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やわらかな和紙の肌合いに包まれた光のオブジェが、うだつの町に - 美濃

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うだつと和紙の浅からぬ縁 夕方5時半、路上に並んだ作品が一斉に点灯すると、通りを行く人々からドッと歓声が湧きました。伝統的建造物群保存地区に指定されている通称「うだつの上がる町並み」を、美しいあかりで彩る「美濃和紙あかりアート展」の幕開けです。火災の類焼を防ぐ防火壁うだつと和紙、美濃市が誇る二大名物が共演するこのイベントは今年で15回目を数えます。 中京圏はもちろん関西方面からも訪れる人々のお目当ては、やわらかな光を放つ美濃和紙で作られた照明作品です。思い思いに象られた独創的なあかりのオブジェは、夕闇の古い町並みと相まって幻想的な世界を生み出し、人々を魅了していました。 このイベントはもともと市政40周年事業の一つとしてスタートしました。最初は82点の展示作品に対し3000人が集まった程度でしたが、今では600点近いあかりアートを見物するために2日間で延べ13万人もの人々が訪れます。 岐阜県の旧国名である美濃で生まれたことから美濃和紙と呼ばれます。かつて「和紙といえば美濃紙」と言われるほど世に知られた紙で、薄くて丈夫、繊維が均等に絡み合い、すきムラがないことから主に障子紙に用いられました。 歴史は古く、奈良の正倉院に残る現存最古とされる702年の戸籍用紙が、美濃で作られた和紙であることが分かっています。現在でも国宝や重要文化財となっている書画の修理に使われることが多く、文句なしの最高級品。これほど高品質の和紙を産出してきた背景には、美濃の国ならではの地理的な要因があります。 「そんなに山深くないので林業をやるほどでもない。かといって、農業を行うほど開けた場所もない。だけど質の良い楮と良質な水には困らなかったので、紙すきが一気に発展したのでしょう」 そう分析するのは、美濃和紙の里会館の市原俊美館長。和紙作りには、紙の原料となる楮をさらして漂白するにも、すき舟と呼ばれる大きな桶で紙をすくにも大量の奇麗な水が欠かせません。美濃市を流れる板取川は清流長良川の支流で、天然アユが生息する美しい川です。板取川流域の農家はこの恩恵に預かり、紙をすき、やがてこの地に和紙産業が根付きました。日本中から質の良い楮が集まるようになると、更に質の良い和紙を世に送り出しました。紙を扱い財を成した商人たちが築いた町家の屋根には、次から次へうだつが上がりました。裕福でなければ造れなかったうだつは富

頬を抜ける風が心地よい、山深き奥飛騨・神岡へ - 飛騨

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レールマウンテンバイク・ガッタンゴー 廃線の線路をこぎ進む 線路を走るのは電車でもトロッコでもなく、自転車でした。もう少し正確に説明すると、廃線となった線路の幅に合わせた鉄製の特製フレームに2台のマウンテンバイクを固定し、自転車をこぐことでレール上を疾走することが出来るという乗り物です。周囲を山に囲まれた飛騨の大自然を、心地よい風を受けながらペダルをこぐ新感覚のこのアクティビティは、レールの継ぎ目を通過する時のガタンゴトンという体感音から「レールマウンテンバイク・ガッタンゴー」と名付けられました。 飛騨市神岡町は、鉱山と共に発展してきた町です。奈良時代に黄金を産出して天皇に献じたという言い伝えがありますが、1874年に三井組が近代的な鉱山経営を始めた頃から、鉱山町としてめざましい発展を遂げました。総採掘量は約130年間で7500万トンに達し、亜鉛、鉛、銀鉱山として一時は東洋一と称されました。ところが、円高不況やさまざまな国内外の要因から、2001年に鉱石の採掘を中止。精製した亜鉛や鉛を運搬するために作られ、鉱山と共に1世紀近くの歴史を刻んできた第三セクター神岡鉄道神岡線も06年11月末に廃止されました。廃線にはなったものの線路だけはなんとか残したいと、有志が発案したのがレールマウンテンバイクです。 有志の一人が、サイパン旅行で体験したアクティビティがヒントになりました。サイパンのジャングルには今も旧日本軍が敷設した軌道が残っており、そこをマウンテンバイクで走るツアーがあります。軌道の大部分は土に覆われていますが、ちょうどレール部分がくぼみの底となる状態で整備されており、レールの上をマウンテンバイクで走ることが出来ました。 この体験が非常に爽快で、神岡の廃線にも応用出来ないかということからプロジェクトはスタート。何度か試行錯誤を繰り返し、一般の人が乗っても安全な現在の仕組みを作り上げました。 レールマウンテンバイク・ガッタンゴー 神岡鉄道が廃線となった4日後、既に試作が完了していたレールマウンテンバイクに搭乗し、当時の市長や地元ライオンズクラブのメンバーを含めた約10人が始発駅である奥飛騨温泉口駅から終点の富山県富山市の猪谷駅までの全線19.9kmを往復。自らこいで線路を進む感覚と、トンネルと鉄橋が連続する景

水の流れる音が聞こえる奥美濃の城下町 - 郡上

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郡上八幡を代表する冬の風物詩「鯉のぼり寒ざらし」 水の町・郡上八幡の水利用方を学ぶ 郡上八幡は水の町です。 町中を歩くと、いつでもどこでも水の流れる音が聞こえてきます。 町には、奥美濃の山々を源とする大小の川が流れ込み、最も大きな吉田川は、町の西側で清流・長良川に合流します。碁盤の目の町並みには用水路が張り巡らされ、そこを勢いよく水が流れています。 用水路は、江戸時代の大火をきっかけに整備されました。吉田川の北に広がる北町は1652(承応元)年の大火でほぼ全焼。寛文年間(1660年頃)に城下の整備を進めた藩主・遠藤常友は、4年の歳月をかけ、防火を目的に、町割りに沿って用水路を築造しました。この水は御用用水と呼ばれ、城下の下御殿や家老屋敷にも水を供給していました。 北町は1919(大正8)年にも大火に遭い、再び全焼。江戸時代の町割りが細分化され、袖壁が微妙にずれながら連続する独特の景観が生まれました。この時に用水路も現在の形に付け替えられ、各戸の軒下には、防火用のブリキのバケツが吊るされるようになりました。 郡上八幡には、こうした用水路があちこちを流れ、全部で六つの系統があります。取水源も川から引き込むものと、山の湧き水、地下の井戸水と、用水ごとに異なっています。 御用用水と平行して流れる柳町用水は、吉田川の支流の一つ初音川の系統で、他の用水路への分水点が1カ所ありますが、ほぼ独立した用水となっています。300年の歴史を持つ柳町用水は、旧武家地の歴史的町並みを残す地区を流れ、簡易カワド(洗い場)を作るための堰板を設置出来る家も多く見られます。堰板は文字通り、水をせき止めるためのもので、家の前の用水路にはめ込んで水位を上げ、そこで洗い物などをします。 郡上八幡・尾崎町の水舟 また小駄良川の西岸、旧越前街道沿いにある尾崎町では、背後の山から湧き出る6カ所の水舟や井戸が「組」と呼ばれる昔ながらの共同体によって維持されています。水舟とは2~3層に分かれた水槽で、尾崎町では山の湧き水をまず飲み水として使い、次に野菜や食器洗いにと、上手に使い分けていいます。我々は毎日、炊事、洗濯、風呂、トイレと、大量の水を使い、そのまま流していますが、郡上の水利用を少しは見習いたいものです。 郡上の清流