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西条人が待ちに待つ平成によみがえる元禄絵巻 - 西条

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西条っ子を熱くする最大の年中行事 彼岸花が咲き、キンモクセイの香りが辺りに漂い始めると、祭り好きなこの町の人々はソワソワしだします。中学生が練習する太鼓の音色が聞こえてこようものなら、もう仕事も手に付きません。落ち着かないのは住人だけではありません。「盆と正月には帰らないが、祭りのためなら」と、全国に散らばる西条出身者が祭りに合わせて帰省します。 これほどまでに西条人を熱くさせる年中行事、それが西条祭りです。市内にある嘉母神社、石岡神社、伊曽乃神社、飯積神社の四つの神社で行われる秋の大祭の総称ですが、一般に規模が最も大きい伊曽乃神社の祭礼を指して西条祭りと呼んでいます。 伊曽乃神社で大祭が開かれるのは、10月15、16日の2日間。だんじりや、みこしと呼ばれる屋台の一種が、町中を勇壮に練り歩く姿見たさに多くの観光客が訪れます。町では学校や多くの企業がこの期間はお休み。商店街の店はどこもシャッターが下りていて、張り紙には「祭りのため休業」と書かれていました。飲食店や旅館まで店を閉め、主人らはだんじりのかき夫(担ぎ手)に、奥様方は炊き出しに駆り出されるので、遠来の客泣かせの祭りとしても知られています。 だんじりは高さ約5m、重さ約800kg。白木か漆塗りで作られた2階建て、3階建ての家型で、四方には武者絵や花鳥などの彫刻が施されています。台車に載せて押しながら移動することもありますが、西条のだんじりは他の地域とは異なり、肩に担いで行進します。 一方、左右二つの車輪が付いたみこしは重さが3t弱もあります。全体が刺繍で飾られていて、頂上に人が乗るので、見た目でだんじりと区別出来ます。伊曽乃神社にはだんじりが77台、みこしが4台奉納されます。一つの神社に奉納される屋台の数としては他に例がありません。 殿様も愛した動く元禄絵巻 発祥は定かではありませんが、伝承では宝暦11(1761)年頃、文献にだんじりが登場します。石岡神社の別当寺であった吉祥寺の住職が河内の誉田八幡社の藤だんじりを見て、これに似たものを竹で作り、花籠だんじりを奉納したのが始まりと伝えられています。後に近郷の神社にも奉納され、東予一円に広まったといいます。歴代の西条藩主も支持したため、次第に盛んになりました。西条のお殿様がいかに祭りに熱を上げていたかが分かるエピソードが残っています。 江戸城の大広間で、隣に座った

幕末から明治の面影を残す文化の里・宇和の今昔 - 宇和

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卯之町 宿場町の雰囲気を今に伝える卯之町の家並 宇和町は西予市の中央やや西寄り、肱川上流に広がる宇和盆地にあります。宇和盆地は古くからの穀倉地帯で、藩政期には宇和島藩の米蔵の役割を担っていました。また中心地の卯之町は、宇和島街道の宿場町として発展すると共に、四国八十八箇所霊場・明石寺の門前町としてもにぎわいました。 卯之町には江戸中期から昭和初期までに建てられた町家が残り、白壁、うだつ、出格子など、伝統的な美しい町並みが続きます。また、高野長英の隠れ家や二宮敬作住居跡などの文化財が数多く残り、西日本最古の開明学校や大正時代に建てられた卯之町キリスト教会などの洋風建築も点在するなど、歴史の流れを感じさせます。 司馬遼太郎の『街道をゆく』では、第14巻に卯之町が出てきます。その中で司馬は、同行した挿絵画家・須田剋太が「ここは大変な所です。京都だって奈良だってこんな一角がありますか」と、大興奮で語る場面を描いています。そして司馬は、奈良市の町家を思い浮かべながら、こんな町並みはここ以外に残っていないかもしれないと思った、と記しています。更に二人は、「たとえあったとしても、ここのように町全体が明るくはないだろう」との感想を述べ、それは白壁がふんだんに使われていることと、道路が広いせいではないか、と分析します。 確かに、卯之町の通りは普通の街道より幅が広くなっています。これは、大八車がすれ違えるようにしたものだそうで、往時は5軒あったという造り酒屋を始め、宇和盆地の米や宇和ヒノキを扱う商家の大八車が、町を行き交っていたことをほうふつさせます。 そんな卯之町を歩いていると、屋根の上にさまざまな飾り瓦が付いているのを目にします。通常は鬼瓦が置かれている所に、野菜や七福神、家紋、水の字などが載っています。 例えば、最近まで旅館だった家の玄関屋根にはえびす様と魚。で、この魚、えびす様だけにタイかと思いきや、これがコイ。しかも阿吽のコイときています。どうやら「商売繁盛、お客様来い来い」ということらしいのです。また、ダイコンとナスを組み合わせた飾り瓦もあり、地元の方の解説では、これはそれぞれ女性と男性の象徴で、その家が以前は遊郭だったことを示しているのだということです。 松屋旅館 また卯之町は電柱も電線も表に出

歴史と文化に彩られた伊予の小京都 - 大洲

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肱川から望む臥龍山荘・不老庵 肱川のほとりに建つ名建築・臥龍山荘 大洲を流れる肱川は、市の中心部で大きく蛇行した後、北西へ向かって流れ、同市長浜で瀬戸内海に注ぎます。晴れて冷え込んだ冬の朝、内陸で発生した霧が強い風に乗って、肱川沿いを一気に駆け下り、河口の長浜を包み込みます。「肱川あらし」という世界的にも珍しい気象現象で、ゴォーゴォーと音を立てて流れる霧の帯は、大洲の冬の風物詩となっています。 そんな肱川の中でも、景色が最も美しいとされる臥龍淵の崖の上に、茅葺きの建物があります。明治時代の貿易商・河内寅次郎が建てた臥龍山荘の離れ不老庵で、懸造りの束柱の中に、生きたマキの木が一本、捨て柱として混ざり、今も枝を延ばしています。また、天井はかまぼこ型をしており、満月の日には川面に映った月明かりが反射して、部屋を明るくします。 臥龍山荘の母屋である臥龍院は構想10年、工期4年と言われ、京都の桂離宮や修学院離宮などを参考に、隅々にまで気を配った設計がなされています。しかも、内部の造作には、代々千家の茶道具を作ってきた千家十職が携わり、まるで工芸品のような手の込んだ造りになっています。 明治維新で大名家が瓦解し、その影響を受けた千家も苦境に陥ります。当然、千家の流れをくむ職人たちも、大きな仕事が出来ない状態にありました。そんな時代に、河内寅次郎が、さまざまな仕事を依頼。その一つが臥龍山荘で、実際に大洲へ来て細工を施したのは、金物師の中川浄益、表具師の奥村吉兵衛、指物師の駒澤利斎、塗師の中村宗哲の4人だったと言われています。 臥龍山荘石積み 臥龍院は、天井の高さや窓の配置、採光、風の通りなど、全てを計算して、空間に深い意味を持たせています。また、各部屋(清吹の間、壱是の間、霞月の間)にはそれぞれテーマがあり、それに沿った趣向を凝らしています。 例えば、客間である壱是の間は、能舞台としても設計されており、音響を良くするため、床下には備前焼の壺が四方に3個ずつ、合計12個配置されています。 臥龍山荘は、大洲市から委託を受けた大洲史談会が管理し、一般公開されています。最近、興味深い観光地を紹介する「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で一つ星を獲得し、注目を集めました。 造作を始め、全てに意味が込められているの