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仔馬はここで競走馬となる。サラブレッドのふるさと日高 - 新ひだか

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「競走馬のふるさと」と呼ばれる理由 千歳空港方面からえりも岬に向かって車を走らせると、国道沿いに牧場が並ぶ景色が目立ち始めます。緑の絨毯の上には、のんびりと過ごす馬の親子。首をもたげて草を食む一家があれば、駆けっこをしてじゃれ合う家族もいます。人間の世界に例えると、さしずめ休日の公園といったところでしょうか。 遠目には牧歌的に映る風景ですが、馬との距離を狭めると印象は違ってきます。たくましい筋肉質の胴体からスラリと伸びる長く美しい脚は躍動感にあふれており、間近で馬の息づかいを感じてみると、ここが競走馬のふるさとであることを改めて実感します。 日本の競走馬の8割がここ日高地方で生まれ育ちます。北海道でも比較的積雪の少ない環境が、馬の生育に適しているといいます。『静内町史』(現、新ひだか町)にも、「明治の初期には野生の馬が群れをなして山野を横行し、農作物に大きな被害を与えていた」という記述があり、一帯は昔から馬には住み良い場所であったに違いありません。 計画的な馬の生産地としてこの地に注目したのは、明治時代に北海道開拓長官を務めた黒田清隆です。明治5年に黒田長官によって区画された大規模な牧場は、後に宮内庁管轄の御料牧場として宮内御料馬や軍馬の拠出を担うことになります。その後次第に軍馬の需要がなくなると、御料牧場は競争馬の育成牧場に転用されていきました。 昭和29年に中央競馬会が設立され、次いで日本軽種馬協会が発足すると、サラブレッド種の育成牧場としての土壌が既にあった日高地方が、生産地として注目されるようになりました。ちなみに軽種馬とは、乗用もしくは乗用の馬車を引くために改良された品種で、サラブレッド種やアングロアラブ種がこれに当たります。 昭和60年代に競馬ブームが興り、競馬産業が大きく拡大すると、それに呼応するかのように、町も活気づいていきました。この時既に新ひだか町における競争馬の生産は、町いちばんの基幹産業になっていました。 レースに備え、英気を養う 競走馬の牧場は、大きく2種類に分けられます。一つは繁殖用の牝馬を保有して仔馬を生産・販売する生産牧場。周囲の景色に溶け込んでのんびり草を食む親子馬がいる牧場は生産牧場と見て間違いありません。もう一つが、馬の調教を目的とする育成牧場です。 新ひだか町は生産牧場が中心ですが、生産を兼ねた牧場を合わせると育成牧場も全体の

アイヌ文化が根付く、食材の王国 - 白老

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  コタンのある北海道の縮図の町 白老町の人はよく、自らの町をPRするのに「北海道の縮図のような町」と説明するのだそうです。北海道らしい魅力が随所に見られるということらしいです。 目の前には太平洋が広がり、振り返ると手つかずの原生林と、その奥には雪を頂く山々が連なります。町の西にある倶多楽湖は国内トップクラスの水質と認定されたカルデラ湖で、そこを水源とする豊富な伏流水が町を潤します。また道内屈指の湯量と泉質を誇る温泉地でもあります。もちろん山海の幸も豊富で、夏は涼しく冬の積雪も少ない穏やかな気候といいます。1856年に仙台藩が北方警備のため入植して、最初に陣屋を建設する場所に白老を選んだのも、それよりずっと以前からアイヌがこの地にコタンと呼ばれる集落を築いていたのも、住み良い環境だったからに違いありません。 アイヌは、北海道や東北地方、樺太南部、千島列島に及ぶ広い範囲に古くから暮らしていた先住民族で、現在も北海道に約2万4000人が暮らしています。中でも白老は古くからアイヌ文化の伝承地として知られてきました。市街地には「チセ」と呼ばれる伝統的なアイヌの茅葺き家屋の集まるコタンが戦後しばらくまであり、ここで行われるアイヌの舞踊や楽器演奏、民話を目当てに全国から訪れる観光客でにぎわっていました。 昭和40年代にはこうした観光機能が市街地から少し離れたポロト湖畔に移ります。ここにはチセの家並みが復元され、アイヌの人々に関する資料を集めた町立資料館が設置されました。その後、アイヌ文化の調査研究や伝承保存、普及を目的とした野外博物館を増設。現在はアイヌ民族博物館「しらおいポロトコタン」として整備され、年間20万人の来場者がある北海道を代表する観光地の一つになっています。 園内に足を踏み入れると、アイヌ衣装をまとった職員さん数人から「イランカラプテ」と声を掛けられました。「ようこそ」や「こんにちは」と同じ感覚で使われるあいさつだといいます。今年から北海道の一部で、このイランカラプテを通じてアイヌ文化の理解を促す取り組みが始まっており、新千歳空港(千歳市)やさっぽろ雪まつり(札幌市)の会場でもこの言葉を見掛けるようになりました。近い将来、沖縄の「めんそーれ」のように北海道のおもてなしの合言葉になることが期待されています。 イヨマンテリムセ アイヌ文化を伝え残していくために イラン

新得の自然に育まれ、磨き上げられたナチュラル・チーズ - 新得

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熟成庫に運び込まれるラクレット 気候風土に適したラクレット 南北に細長い新得の町には、北からは東大雪の2000m級の山々が、南からは日高山脈が突き出しています。面積の大半を占めるのは森林地帯。十勝平野から連なる南部の丘陵地帯に畑や牧草地が広がり、町の人口6300人に対して牛の数は3万3000頭を超えます。 町の中心部に近い新得山のふもとでも、牛たちがのんびりと草を食んでいました。ここ共働学舎新得農場で飼育されている乳牛は約110頭。8割はチーズ作りに適した乳質のブラウンスイスです。 共働学舎は障害を抱えたり、心を病んだりして社会から取り残された人々と共に働き、共に生活する場として信州で設立されました。創設者の長男でアメリカで酪農を学んだ宮嶋望さんに、かつて町営の牧草地だった土地の無償貸与を申し出てくれたのが新得町でした。 新得農場は1978年に6人と牛6頭でスタート。居場所を求めて集まる若者たちは徐々に増え、宮嶋さんは収入を増やすために本格的なチーズ作りに乗り出しました。そんな頃、縁あってフランスAOCチーズ協会のジャン・ユベール会長に出会い、本場フランスの第一人者に本物のチーズ作りを教わる幸運を得ました。 そのユベール氏が新得農場を訪れて言った言葉が、「牛乳を運ぶな」。新得農場ではその教えに従い、安全性を確保出来る農場内で絞った牛乳だけを使用。更に、搾乳室と隣の工房をパイプラインで結び、傾斜を利用して流し送るという、牛乳を運ばない仕組みを作り上げました。出来る限り機械に頼らず、伝統的な製法でナチュラル・チーズ作りに取り組んでいます。 取材に訪れた時、工房ではハードタイプのチーズ、ラクレット作りが行われていました。まるで蒸し風呂のような湿気の中、凝固したカード(凝乳)をタンクから取り出し、布で包んで丸型に詰めていきます。息の合った素早い動きで、瞬く間に型が積み上げられていきました。 型に詰めたカードはプレスして成型し、塩水に漬けて加塩した後に熟成庫へ運ばれます。半地下にある熟成庫は湿度85~95%、気温8~12度に保たれ、工房とは打って変わってひんやりとしています。熟成期間は約3カ月。丁寧に磨かれて熟成したラクレットの表面は濃い橙色に変わり、出荷の時を待っています。 ラクレットは新得の環