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「梅のチカラ」を実感出来る南高梅発祥の地・みなべ町を行く - みなべ

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「南高梅」が誕生した地 和歌山県みなべ町は、日本有数の梅の産地です。「1目100万本、香り10里」と形容されるように、梅の花の時期ともなると、町は紅白に染まり、辺りは甘い香りに包まれます。その情景は『万葉集』にも詠まれており、古くからこの地に梅が自生していたことを知ることが出来ます。 梅の栽培が盛んになったのは、江戸時代初期。紀州田辺藩が、耕地に恵まれない農民に梅の栽培を奨励したのが始まりです。やがて江戸に梅干しブームが訪れると、紀州産の梅干しが一躍注目を浴びるようになります。 明治時代には管理栽培が始まり、梅を畑で育て、梅干しに加工するまで、一貫した生産が行われるようになりました。が、当時は梅の品種が多岐にわたっていたため、同じ紀州の梅干しでも味や大きさにばらつきが生じていました。 昭和25年に梅の優良品種を統一して市場の安定を図るために、この地に適した梅を探し出すことになり、選定委員会が設けられました。委員長であった南部高校の竹中勝太郎教諭が中心となって、5年間にわたって地元に生えている梅を調査。114あった品種の中から7品種を選び出しました。 中でもよく実が付き耐病性にも優れ、この地の風土に最も適した最優良品種と評価されたのが、高田梅でした。そして、選定者の一人である小山貞一氏と共に調査研究に深くかかわった、竹中教諭と南部高校園芸科の学生たちの努力に敬意を表し、高校の名にちなんで「南高梅」と命名されました。その後、樹の選定者である小山氏の一方ならぬ尽力により、この地が日本一の梅の産地へと導かれることになったのです。 大粒で肉厚なことから、梅干し用途の品種としては最高峰に位置付けられているのはご承知の通り。南高梅は、みなべ町で栽培される梅の7割以上を占めるだけではなく、平成16年調べでは全国で6万700トンの生産量のうち87%が和歌山県産、みなべ町に限っても全国の40%を占めるというから圧倒的な生産量です。 酸っぱ辛い梅干しが、ダイヤに変わる 6月から7月にかけて南高梅は収穫期を迎えます。みなべ町の梅農家が1年で最も忙しいのがこの時期。早朝から一家総出の作業となります。収穫は、枝から青梅をもぎ取るのではなく、梅林の下に張り巡らせたネットの上に落ちる完熟した実を拾い集めます。集められた実は、すぐに洗浄して漬け込みタンクで塩漬けされます。収穫はスピードが命で、柔らか

先人が残した木の国・紀州の伝統産業を受け継ぐ人たち - 海南

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シュロ皮の採取 よみがえった紀州産シュロたわし すくっと真っすぐに伸びた幹のてっぺんに、濃い緑の葉を茂らせるシュロ。九州南部の原産でいかにも南国らしい姿ですが、意外なことに寒さには強く、本州でも広く見られる植物です。葉の付け根部分には網状の繊維が絡み合ったシュロ皮が幾重にも巻き付いています。そのシュロ皮から取れる繊維は、耐水性や伸縮性に富んでいます。その性質から、縄や蓑、たわし、ほうきなど、暮らしに欠かせないさまざまな道具に利用されてきました。 海南市東部から紀美野町にまたがる野上谷一帯では12世紀頃からシュロの栽培、加工が行われていたといいます。明治になると専業の製造者や問屋が現れ、特に日清・日露戦争で軍需用の縄や綱の需要が増大し、地場産業として確立されていきました。その後は時代の変遷と共に、シュロから輸入パーム(ヤシの実の繊維)や化学繊維に原料を変えながら、海南は家庭日用雑貨の一大産地へと成長を遂げました。その一方で、需要がなくなったシュロ山は、ほとんどが杉の山へと姿を変えていきました。 今から10年ほど前、地元産のシュロに再び目を向けたのが、 髙 田耕造商店の3代目、 髙 田大輔さんでした。 髙 田耕造商店では、職人の手で一つひとつ巻き上げてたわし作りを行っていましたが、原料は輸入に頼っていました。家業に入った 髙 田さんは、純国産のたわしを作りたいと思い立ちますが、既に紀州産のシュロ皮は入手困難なものになっていました。何とかつてを頼り、有田川上流の地域で入手したシュロ皮は、黒ずんだ色合いで、中国産に遠く及ばない素材でした。 「その時は単純に、中国産の方が品質が良いから、国産が廃れたのだと思いました。後になって、木の手入れがされていなかったのが原因だと分かったんです」 素材に適した良質なシュロ皮を取るには、枯葉を取り、蒸れて腐った皮を剥いで、新しい皮が生み出されるようにする必要があるのだそうです。シュロの加工は山間の集落で細々と続けられていましたが、高齢化が進んでシュロの手入れをする人はほとんどいなくなっていました。そんなことがあって、いったんは国産を諦めた 髙 田さんの元に、2年を経て山間の集落から再びシュロ皮が届きました。赤みを帯びたその繊維は、以前のものとは打って変わり、それまで手にしたことのない、しなや

秀吉の紀州攻めから400有余年。よみがえる根来の伝統 - 岩出

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400年の時を隔てて並ぶ新旧根来塗 使われてこそ生きる根来塗の美しさ 岩出市民俗資料館に古い根来塗の丸盆があります。上塗りの朱漆がすれて、下塗りの黒漆が顔をのぞかせています。それは何かの文様のようにも見え、歳月を経た味わいが感じられます。 根来塗は鎌倉時代から室町時代にかけ、根来寺の僧侶らが、仏具や什器として作っていた漆器です。黒漆で下塗りをし、その上に朱漆を塗ります。使い込むうちに、表面の朱漆が徐々にすり減り、黒漆が自然な模様を表出させます。後の茶人などは朱と黒が織りなす、この意図せぬ文様を「美」と捉え、根来塗を珍重しました。 とはいえ、根来塗は美術品ではなく日用品です。そして、まさに使われることによって、風合いが出てくる器なのです。しかも、長い年月使い続けても、割れたり欠けたりしない堅牢さを持ち、それがまた「用の美」としての根来塗の美しさを作り上げる決め手ともなっています。 が、そんな根来塗も一時廃絶の憂き目に遭っています。1585(天正13)年、根来寺が豊臣秀吉の紀州攻めで灰燼に帰し、根来塗の工人も四散してしまいました。それ以降、途絶えたままになっていた根来塗が復活したのは2000(平成12)年のこと。 再興したのは塗師の池ノ上曙山さん。池ノ上さんは根来塗研究の第一人者・河田貞氏(奈良国立博物館名誉館員)に師事。河田氏との二人三脚で研究を重ね、昔ながらの技法による根来塗の制作に取り組みました。そして正式に根来寺の「許」を得て、400余年ぶりに産地としての「根来寺根来塗」を復活させました。 その池ノ上さんが、「根来塗の命」と呼ぶのが下地の工程です。紙やすりで丁寧に磨いた器に生漆をたっぷりとしみ込ませる「木固め」に始まり、縁を補強するため麻布を巻く「布着せ」、そして木地と布を一体化させる「惣身」など、下地だけで26もの工程があります。 「根来寺根来塗」は和歌山県の伝統的工芸品に指定されています。県の伝産品は「50年以上の継続」という条件があるにもかかわらず、再興からわずか7年という異例の早さで指定を受けました。これも、400年以上前と同じ技法で制作していることが評価されてのものでした。 そして現在、池ノ上さんは根来寺根来塗として確立させた技術の伝承と共に、人材育成にも力を注いでいます。岩