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『ふるさと探訪』都道府県別記事一覧

2006〜2019年に、雑誌の企画で訪ねた全国各地の風物を、再構築して掲載しています。 ■写真/田中勝明(erutcip) ■取材/砂山幹博( CUBE ) 他 ●北海道 新ひだか町「 仔馬はここで競走馬となる。サラブレッドのふるさと日高 」 白老町「 アイヌ文化が根付く、食材の王国 」 新得町「 新得の自然に育まれ、磨き上げられたナチュラル・チーズ 」 ●青森県 黒石市「 藩政時代の面影が薫る商人街の元祖アーケード 」 五所川原市「 三本の弦が放つのは津軽の風土が育んだ魂の響き 」 藤崎町「 雄大な岩木山を望む『ふじ』の生まれ故郷を訪ねる 」 ●秋田県 能代市「 日本海を臨む木都上空で、巨大アッカンベーが風に舞う 」 男鹿市「 冬の男鹿を熱くする神の使いと神の魚 」 三種町「 清らかな水が育む初夏の味覚じゅんさいの里 」 ●岩手県 盛岡市「 冷麺、じゃじゃ麺、わんこそば。麺都・盛岡で、三大麺を食べ尽くす 」 一関市「 奇岩そびえる山水画の世界、進みゆくはこたつ舟 」 二戸市「 国産の伝統を守り、今新たな時代を迎えた漆の里 」 ●宮城県 気仙沼市「 最高級の代名詞『気仙沼産』は、残さず全て使い尽くす 」 塩竈市「 震災を乗り越え、明日へ踏み出す人々 」 ●山形県 鶴岡市「 和竿にも、鞠にも感じる庄内、藩政時代の面影 」 上山市「 自然の恵みに体も心も喜ぶ上山型温泉クアオルト 」 金山町「 町民と行政が一体となって取り組む、街並みづくり100年運動 」 ●福島県 白河市「 白河に春を告げ、人々に福を呼ぶ縁起物 」 会津美里町「 会津始まりの地で味わう温故知新の旅 」 ●茨城県 北茨城市「 西がフグなら、東はこの私。『胆』であなたを魅了します 」 常総市「 鬼怒川水運隆盛の名残をとどめる河港町 」 筑西市「 伝統をベースに新しいものにもチャレンジする筑波山西麓の町 」 ●栃木県 宇都宮市「 色褪せない存在感を示し続ける美しくも優しい石のぬくもり 」 大田原市「 再び畑を赤く染めるトウガラシの里 」 足利市「 多彩な観光資源を持つ北関東の歴史町 」 ●群馬県 高崎市「 待ちに待った季節の到来に、氷上の太公望は、寒さを忘れて竿を振る 」 渋川市「 古き良き情緒あふれる石段のある温泉街 」 桐生市「 懐かしいノコギリ屋根工場に新たな息吹をもたらす試み 」 ●埼玉県 飯能市「

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2006〜2019年に、雑誌の企画で訪ねた全国各地の風物を、再構築して掲載しています。 ■写真/田中勝明(erutcip) ■取材/砂山幹博( CUBE ) 他

雪国に息づく伝統の技術は、創造意欲と先見性のたまもの - 十日町

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豪雪地帯の農閑期が生んだ芸術品 模様がカスレて見えるから「絣(かすり)」と呼ぶのだといいます。あらかじめ模様を染め込んだ絹糸を織機で交差させると出来る絣模様は、確かに交差の微細なズレによってカスレているように見えます。 「絹糸に糸をくくり付けておいて、これを染料につけると、くくった部分だけが白く残る。この白い部分が織り上げた時に模様となります」と話すのは、「十日町絣」を織り続ける伝統工芸士の渡邉孝一さん。ご両親も伝統工芸士として一つ屋根の下で絣織りに明け暮れます。 十日町絣は、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の両方を染め分けて、織機の上で模様を再現します。基本の絵柄は20種類程度。模様のパターンは方眼紙を使って考案されます。絣模様の大小や組み合わせ、色などを変えて、バリエーションを増やしています。 「伝統的な模様とはいえ、少なからず流行はありますよ。今ならこんな感じ」と出してくれた反物が前ページの3点。1反が13m。反物をここまで織り上げて1着の着物を作るには、最低でも3カ月はかかります。冬のほとんどが雪のため外から閉ざされてしまうこの地域では、その昔、機織りは長い農閑期の生業でした。そこらじゅうの農家から織機の音が響いていました。現在、十日町絣を織っているのは、渡邉さん一家を含めわずか5、6軒だけとなりました。 麻から絹への大転換 十日町の織物史をひも解いてみると、他の地域にはない変遷をたどっています。 十日町で絣織りなどの絹織物の生産が始まったのは、今から200年前の江戸時代後期から。一帯はもともと麻織物を作る技術も盛んで、その集大成とも言われる高級夏織物の「越後縮」を産出しています。越後縮は幕府の御用縮にも指定されており、江戸末期まで武士や上流階級を中心に幅広く供給されました。ところが明治になると木綿や絹織物が普及し、麻織物は衰退。この機に十日町は、いち早く絹織物の産地へと転換を遂げます。こうして麻織物の技術と伝統を生かした「十日町絣」が誕生しました。 やがて、絹織物の産地として歩み出した十日町に最初の大ヒット作「明石ちぢみ」が登場します。播州明石で生まれて京都西陣を経て、明治20年頃に十日町で完成を見た明石ちぢみは、シャリッとした清涼感のある夏の着物です。1929(昭和4)年には「越後名物かずかずあれど、明石ちぢみに雪の肌……」と唄われるほどの人気を博しま

野球小僧への第一歩、万葉の里が生んだ必携スポーツ用品 - 三宅

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世界に誇る地場産業 ブラジルでは、子どもが数人集まれば自然に球蹴りが始まるといいますが、かつての日本でもこれと同じように、男の子を夢中にしたのが、球投げと球打ちでした。そして、いつしか球打ちの棒はバットに代わり、手にはグローブがはめられました。たいてい新品ではなく、お下がりではありましたが、初めて野球用品を手にしたその瞬間、野球小僧は決まって顔をくしゃくしゃにして喜んだものです。 奈良県北西部、奈良盆地のほぼ真ん中に「グローブの街」三宅町はあります。『万葉集』の中にも「三宅の原」「三宅道」と詠まれているように、万葉の時代からその名はありますが、大正の半ばに野球用のグローブやミット、スパイク、昔は革製だったスキー靴の生産技術が導入されてからは、スポーツ用品産業の街として知られるようになりました。1970(昭和45)年頃に最盛期を迎え、グローブで年間60万個を生産。一つひとつ職人の手によって作られたこれらのグローブは、国内のみならず野球の母国にも認められ、累計587万個がアメリカへ輸出されました。と言っても、これは過去の話。近頃は事情が違うようです。 「最近では、韓国や台湾製のグローブ・ミットが国内に入ってきています。国産品と比べてもそれほど品質が変わらない上、格段に安価。そのため今ではグローブ・ミットの生産量は最盛期の10分の1にまで落ちました」と話すのは、吉川清商店の吉川雅彦さん。三宅町が誇るグローブ作りの職人です。 スポーツメーカー大手数社でも硬式用と、軟式用の上位クラスを除いたほとんどのグローブを海外生産に頼っていますが、細かなオーダーに迅速に対応出来るということで、国内産のニーズも少なからずあります。吉川さんが作るのは、そんなニーズに応えるグローブです。小売りはせず、複数のスポーツメーカーからの受注をこなし、40種類近い硬式用グローブを年間で約3000個生産しています。 使い手の感性に訴えかける匠の技 吉川さんの作業場にお邪魔しました。大きな機械がたくさんあって、ガシャガシャ音をたてている工場を想像していましたが、機械類は思った以上に少ないのが印象的でした。それだけに、職人の技が必要とされることを感じる空間となっています。 作業場の入り口付近に積まれているのは、染色済みの牛の皮でした。複数の皮からパーツを取ることもありますが、目安として2歳の牛皮1頭分でグロー

カレーライスの脇役が、ここでは主役。鳥取が誇る「砂丘の宝石」を訪ねて - 鳥取

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砂丘地という特異な環境が生み出した地場作物 総務省が都道府県庁所在地を対象に行った家計調査によると、取材時点で3年平均のカレールウ購入数量と消費金額が最も多かったのが鳥取市でした。この話を聞いて思い当たったのが、ラッキョウです。二十世紀梨と共に鳥取を代表する特産品です。 ラッキョウが福神漬けと並んでカレーの付け合わせとして人気が高いのは周知の事実。「うまいラッキョウがあるからカレーもすすむのだろう」。そう考えるのも無理はないと思うのですが、結果、それは的外れだったようです。真偽のほどは定かではありませんが、女性の就業率が高い鳥取市では共働きが多く、作り置きが出来るカレーが重宝されているのだそうです。 東西16km、南北2kmに及ぶ鳥取砂丘の東部にある福部町は、日本全国にその名を轟かせる「砂丘ラッキョウ」の一大生産地です。年間の出荷量は1400トン。東京ドーム26個分に相当する125ヘクタールの砂丘地で、約300軒の生産者によって作られる砂丘ラッキョウは、パリッとした歯切れの良さとみずみずしさが特長です。水分を多く含むのは、水を溜め込まない砂地で育てられるためです。また、土ではなく鳥取砂丘の細かな砂粒で栽培されるので、粒の白さが際立っています。土で栽培されたラッキョウはこれほど白くはならないそうです。 歴史は古く、江戸時代に小石川薬園(東京)から持ち帰ったラッキョウが広がったという説が有力です。その後、農家の庭先で自家用として栽培され続けてきましたが、本格的な大規模栽培が始まったのは1953(昭和28)年にスプリンクラー灌水が導入されてからのことです。古くから砂丘の農業利用について研究を行ってきた鳥取大学乾燥地研究センターの上山逸彦さんは、「砂地の特性を理解して灌水のコントロールさえうまく行えば、砂丘地での作物栽培は比較的容易」と話します。 ラッキョウはほとんど水いらずで育つ作物ですが、植え付けの時には多くの水を必要とします。 「スプリンクラーなどの灌水施設がない時代は、農家(主に女性)が桶に水を汲んで灌水しました」(上山さん)。桶の底には穴が空いており、その穴を栓で塞いで畑まで運び、畑では栓を抜いて、水が1カ所にたまらないよう走ったといいます。しかも、夏には地表面温度が50度以上にもなる灼熱の砂地をです。あまりの苛酷さから、後にこの桶には「嫁殺し」という名が付けられ

石を知り尽くした職人の一彫りが、天然石に新たな命を吹き込む - 対馬

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芸術品の域にまで高められた硯 九州の北方、玄界灘に浮かぶ国境の島・長崎県対馬。島の南部、奥深い山間を流れる若田川の川辺で採取される若田石は、国内でも有数の硯(すずり)の良質原料石です。色は青みを帯びた漆黒、表面に美しい斑紋や条線が浮かび上がる石は、堆積した粘土が幾層にも重なり固まって形成された頁岩(けつがん)の一種です。 この石が持つ文様をそのまま生かして作られる若田石硯は発墨性に優れ、多くの書家から名品として高く評価されています。嘘か誠か平安時代中期に紫式部が『源氏物語』を執筆した際に使用したとも伝えられます。現在、島に4人だけとなってしまった硯職人の一人、広田幸雄さん(82)に事の真相を伺いました。 「どのようにして若田石硯が玄界灘の孤島から京の都に渡ったのか、とてもロマンのある話ですが、これを立証するものが残っていないので真偽の程は分かりません。ただ、江戸初期に若田川で硯の形状をした石を拾った人物が、この石を天然の石硯として高く評価したという記録は残っています」 記録とは、大儒者・林羅山が著した『霊寿硯記(れいじゅげんき)』で、この中で天然の石硯は質が良い上、美しい文様を兼ね備えていることから、中国硯の最高峰「端渓」「羅文」に優るとも劣らないと評されています。 実のところ、若田石硯はいつの時代から作られているのか、誰がどのように伝えたのかは一切不明です。明治の中期から商品として本格的に制作され、大正末期に漆塗りで光沢を出す現在の技法に改められました。1991(平成3)年には長崎県伝統工芸品に指定され、全国的に知られるようになりました。 若田石に魅せられて 「硯作りは石で決まる」と広田さんは断言します。従って、職人の仕事は石選びから始まります。 自宅の裏に作った作業場から、のどかな田園地帯を5分も歩けば採石場の若田川です。川縁に畳を何枚も重ねたような縞模様の岩が続いていますが、この岩こそが原石の若田石です。岩々をじっと見つめ、その中から「良い石」を見つけると、鍬で1枚1枚岩盤から剥がしていきます。 「良い石とは、良く墨が擦れる石。つまり『鋒芒(ほうぼう)』が適度に細かい石」と広田さんは言います。「鋒芒」とは微細な石英粒の集まりのことで、ちょうど下ろし金のような役割を果たします。石英の量が多いと墨が良くおり、少ないと墨が滑って発墨しません。鋒鋩が細かすぎず、荒すぎ

西がフグなら、東はこの私。「胆」であなたを魅了します - 北茨城

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「東のアンコウ」不遇の時代 茨城県は東日本を代表するアンコウの産地です。中でも県最北端、北茨城市の平潟港は県内最大の水揚港です。 親潮と黒潮が交差する常磐沖はエサが豊富です。春に産卵を控えているため、海の底で身体にたっぷりと栄養を蓄わえ込んだこの時期のアンコウは大変美味。 旬の味を本場で堪能しようと平潟を訪れる人々は後を絶ちません。定番はアンコウ鍋ですが、そんなにうまいのであれば、いろいろな食べ方があるのだろうと、地元の人に尋ねると意外な答えが返ってきます。 「地元の人はアンコウって食べないよ。特に鍋はね」 平潟の人々はアンコウを「猫またぎ」と評していた時代があります。つまり、猫もまたいで通るぐらい見向きもされない魚という意味です。 今でこそフグやヒラメ並みの価値ある高級魚ですが、30年前は捨てるほど捕れた魚でした。さすがに捨ててしまうことはなかったといいますが、買ってまで食べる魚でなかったのは確かです。 平潟港 当時は鍋で食べるのはまれで、アンコウの皮や身を茹で、酢味噌に肝を混ぜる「とも酢和え」で食べる人がほとんどだそうです。今でも地元の人たちがいちばんおいしいと思うアンコウ料理は鍋ではなく「とも酢和え」だといいます。 アンコウ鍋の街・平潟が誕生するまで 日曜の昼、競りがあるというので港へ行ってみました。底引き漁で捕れたアナゴやヒラメ、イカにタコなど実にさまざまな種類の魚の姿が見えます。 平潟港は底引き漁が盛んです。漁場は水平線の向こう、常磐沖の水深100〜300mの海底です。日曜の昼に港に戻ってくる船は、土曜日の午前2時には出航しますから、海の上で一晩泊まり掛けで漁を行います。多い時で週に3度は漁に出ます。 水揚げされたアンコウは築地市場に出荷されますが、今では地元でもニーズが高くなっています。温泉街でもある平潟には民宿が20軒近くあり、どこもアンコウ料理が定番です。地元の民宿では、築地市場に並ぶより早くさばかれた新鮮なアンコウが食べられるのが売り。これを目当てに冬の平潟に人が集うのです。 平潟港でアンコウが捕れるようになったのは、底引き網漁が始まった30年ほど前。当時の漁は高級魚のヒラメ狙いでした。もともとこの辺りには、風光明媚な五浦海岸を始め美しい海が広がっています。夏ともなると海水浴客で界隈の民宿はにぎわいました。夏に民宿で食べた新鮮な魚介の味が忘れられな

玉砂利の参道の先にある、神々の時代を今に伝える聖地の風景 - 伊勢

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一生に一度は行きたい夢のお伊勢参り あいにくの雨。普段ならば気落ちしてしまうところですが、今回は少し事情が違います。 「神宮は早朝、雨ならなお良い」 地元の方からこう聞いていたので、雨は願ってもない好条件。夜明け前の静寂の中、小雨にけむる伊勢神宮を訪れました。 「お伊勢さん」「伊勢神宮」の呼び名で親しまれていますが、正式名称は「神宮」。皇室の祖先神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祭る内宮(皇大神宮)と、衣食住と産業の守護神・豊受大神を祀る外宮(豊受大神宮)を中心に125社から成る神宮は、今も昔も大勢の参拝客でにぎわいます。 街道が整備された江戸時代、庶民はこぞって旅へ出るようになりました。中でも「おかげ参り」と称された伊勢参詣は人気の旅先。「伊勢に行きたい伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」と歌われるほどで、1830(天保元)年には、半年間に日本の総人口の6分の1に当たる500万人が参宮するという社会現象にもなりました。飛行機や電車で気軽に移動出来なかった当時の交通事情を考えると驚異的です。ちなみに、現在も年間600万人もの人が伊勢神宮を訪れます。 お伊勢参りには、講と呼ばれるグループで訪れるのが一般的でした。一人で行くのはお金が掛かりすぎるため、村ごとに資金を積み立てる講を作り、講単位で参宮します。いわゆる「伊勢講」です。積み立て金があるとはいえ、江戸からで往復30日は掛かる大旅行。30泊するだけの旅費を持って行ける人などほとんどいなかったといいます。満足な宿泊施設もない道中、時には危険をも冒す、まさに命懸けの参詣でした。 そんな思いまでして伊勢を訪れる人々に対し、内宮宇治橋に続く参宮街道の人々は、旅人に「施行」と呼ばれる振る舞いを行いました。新品のわらじや薬、江戸時代には珍しかった白米のおにぎりなどを無償で与え、旅人を温かく迎えました。その日、仕事が出来るのも、家族が平和でいられるのも、全ては神様のおかげ。だから伊勢の人々は、同じく神様をお参りしに来た人々に施行したのです。 伊勢中が盛り上がる、20年に一度の神様のお引っ越し 話を平成の世に戻します。 神宮では20年に1度、すべての社殿を新造し、隣接した更地に御神体を移す「式年遷宮」の儀式が行われます。始まったのは飛鳥時代の690(持統4)年と古く、中断を挟んで1300年以上続く、神宮で最も重要な祭で