西がフグなら、東はこの私。「胆」であなたを魅了します - 北茨城

「東のアンコウ」不遇の時代

茨城県は東日本を代表するアンコウの産地です。中でも県最北端、北茨城市の平潟港は県内最大の水揚港です。

親潮と黒潮が交差する常磐沖はエサが豊富です。春に産卵を控えているため、海の底で身体にたっぷりと栄養を蓄わえ込んだこの時期のアンコウは大変美味。

旬の味を本場で堪能しようと平潟を訪れる人々は後を絶ちません。定番はアンコウ鍋ですが、そんなにうまいのであれば、いろいろな食べ方があるのだろうと、地元の人に尋ねると意外な答えが返ってきます。

「地元の人はアンコウって食べないよ。特に鍋はね」

平潟の人々はアンコウを「猫またぎ」と評していた時代があります。つまり、猫もまたいで通るぐらい見向きもされない魚という意味です。

今でこそフグやヒラメ並みの価値ある高級魚ですが、30年前は捨てるほど捕れた魚でした。さすがに捨ててしまうことはなかったといいますが、買ってまで食べる魚でなかったのは確かです。

平潟港

当時は鍋で食べるのはまれで、アンコウの皮や身を茹で、酢味噌に肝を混ぜる「とも酢和え」で食べる人がほとんどだそうです。今でも地元の人たちがいちばんおいしいと思うアンコウ料理は鍋ではなく「とも酢和え」だといいます。

アンコウ鍋の街・平潟が誕生するまで

日曜の昼、競りがあるというので港へ行ってみました。底引き漁で捕れたアナゴやヒラメ、イカにタコなど実にさまざまな種類の魚の姿が見えます。

平潟港は底引き漁が盛んです。漁場は水平線の向こう、常磐沖の水深100〜300mの海底です。日曜の昼に港に戻ってくる船は、土曜日の午前2時には出航しますから、海の上で一晩泊まり掛けで漁を行います。多い時で週に3度は漁に出ます。

水揚げされたアンコウは築地市場に出荷されますが、今では地元でもニーズが高くなっています。温泉街でもある平潟には民宿が20軒近くあり、どこもアンコウ料理が定番です。地元の民宿では、築地市場に並ぶより早くさばかれた新鮮なアンコウが食べられるのが売り。これを目当てに冬の平潟に人が集うのです。

平潟港でアンコウが捕れるようになったのは、底引き網漁が始まった30年ほど前。当時の漁は高級魚のヒラメ狙いでした。もともとこの辺りには、風光明媚な五浦海岸を始め美しい海が広がっています。夏ともなると海水浴客で界隈の民宿はにぎわいました。夏に民宿で食べた新鮮な魚介の味が忘れられなかったのか、冬になっても客が集まるようになりました。この時、お客さんに出していたのが鍋です。しかもこの時期よく捕れ、安く手に入ったアンコウの鍋でした。


「アンコウの鍋目当てでお客さんが来始めるようになったのは10年ぐらい前から」と話すのは、平潟港で民宿を営む篠原聡さん。アンコウ鍋の認知度が爆発的に上がったのはその後のメディアの影響によるものですが、アンコウにスポットライトを当てたのは、民宿の功績が大きいことは間違いありません。

無水で煮込む「ドブ汁」の魅力

民宿で出された鍋というのが、アンコウ鍋のルーツ「ドブ汁」でした。もともとは、料理をするための水を積んでいない漁船の上で考案された漁師料理だけあって、作り方は合理的です。水を1滴も使わず、アンコウの身から出る水分だけで身と肝を味噌で煮込みます。野菜は入っても大根とネギといったあり合わせのみで、シンプルかつ濃厚な味わいを楽しめます。

アンコウ鍋のルーツ「ドブ汁」

が、アンコウが見直され、その値が上がると、身を大量に使うドブ汁は、手頃な民宿料理ではなくなってしまいます。そこで、身を少なくする代わりに白菜などの野菜を加え、濃厚な汁を出し汁で薄めて食べやすくし、鍋料理風にアレンジしたものが、アンコウ鍋ということになっているようです。

「よう」というのは、ドブ汁とアンコウ鍋の明確な定義づけが難しくなっているからです。民宿ではそれぞれ独自の色を出そうと、いろいろな工夫を凝らしたアンコウ鍋やドブ汁を考案し、新たな味覚を追求しています。ただ、ドブ汁にしてもアンコウ鍋にしても、生の肝を鍋に入れて空煎りをしたものに味噌を加える作り方は、この地方ならではのものです。鮮度の高い胆をすりつぶして煮込んだ鍋の味は格別です。

2007年取材(写真/田中勝明取材/砂山幹博)


■写真説明

●平潟港:天然の入り江を利用した良港で、江戸時代は東廻り航路の寄港地として栄えました

●近隣の民宿旅館や水産加工業者らの有志で始まった朝市も、今年で4年目を迎えます

●切り立つ崖の先端に建つ朱塗りの六角堂は、かの岡倉天心お気に入りの場所でした。明治時代、日本美術の復興・保存に励み、日本文化を広く海外に紹介し、自らも創作活動にいそしんでいた天心が、晩年、思索と静養の場として居を構えたのが人里離れた五浦でした。衰退が著しかった日本画の新たな創造運動を進めるために創設した日本美術院の一部をこの地に移転し、横山大観や下村観山ら青年画家を引き連れて移住してきたのは1906(明治39)年のことです。朱塗りの六角堂を中心に、100m圏内に彼らの家が建てられ、家族も移り住まわせました。美術院の研究所は、海岸線に突出した岩盤の上に建てられ、足下には打ち寄せる波が見下ろせたといいます。まさに彼らの背水の陣を表現したかのような出で立ちでした。この研究所で生まれた数々の作品は、後に近代日本画史に残る名作となっていきます。現在もこの地には、当時をほうふつさせる六角堂や日本美術院跡地などの史跡が点在し、散策を楽しむことが出来ます

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