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晩秋の青空を彩るのは田園風景に咲くバルーン - 佐賀

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世界のバルーニストが集結する「SAGA」の国際大会 午前6時、嘉瀬川の土手に接するとある駅。この時間にしては珍しいほどたくさんの人々が下車しました。人の群れが向かう先はまだ薄暗い河川敷。川に沿って広がる空間には、イベント用の特設テントがずらりと並んでいました……。 ここは、佐賀平野一帯で繰り広げられるアジア最大級の熱気球イベント「佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」のメーン会場。早朝からの人の波は、大会が開催される5日間だけ出現する臨時駅「バルーンさが駅」の利用客で、午前7時から始まる熱気球(バルーン)による競技を観戦しようと集まった人々です。 このフェスタは、インターナショナルの名の通り、毎年世界中から100機を超えるバルーンが集結するビッグイベント。秋空に色とりどりのバルーンが舞う姿はすっかりこの時期の佐賀を彩る風物詩となっています。前身は、 1978年、福岡県朝倉市(旧甘木市)で始まった小さなバルーンミーティングですが、 2年後の80年から開催場所を佐賀平野に移し、競技大会としての歴史をスタートさせました。 「80年11月23日、14機のバルーンが嘉瀬川河川敷から飛び立つと、稲刈りを終えた佐賀平野の空に浮かぶバルーンをひと目見ようと約3万人が詰めかけました。後にSAGAの名は世界中のバルーニストたちが知ることになりますが、すべてはこの14機から始まりました」とは、大会の発展を見守り続けてきた佐賀バルーンフェスタ組織委員会会長の水町博史さん。 ご存じの通り、バルーンは風に逆らって飛ぶことは出来ません。また、風より早く、もしくは遅く移動することも出来ません。空気を暖めて上昇し、冷めれば下降するというシンプルな飛行原理で、風に乗り自然に逆らわずゆったりと飛ぶ乗り物です。だから、離着陸のための十分なスペースと安定した気流、それでいて高さによってさまざまな向きの風の層があることが求められます。 「バルーンは風任せ。どこに降りるかは風のみぞ知る、です。だからフライトエリアに適した場所は360度『何もない場所』があること。佐賀平野は、稲刈りシーズンが終わり11月下旬に麦が撒かれるまでの間は『何もない場所』となります」(水町会長) 気流も安定した佐賀平野の空は、バルーンの国際大会には理想的な土地なのだといいます。08年までに延べ938機、3900人の選手やクルーが参加して

世界を席巻した日本磁器のふるさと - 有田

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  日本の磁器発祥の地 JR佐世保線の有田駅~上有田駅間の狭い谷間の川沿いには約4kmにわたって旧市街地が帯状に伸びています。窯元であることを示すレンガ造りの煙突が所々に突き出す景色を目にすると、ここが日本有数の焼き物の里だと実感します。白しっくいの町家としゃれた洋風建築が混在する、かつての中心地は内山と呼ばれ、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。普段はゆっくりとした時間が流れる静かな目抜き通りも、ゴールデンウィーク中に開催される有田陶器市の間だけはあふれんばかりに焼き物が並び、それを求めて全国から訪れる観光客でにぎわいます。人口2万1500人の小さな町が、期間中には延べ100万人に膨れ上がるというから、そのにぎわいや推して知るべし、です。 有田で焼かれているのは主に磁器。陶石(または磁石)と呼ばれる石を砕いて粘土にし、高温で焼き上げたものです。白く、硬く、そして艶やかなこの焼き物は中国で生まれ、その技術が朝鮮半島を経て日本に伝わりました。日本と磁器の接点は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の時代にさかのぼります。秀吉の急死で、朝鮮半島に渡っていた諸大名はそれぞれの国へ引き上げましたが、この時、佐賀鍋島藩は道案内役だった朝鮮人陶工の李参平を連れ帰っています。李参平は現在の多久市に窯を開き作陶に精を出しますが、どうしても思うような焼き物が焼けません。原料は土しかなく、朝鮮で使っていた時のような陶石が手に入らなかったのです。陶石を求めて領内を回った参平は、1616年に現在の有田町に入り、ついに良質の陶石を発見しました。この場所こそが、日本の磁器発祥の地にして、その後の有田の磁器産業を支えることとなる泉山陶石場です。一つの山だった所を約400年間、採掘し続けた結果、荒々しい岩肌に囲まれた東西450m、南北250mにも及ぶ広大な空間が生まれました。山がそっくり磁器に変わってしまったのです。 明治以降は歩留まりの良い天草陶石(熊本)が主流となったため、今では泉山での採掘はほとんど行われていませんが、地下には十分なほどの陶石が埋蔵されているといいます。いずれ天草陶石が枯渇しても、この泉山の陶石を生かせるように、現在、資源の活用が再び検討され­­­ています。 泉山陶石場 伊万里焼として海外へ 有田焼発祥の地を訪れた後は、県立九州陶磁文化館で有田焼について体系的に

不易流行。500年の歴史に新たな一歩を記す「嬉野茶寮」- 嬉野

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嬉野茶寮 歴史ある嬉野三大ブランドのコラボが実現 2017年5月27、28日の両日、嬉野の温泉街を望む山腹の茶園で、「嬉野茶寮」による新茶会が催されました。これは嬉野温泉旅館、肥前吉田焼窯元、若手茶農家を中心とした「嬉野茶時プロジェクト」の一つ。 嬉野茶は500年以上の歴史を持ち、全国にその名を知られています。が、日本茶全体に占めるシェアは知名度の割には高くありません。また、近年は高齢化や後継者不足により廃業する茶農家もあり、茶畑の面積は年々減少。嬉野茶時は、そうした現状に危機感を抱く若手茶農家たちが、お茶の新しい魅力を発掘し、自分たちから発信していこうと企画したものです。 その第一弾が、2016年8月、期間限定で開設した喫茶・嬉野茶寮でした。和多屋別荘と旅館大村屋の中にオープンした喫茶は、茶農家自らが自慢の茶葉でお茶を淹れサービスするという、今までにない形式のものでした。初めての試みで不安もありましたが、ふたを開けてみると席待ちの客が列を成すほどの盛況ぶり。 あまりの反響の大きさに、1回限りの企画だったところ、年に4回、四季を表現する茶事として継続することが決定。初回の「うれしの晩夏」に続き、「うれしの深秋」、「うれしの春夢」、「うれしの花霞」を開催しました。そして2017年の5月に、特撰の新茶を楽しむ新茶会を実施。会場は、山の中腹にある茶園にしつらえた特設の「天茶台」で、客は各日限定10人。ゆったりと新茶を味わってもらいながら、嬉野茶に対する茶農家の思いや栽培への姿勢を伝える貴重な機会となりました。 嬉野茶時のキーマンは、嬉野温泉の老舗旅館・和多屋別荘の代表を務める小原嘉元さんと旅館大村屋第15代当主の北川健太さん、そして茶農家の副島仁さん。同世代の3人は、それぞれの立場で嬉野の将来を見据えた新しい動きを模索していました。そこへ、副島さんをリーダーとする若手茶農家が結集。更に嬉野茶、嬉野温泉と並ぶ伝統産業・肥前吉田焼の窯元にも加わってもらい、嬉野を代表する三大ブランドのコラボレーションが実現することになりました。 嬉野茶寮が始まってまだ4年。が、既に各方面から注目を集めており、今後、さまざまな展開も期待されています。その一つが「肥前吉田焼デザインコンペティション」。 肥前吉田焼