通し柱は20尺(6m)のものが多かったので、その高さになるまでに枝打ちを済ませ、節を出にくくしておくという山師の仕事が西川材の品質を保っていました」 と話すのは、西川地域の森林資源に詳しい協同組合フォレスト西川の大河原章吉理事長。ところが今の住宅は、柱や筋かいなどが壁面の外に現れることがないように覆い隠す大壁構造が主流。柱に節があろうがなかろうが関係がありません。結果、安価な材料が台頭し、西川材の価格も大きく下がりました。 「漢字の『木』の字を囲うと『困』という字になります。人目に触れなくなった木も、その木を扱う我々も困っているんですよ」 と大河原さんは冗談めかして胸の内を明かしてくれました

300年の歴史と伝統を現代に生かす足袋の町 - 行田

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足袋の縫製 伝統の産業と新たな挑戦 行田は北の利根川、南の荒川に挟まれた平坦な地形で、肥沃な大地を生かした藍染の綿布の製造が盛んでしたた。それを原料にして、江戸中期に足袋の生産が始まり、足袋づくりは忍藩士の内職として奨励されたと言われています。 明治になるとミシンが導入され、日清・日露戦争の軍事用の足袋の需要もあって、生産量が増大。明治43年には行田電燈株式会社が設立されてミシンの電動化が進み、行田の足袋産業は飛躍的な発展を遂げていきます。それに伴い、染色工場やミシン商、鉄工場、印刷業、箱屋など、足袋に関連する産業も活気づきました。行田足袋は東北地方や北海道へ販路を広げ、最盛期の昭和10年頃には市内に200社以上の足袋商店があり、全国シェア8割を占めました。 戦後は洋装化が進んで足袋の需要は激減し、足袋商店の多くは被服生産などに転換していきました。現在、市内で足袋生産を続ける会社は12軒ほど。その一つ、きねや足袋を訪ねて、3代目社長の中澤貴之さんに工場を案内してもらいました。 足袋づくりには、裁断前に布を重ね整える「ひきのし」に始まる13工程があり、分業で行われます。裁断に用いるのは創業当初から約70年使われてきた裁断機と金型。どんな足にもフィットするようにと、祖父や父の代に作られた鉄製の金型は、パターンやサイズの異なる1700種類があります。 縫製は九つの工程に分かれ、甲の親指側と四つ指側、それに底のパーツを、各工程に合うミシンを使って職人が縫い合わせていきます。つま先部分を縫う「つま縫い」用ミシンは、100年以上前に輸入されたドイツ製の製靴用ミシンを改良したものです。立体的な膨らみをつけながら縫うには、このミシンと職人の技が不可欠だと、中澤さんは言います。 足袋の金型 その伝統の製法を生かして、中澤さんが開発したのが「ランニング足袋」。きっかけは裸足のマラソン・ランナー、高岡尚司さんの「裸足感覚で走れる足袋がほしい」という依頼でした。足袋の可能性を広げたいと考えていた中澤さんは、試行錯誤の末、天然ゴム製のソールを縫い付けたランニング足袋を作り上げました。 地下足袋で学校生活を送る 行田市立東小学校の児童たち 偶然にも時を同じくして、ランニングシューズ開発に挑戦する行田の老舗足袋屋の

江戸時代から連綿と続く日本一の人形のまち - 岩槻

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岩槻のひな人形 関八州の北の砦として築かれた岩槻城 岩槻は関東平野のほぼ中央にあります。そのため、軍事上の拠点として重視され、室町時代には関八州の北の砦として岩槻城(別名白鶴城)が築かれました。築城したのは、江戸城や河越城(川越)と同じ、太田道灌であるというのが通説となっています(※近年、敵対する古河公方方の成田氏築城説が有力視されていましたが、その根拠となる史料にも新解釈が示され、現時点では太田氏築城説と成田氏築城説が並立しています)。 その後、関東に入った徳川家康も、この地の重要性を認識。譜代家臣の高力清長を岩槻に配置し、以後、岩槻は徳川家譜代大名の居城となりました。更に江戸中期には第9代将軍家重の側近大岡忠光が入り、武蔵岩槻藩が確立しました。天守はありませんでしたが、天守代用の櫓として本丸に2層2階の瓦櫓があり、他に 杮 葺き2層2階の二重櫓と、やはり 杮 葺きの1層1階の櫛形櫓が本丸に存在したといいいます。 現在、城跡は岩槻城趾公園となっており、桜の名所として知られます。園内の菖蒲池には、公園の象徴とも言える、八つに折れ曲がった朱塗りの八つ橋が架かっています。また「人形のまち岩槻」だけあって、人形塚や童人形が時を告げるからくり時計などもあります。 園内では毎年3月3日直前の日曜日に、ひな祭りの起源と言われる流しびなが行われます。子どもたちの無病息災を祈り、さん俵に乗せた和紙人形を菖蒲池に流す、岩槻の春の風物詩です。また、その前後3週間ほどは、「まちかど雛めぐり」というイベントも開催され、伝統工芸士の作品や、各商店に伝わる古い人形などが飾られ、にぎわいを見せます。 衣装着人形の制作風景 更に毎年11月3日には、人形塚で人形供養祭が行われます。古くなって飾らなくなったり、壊れたり、使わなくなった人形を並べ、出席者は約20人の僧侶による読経の下に焼香。人形の持ち主は、日本の人形の原形と言われる天児に見守られながら、供養札をお焚き上げして冥福を祈ります。岩槻人形協同組合が、人形の行く末に対しても責任を持つべきとの考えから、執り行っています。 日光東照宮造営と岩槻人形 岩槻人形の始まりは、江戸初期にさかのぼります。3代将軍家光は、日光東照宮造営のため、全国から優れた工匠を集めました。江戸から