伝統を継承しながら新しいものに挑戦する越中の工芸家たち - 立山
越中瀬戸焼庄楽窯の釋永由紀夫さんの作品
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立山連峰のふもとに築かれた焼き物の里
立山連峰のふもと、広大な扇状地の要に近い上末の集落は、「越中陶の里」と呼ばれています。
この辺りの土は粘土質で、奈良、平安時代には、それらの土を使って須恵器が焼かれていました。そのため上末の「末」は「須恵」のことだとされます。江戸時代には、加賀藩主・前田利長が、尾張の瀬戸焼陶工を招き焼き物作りを始めさせました。これは越中の瀬戸焼と呼ばれ、加賀藩の御用窯として発展。江戸中期には20を超える窯があったと言われます。
が、明治から大正にかけ、多くの窯が瓦の製造に転用されるようになり、上末は瓦の産地となりました。これにより、生活の器などは自分の家で使うものを作るだけになってしまいました。このままでは、越中瀬戸焼の伝統が途絶えてしまう。そう考えた数人の窯元が、昭和の初期になって、越中瀬戸焼の試作を始めるようになりました。
その一人、釋永庄次郎さんは、加賀の九谷焼窯元にいた吉野政次さんを招聘。登り窯を新たに築き、名前の一字を取って庄楽窯とし、昭和18年から本格的に作陶をするようになりました。その後、昭和32年に吉野さんが独立。香岳と名乗り、千寿窯を築きました。現在、それぞれ孫に当たる釋永由紀夫さん、吉野弘紀さん(3代目香岳)が、窯を継承しています。
釋永由紀夫さんは24歳で庄楽窯を継ぎました。その頃は、中国や朝鮮の陶磁に興味があり、韓国での活動を考えた時期もありました。が、実際に韓国で作陶してみると、思うような風合いや味わいが出ませんでした。そこで帰国後は、想い入れのある地元の土に徹底的にこだわろうと思ったといいます。
庄楽窯の特徴である白土 |
釋永さんが、主に使っているのは白土と呼ばれるもので、鉄分が少ない上に粒子が細かく、高温でも焼成出来る性質を持っています。また磁器に使う陶石に比べ、作陶をする上で扱いやすい利点もあります。しかも焼成時の温度が1250度ぐらいでは陶器、1300度を超えると磁器のような味わいが醸し出されます。
庄楽窯は祖父庄次郎さんが築いた登り窯をベースに、14年前、由紀夫さんが50歳の時に再構築しました。この時に使用したレンガは28歳の時からこつこつと焼きためていたもので、韓国の窯に使われている土レンガと同じ形状にしました。
「息子(岳さん:現在富山市で開窯)が東京芸大を卒業して戻ってきたタイミングで、長女(陽さん:庄楽窯を継承)と3人で作り直しました。前のものより小ぶりな窯にリサイズしたんですが、ちょうどアップルの創業者スティーブ・ジョブス氏から茶盌の発注があり、それを焼くために手前を穴窯にしました」
釋永由紀夫さん。後ろは自ら築窯した登り窯
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通常は、この窯に年に2回ほど火を入れていますが、私たちが取材させて頂いた時は、ちょうど陽さんが2人目のお子さんを産み産休中だったため、窯炊きのペースは抑えていました。
現在、立山町には庄楽窯と千寿窯の他、四郎八窯(加藤聡明さん)と枯芒ノ窯(北村風巳さん)があり、陽さんを加え、5人の作家が活動しています。四つの窯元は「かなくれ会」という会を立ち上げ、共同の展示会や茶会などを精力的に開催しています。「かなくれ」とは、この地方の言葉で陶片のことを指し、越中瀬戸焼の里には、これらの陶片が積まれた、かなくれ塚が残っています。それは、先人の仕事をしのぶことが出来る場所でもあり、かなくれ会では、そうした伝統をつむぎながら、陶芸の魅力を発信しています。
手間をいとわない心が生み出す和紙の魅力
庄楽窯の登り窯の裏に、かつての棚田跡があり、そこに和紙の原料となる楮が植えられています。釋永陽さんのご主人で、和紙の製作をしている川原隆邦さんの畑です。川原さんは千葉県松戸市の出身ですが、両親は二人とも富山県入善町の生まれでした。
里山を開墾して作った川原さんの楮畑
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入善の隣・朝日町には、木地師発祥の地とされる滋賀県蛭谷から移り住んだ人たちの集落「蛭谷」があります。ここに住み着いた人たちは、山に自生していた楮を使って紙漉きを始め、最盛期には120軒を超える紙漉き場がありました。蛭谷で漉かれた紙は強く丈夫で、障子紙などに重宝されました。が、村を襲った大火で、多くの道具が焼失。更に時代と共に紙の需要も変化し、いつしか蛭谷の和紙は姿を消してしまいました。
楮の繊維をより細かく崩すために木槌でたたく
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昭和30年代になって、蛭谷に住むある女性が、以前に紙を漉いていた人から漉き方を教わり、和紙を再興。女性が病に倒れた後は、夫が妻の思いを継ぎ、病床の妻から口伝えで紙漉きを習って、蛭谷の和紙を守り続けました。それが、川原さんの師となる米丘寅吉さん、ふじ子さん夫妻でした。
川原さんは蛭谷和紙が途絶えそうになっていることを知り、「蛭谷最後の紙漉き」と呼ばれた米丘さんに弟子入りを志願。高齢のため、既に紙漉きはしていなかった米丘さんでしたが、川原さんのことを快く受け入れてくれました。
川原さんは米丘さんの下で、和紙のイロハから学びました。それは原料となる楮やトロロアオイの栽培から紙漉きまで、蛭谷和紙の全てに及びました。が、紙は漉けるようになっても、それが売れるわけではありませんでした。紙漉きを仕事に選んだ川原さんに、厳しい現実が立ちはだかりました。
川原さんは漉いた紙を束ね、東京の紙問屋や専門店を回りました。また、クラフト展などに積極的に出展して、蛭谷和紙のPRに努めました。自身が思っていたよりも注目度は高く、展示会でも高い関心を集めました。しかし、そうした評価が、販売に結び付くことはありませんでした。
そこで川原さんは、ゼロからの再出発を決意。米丘さんが亡くなられたのを機に蛭谷を離れ、再出発の地に立山を選びました。楮やトロロアオイの畑は、雑草が生い茂っていた里山を開墾。作業場は空き家となっていた古民家の蔵を、自分自身で全面的に作り替えました。作業場の入口にある楮を煮る釜の縁には、川原さんの決意を現す造語「REFRONTIER」の文字が刻まれています。
現在、川原製作所では全て受注生産に切り替えています。用途は神社の護符から企業のポスター、更にはインテリア雑貨や住宅建材など多種多様。日本の職人技でディズニーキャラクターの世界観を表現する「ディズニー〈ジャパン クラシック〉シリーズ」を始め、発注先と対話をしながらイメージを膨らませ、和紙に付加価値を持たせた作品が多くなっています。
「地方の工芸でも、品質やアイデア次第で世界とも勝負が出来るという形を作れたらと考えています」
と、川原さん。
新たな和紙の価値を創造しようと試みながら、楮やトロロアオイの栽培を始め、昔ながらの手法を守り続けるその姿勢は、蛭谷を始めとした先人たちの生き方そのものを継承しているようにも見えます。
2018年取材(写真/田中勝明 取材/鈴木秀晃)
▼富山県立山町
富山県南東部、標高差が大きく、地域や季節ごとにさまざまな表情を見せます。町の東側は中部山岳国立公園になっており、標高3000m級の立山連峰がそびえます。立山は、雄山(おやま/3003m)、大汝山(おおなんじやま/3126m)、富士ノ折立(ふじのおりたて/2999m)の三つの峰の総称で、剱岳、鹿島槍ケ岳と共に氷河が現存します。またラムサール条約登録湿地の弥陀ケ原(みだがはら)や、日本一の落差を誇る称名滝(しょうみょうだき)、北アルプスで最も美しい火山湖と言われるみくりが池、高さ日本一の黒部ダムなど見どころ満載。年間100万人の観光客が訪れる国際的山岳観光地となっています。一方、町の西側は平野で、標高12mから180mの間に広大な扇状地が広がっています。中心地の五百石は江戸時代から市場町として発達、芦峅寺(あしくらじ)、岩峅寺(いわくらじ)の両集落は立山信仰を背景に発展しました。町の西端には富山市境となる常願寺川が流れ、この辺りからは立山連峰を背景に、屋敷林に囲まれた家々が点在する散居村の風景が見られます。
【交通アクセス】
中心地の五百石から3kmほどの所に北陸自動車道・立山ICがあり、立山黒部アルペンルートの玄関口立山駅までは約40分。立山黒部アルペンルートは一般車の乗り入れが禁止され、立山駅から先はケーブルカーやバス、ロープウェイなどを利用します。
富山地方鉄道が3路線通り、町の中心部に一番近いのは立山線の五百石駅。
写真説明
●越中瀬戸焼庄楽窯の釋永由紀夫さんの作品:左は立山連峰の稜線をイメージした「白三角稜線」、右は弥陀ケ原の地塘(餓鬼の田)をモチーフにした「餓鬼の田山皿」。釋永さんの作品には、立山の自然をテーマにしたものが多くあります
●庄楽窯の特徴である白土:上末にあるゴルフ場造成の際、山から大量に出て来た白土。非常に質の高い陶土で、釋永さんは自分でこの土を掘り使用しています
●工房で作陶をする釋永由紀夫さん(越中瀬戸焼 庄楽窯:富山県中新川郡立山町上末51 TEL・FAX:076-462-2846)
●楮を入れた水にトロロアオイの粘液(ネリ)を加え紙を漉く川原隆邦さん(川原製作所:富山県中新川郡立山町虫谷29 http://www.birudan.net/)
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