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富山湾の生きた宝石は、舌の上で、甘くとろける - 富山

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富山湾、おぼれ谷の宝石 白エビだから当然白いのだろうと想像していましたが、水揚げされたばかりのそれは見事に期待を裏切ってくれました。体はキラキラと透き通り、外殻の縁だけがかすかに赤味を帯びています。体長7cmほどの生きたこのエビを見れば「富山湾の宝石」「海の貴婦人」などと形容される理由も分かります。ただし無色透明でいられるのはそう長くはありません。体内にある酵素のため時間が経つと体色は白濁し、その名の通り白エビになります。 これまで白エビは、日本海や太平洋に広く分布していると考えられていました。が、最近の調査で限られた場所にしか生息していないことが分かってきました。駿河湾の桜エビ漁に白エビが少し混じったり、新潟県の糸魚川沖で多少漁獲されることが確認されていますが、漁業として白エビ漁が成り立っているのは富山湾だけです。 白エビが生息するのは、富山湾に流れ込む河川の先に突如広がる深海の世界。河口からわずか1kmほど沖合で急にストンと深く落ち込む「おぼれ谷」と呼ばれるV字型の海谷です。最深部で300mにも及ぶこのおぼれ谷、さながら深海の渓谷といった様相です。 実際、かつては河口から湾に直接、滝のように川の水が流れ込んでいたといいます。流れ込む水は、富山市の背後を屏風のように取り囲む3000m級の山々から運ばれる雪解け水。ミネラルを豊富に含んだ川の水が、河口に近いおぼれ谷に注ぎ込まれると、そこにたくさんのプランクトンが集まってきます。白エビにとっては絶好の環境です。 庄川、小矢部川、神通川、常願寺川など富山湾に流れ込む河川の河口流域には、こうしたおぼれ谷がいくつも広がっており、白エビの漁場となっています。 一投入魂の白エビ漁 取材した頃は、富山湾全体で年間600〜700トンの白エビが水揚げされていて、そのうちのほぼ半分を射水市新湊と富山市岩瀬で分け合っています。庄川・小矢部川の河口域で漁をする新湊には白エビ漁船が13隻、神通川で行う岩瀬は6隻であるから、1隻あたりの漁獲量では岩瀬が大きく上回ります。とやま市漁業協同組合の副組合長を務め、岩瀬漁港で白エビ漁の船頭をしている網谷繁彦さんが特別に漁を見せてくれました。 午前4時30分、まだ空が白む前に漁船は岩瀬漁港を後にしました。全長18mの漁船にはレーダーなど最新鋭の計器類が充実しており、魚群探知機を頼りに船頭の網谷さんは白エビ

海運と漁業で名を馳せた日本のベニス - 射水

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細工蒲鉾 干潟に築かれた港 水深の深さで知られる富山湾。3000m級の峰が連なる立山連峰から、最も深いところで水深1000mもある富山湾まで4000mの高低差があります。しかもその高低差は直線距離で50km。平均勾配8%という急勾配の地形だから、湾にかつて潟が広がっていたとはにわかに信じがたい話です。 富山湾に面する富山新港(射水市)がある辺りはその昔、放生津潟と呼ばれる汽水潟湖でした。奈良時代に越中国司として赴任して来た大伴家持の和歌には「奈呉の江」として登場。その風景に深く感銘したといいます。中世から近世にかけて潟周辺の干拓などによる新田開発が進み、農村集落が出現すると米穀などの物資が潟の排水河川である「内川」に集積されました。藩政時代には北前船が寄港し、海運の町として大きく発展しました。昭和20年頃には、潟の沿岸でシジミが豊富に採れたそうです。近くに住んでいた方が、子どもの頃によくシジミ取りのアルバイトをしたという思い出話を聞かせてくれました。 ところが、この放生津潟を掘り込んで富山新港とする計画が持ち上がります。1950年代の朝鮮特需を契機に海運業が活性化。富山県内では富山港(富山市)と伏木港(高岡市)だけでは貨物量をさばききれなくなり、昭和30年代後半に約1.8平方kmの放生津潟を利用した掘込港湾の工事が始まりました。1968年4月の開港以来、富山新港はロシアや韓国、中国、東南アジアへの定期コンテナ航路が就航するなど国際拠点港湾として目覚ましい発展を見せています。 新港内でひときわ目を引くのが、巨大な帆船と斜張橋。前者は商船学校の練習船として1930年に進水して以来、地球約50周分の距離を航海し、1万人以上もの海の若人を育ててきた海王丸。帆を全て広げる総帆展帆の美しさから「海の貴婦人」とも呼ばれる帆船で、94年から富山新港に恒久的に係留、公開されています。 初代海王丸と新湊大橋 後者の斜張橋は新湊大橋。2012年9月の開通によって、新港の開削工事で分断されたままになっていた市の東西地域が44年ぶりに結ばれました。そんな縁起の良さもあってか、海王丸と富山新港のある海王丸パーク一帯は、恋人の聖地(特定非営利活動法人地域活性化支援センター主催)に選定されています。立山連峰を背景に帆船海王丸と新湊大橋が並

伝統を継承しながら新しいものに挑戦する越中の工芸家たち - 立山

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越中瀬戸焼庄楽窯の釋永由紀夫さんの作品 立山連峰のふもとに築かれた焼き物の里 立山連峰のふもと、広大な扇状地の要に近い上末の集落は、「越中陶の里」と呼ばれています。 この辺りの土は粘土質で、奈良、平安時代には、それらの土を使って須恵器が焼かれていました。そのため上末の「末」は「須恵」のことだとされます。江戸時代には、加賀藩主・前田利長が、尾張の瀬戸焼陶工を招き焼き物作りを始めさせました。これは越中の瀬戸焼と呼ばれ、加賀藩の御用窯として発展。江戸中期には20を超える窯があったと言われます。 が、明治から大正にかけ、多くの窯が瓦の製造に転用されるようになり、上末は瓦の産地となりました。これにより、生活の器などは自分の家で使うものを作るだけになってしまいました。このままでは、越中瀬戸焼の伝統が途絶えてしまう。そう考えた数人の窯元が、昭和の初期になって、越中瀬戸焼の試作を始めるようになりました。 その一人、釋永庄次郎さんは、加賀の九谷焼窯元にいた吉野政次さんを招聘。登り窯を新たに築き、名前の一字を取って庄楽窯とし、昭和18年から本格的に作陶をするようになりました。その後、昭和32年に吉野さんが独立。香岳と名乗り、千寿窯を築きました。現在、それぞれ孫に当たる釋永由紀夫さん、吉野弘紀さん(3代目香岳)が、窯を継承しています。 釋永由紀夫さんは24歳で庄楽窯を継ぎました。その頃は、中国や朝鮮の陶磁に興味があり、韓国での活動を考えた時期もありました。が、実際に韓国で作陶してみると、思うような風合いや味わいが出ませんでした。そこで帰国後は、想い入れのある地元の土に徹底的にこだわろうと思ったといいます。 庄楽窯の特徴である白土 釋永さんが、主に使っているのは白土と呼ばれるもので、鉄分が少ない上に粒子が細かく、高温でも焼成出来る性質を持っています。また磁器に使う陶石に比べ、作陶をする上で扱いやすい利点もあります。しかも焼成時の温度が1250度ぐらいでは陶器、1300度を超えると磁器のような味わいが醸し出されます。 庄楽窯は祖父庄次郎さんが築いた登り窯をベースに、14年前、由紀夫さんが50歳の時に再構築しました。この時に使用したレンガは28歳の時からこつこつと焼きためていたもので、韓国の窯に使われてい