沖縄の自然や文化に根差す「サンゴの島」の人々 - うるま

高江洲製塩所
高江洲製塩所の流下式塩田

沖縄の光と風で作る浜比嘉島の天然塩

うるま市の勝連半島と平安座島は全長4.75kmの海中道路で結ばれています。「海中」の名の通り、まるで海の中を走っているような錯覚を起こします。道路が低い上、道の両側に海が広がっているからです。この海中道路で平安座島へ渡り、二手に分かれた道を右折すると、浜比嘉大橋に入り、隣の浜比嘉島まですんなり行けます。

浜比嘉島は周囲約6.7kmで、500人ほどの島民が暮らしています。島の南には、琉球の開闢神話に登場するアマミチュー(男神)とシルミチュー(女神)という二人の神様が住んでいたと伝わる洞窟があり、霊場として島民に守られています。そのシルミチュー霊場の少し先に、昔ながらの流下式塩田で塩作りをしている高江洲製塩所があります。

流下式塩田は、ゆるい傾斜をつけた流下盤の上に海水を流し、太陽光で水分を蒸発させ、更に竹の枝を組んだ枝条架の上から滴下させて風で水分を飛ばし塩分濃度を高めます。昭和20年代後半から40年代中頃まで主流だった製塩法ですが、電気の力を利用して海水中の塩分を集める製塩法が開発されると、切り替えが進み、塩田は姿を消しました。が、塩の専売制が廃止されて以降、さまざまな方法で塩づくりが行われるようになり、味が良く、塩辛さの中にほのかな甘味や苦味を感じさせる、塩田による塩が再び脚光を浴びることになりました。

高江洲製塩所は、工房の前にある海岸から直接、澄んだ海水を満潮時にくみ上げています。それを竹の枝と木材で組んだ装置の上から流し、落ちた水を流下盤で循環させます。それを何度も繰り返すことで海水の塩分濃度を上げ、約4%の海水が15%になるまで濃縮します。高江洲製塩所の流下式装置は1時間で循環するようになっており、濃縮まで冬は1日、湿度の高い夏は2~3日を要します。

高江洲製塩所
高江洲製塩所の「浜比嘉塩」(右)と島限定「大粒塩」

濃縮された海水(かん水)は、工房内の釜に移動させてじっくり炊き上げ、塩を結晶化させます。その後、2日間かけてにがりを抜き、更にそれを自然乾燥させてやっと商品となります。

こうして浜比嘉島の光と風で作られた高江洲製塩所の塩は、ミネラルバランスが整い、コクと旨みが詰まった粗塩として人気を博しています。

越來治喜さん
うるま市無形民俗文化財の越來治喜さん

琉球王朝時代の技を継承する船大工

浜比嘉島の隣、本島と海中道路で結ばれた平安座島に、沖縄で唯一、琉球王朝時代の「マーラン船」の造船技術を継承する越來造船があります。

マーラン船は木造帆船で、古くから琉球の島々を結ぶ交易船として使われてきました。呼び名は中国の「馬艦船」の音を踏襲したもので、船体形状も中国の影響を強く受けてはいますが、独自の構造もあり、琉球独特の船という認識となっています。

島国日本の中でも、沖縄は特に離島など多くの島で構成されているため、海上交通は非常に重要な役割を担っていました。その中でマーラン船は、本島北部の山原から那覇の泊を結んで生活物資を輸送したり、奄美諸島や喜界島にヤギ、馬、牛などを運んだりするのに使われました。大正時代の最盛期には、沖縄全体で100隻以上のマーラン船があったといいます。

が、戦後、輸送方法が海上から陸上交通に転換、1959年を最後にマーラン船は姿を消し、実際に運航されている船はありません。それに伴い、木造船の船大工も非常に少なくなりました。今でも、サバニと呼ばれる小型漁船の大工は何人かいますが、マーラン船など大型の木造船を造ることが出来るのは越來造船だけとなっています。

現在、越來造船には、うるま市無形民俗文化財となっている3代目の越來治喜さんと4代目の勇喜さん親子がおり、琉球王朝時代からの造船技術を後世に伝えるべく活動。2014年には、戦後初めての木造帆船となる全長10mのマーラン船を約1年がかりで建造しました。マーラン船に使ったのは、宮崎県日南市の飫肥杉で、越來さん親子が山に入り自ら選びました。そして隙間をなくし、木の密着度を上げる「摺り合わせ」や「木殺し」と呼ばれる伝統的な造船技術を使って木をつなぎました。治喜さんによると、最も難しいのが板を曲げる技術で、一般的なやり方である火も蒸気も使わないそうです。少しの油断でも板が割れてしまうため、非常に難しい作業です。

今では、実際に木造船の建造を依頼されることは皆無に近いですが、4代目によって、こうした貴重な造船技術が継承されることを期待したいところです。

泡盛暖流
「暖流」のテイスティング

オーク樽で熟成させる琥珀色の泡盛

泡盛は、琉球王朝時代、王家の指定した酒造所でのみ作られていました。明治初めに自由化されると、市場が県内外に広がり、生産が急速に拡大。が、第2次大戦で沖縄は壊滅的な状況に追い込まれ、泡盛の酒造所も工場設備や貯蔵していた泡盛を全て失いました。

更に米軍政府は酒造そのものを禁止、そんな中、沖縄では密造酒が横行し、米軍政府も正規の酒造所の必要性を認めざるを得なくなりました。そして1946(昭和21)年に五つの酒造廠を作ることになり、うるま市にある神村酒造と崎山酒造廠も、この時の「官営泡盛製造廠」として復活しました。

ただ、全くのゼロからのスタートで、ある程度の品質の泡盛が出来るまでには、10年以上かかったそうです。その間、沖縄の人々はアメリカから輸入されてくるビールやウイスキーを飲むようになり、泡盛離れが進んでいました。そこで神村酒造の3代目神村盛英さんは、「飲まれているウイスキーと、飲ませたい泡盛の良さを兼ね備えた泡盛」を造ることを発案。10年の研究開発の末、68年に樽貯蔵泡盛「暖流」を誕生させました。

泡盛は、伝統的な甕貯蔵やタンク貯蔵で熟成させますが、「暖流」はバーボンウイスキーの貯蔵に使ったオーク樽を使います。そして3年以上熟成させた琥珀色の古酒と、タンク貯蔵の透明な泡盛を独自のレシピでブレンドし、甘いオーク樽の風味と古酒特有の豊かなコクを併せ持つ泡盛に仕上げています。樽は新しいものだとウイスキー色が強くなりすぎるため、使用済みの樽を使っています。中でもバーボンは、樽を一度しか使わないため出回る数が多いそうです。それが結果的に「暖流」独特の味や香り、コクを生み出したのかもしれません。

琉球の人たちは昔から「暖流」黒潮の流れに乗って遠い国々へ渡り、多様な文化、文物を取り入れ、琉球独自の文化を創り上げてきました。神村酒造の「暖流」には、そんな先人たちの挑戦し続ける精神を継承していきたい、との思いが込められています。

2017年取材(写真/田中勝明 取材/鈴木秀晃)

▼沖縄県うるま市

うるま市は沖縄本島中部、2005年に具志川市、石川市、勝連町、与那城町の2市2町が合併し誕生しました。市名は「サンゴの島」を意味する古い沖縄方言(ウル=サンゴ、マ=島)に由来しています。金武湾と中城湾に面し八つの島があります。このうち平安座島、浜比嘉島、宮城島、伊計島は東洋一の長さを誇る海中道路で勝連半島と結ばれています。旧石川市は琉球政府の前身・沖縄諮詢委員会や民政府が設置され戦中戦後の沖縄政治・経済の中心地として、また旧具志川市は戦後沖縄の文教の中心地として発展。一方、京や鎌倉に例えられるほどの繁栄ぶりを見せた旧勝連町には世界遺産「勝連城跡」が、旧与那城町には沖縄最大の段丘集落跡と言われる「シヌグ堂遺跡」が残り古い歴史を刻んでいます。また、旧石川市には、国内ではアイヌ民族のアッシ織、八丈島のカッペタ織と共に3例しか残っていない「イザリ織」の技法を継承する伊波メンサー織があります。
【交通アクセス】
うるま市北部の石川に沖縄自動車道石川ICがあり那覇から約30分。中部の具志川、南部の勝連、与那城は一つ手前の沖縄北ICの方がが近くなっています(那覇から約25分)

勝連城跡
世界遺産に指定されている勝連城跡

写真説明

●うるま市無形民俗文化財の越來治喜さん:昔ながらの船大工の技術を継承する越來治喜さんは、今も指金で型を取り、使う部材を一つひとつ造り上げていきます
●「暖流」のテイスティング:オーク樽で貯蔵・熟成させた泡盛「暖流」のテイスティングをする神村酒造の中里迅志専務


●かん水を平釜でじっくり焚き上げ、塩を結晶化させます


●傾斜をつけた流下盤と枝条架を組み合わせ、海水を循環させながら太陽光と風により水分を蒸発させ塩分濃度を高める流下式塩田。高江洲製塩所は自作の装置を使っており、台風が多い沖縄の天候に合わせて高さは抑えています


●越來治喜さんと勇喜さん親子。右奥は治喜さんが復元したマーラン船、手前は勇喜さんが作った原寸大の舵


●温度管理をした地下蔵で泡盛を熟成させる、神村酒造の「地下蔵預かり古酒」サービス

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