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緻密な計算で割り出した点と線が、織機で再現される絹の芸術 - 奄美

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着用禁止令を乗り越えた伝統技術 奄美大島では、海の彼方にニライ・カナイと呼ばれる楽園があって、そこには人間に豊穣をもたらす神がいると信じられてきました。だからここでは海を眺めることは、神を感じる行為に近いのです。そんな神々しいイメージを美しく格調の高い大島紬に重ねたく、写真撮影を試みました。 「珊瑚礁が広がる美しい海を眺める島の女性。身にまとっているのは普段から着慣れた大島紬」 こうした光景が古くから、連綿と続いてきたのだろうと感傷に浸っていたのですが、話を聞くと実際はそうではなかったようです。 「島役以下、一般島民の紬着用を一切禁ず」 1720(享保5)年、この時、奄美を支配していた薩摩藩が、奄美大島を含む群島の島民に対してこのようなお触れを出しました。絹布着用禁止令です。その当時、既に他に類を見ないほどの高い品質で評価されていた大島紬は、以来、薩摩藩への献上品として織ることはあっても、役人以下の島民が日常着として着ることはありませんでした。美しい紬を織りながらも、身にまとうことを禁じられた島の人々の悲しみはいかほどであったでしょう。明治の世になり薩摩藩による支配が終わるまでこの禁止令は続きましたが、島の人々は絹以外のからむし(苧麻)や木綿、芭蕉といった素材を使って染織を続け、1300年も前にさかのぼると言われる紬織りの灯火を絶やすことはありませんでしたな。 大島紬は2度織られる 大島紬は絣糸を作って模様を描き出す先染織物。友禅のような後染めの反物とは違い、設計図をもとに絹糸の段階で染色します。絹糸に色を染め分けるため、染め残す部分を木綿糸などで括って防染処理を施した後に全体を染色。括った糸を解いて染め残された部分に着色した後、織機で模様を再現するという、気の遠くなるような手間をかけて完成します。総工程数は30以上にも及び、それぞれ専門の職人が分業で担当します。 先染織物の中でも、大島紬の大島紬たるゆえんは絣模様が繊細にして緻密な点にあります。1反(12m強)の中に何百何万個というおびただしい絣模様を配した大島紬は「絣の宝石」とも呼ばれ、世界一精緻な絣として国内外で高い評価を得ています。この緻密な絣の美を実現しているのが、1902(明治35)年に開発された締機です。 方眼紙にドットで描かれた図案に従って真っ白な絹糸を並べ、その絹糸を木綿糸で括って防染するのですが、

秀峰開聞岳に抱かれた湯煙たなびく薩摩の湯都 - 指宿

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  海・山・湯に恵まれた薩摩半島最南端の町 地名の由来は、湯の豊かな宿を意味する「湯豊宿(ゆほすき)」。その名の通り、今でも地面を少し掘れば、たちまち湧き出すほど湯の豊富な町です。1日約12万トン湧き出るという豊富な湯量の恩恵で、町には公衆浴場が点在し、一般家庭の約7割に直接温泉が配湯されます。何ともうらやましい限りです。 地熱の影響、薩摩半島の最南端という地理的な要因、そして沖を通る暖流のおかげで一年を通して気候は温暖です。太古の頃から住み良い場所であったようで、市内全域に縄文・弥生時代の遺跡が見つかっています。そのうちの一つ指宿橋牟礼川は、日本史の常識を決定付けたことでも知られます。火山灰層を間に挟んで下層から縄文土器が、上層から弥生土器が出土したことで、縄文時代が弥生時代より古いことがこの発見によって初めて証明されたのです。火山灰層は開聞岳の噴火によるもの。標高922mの美しい円錐形をした開聞岳は、その姿から地元で薩摩富士として親しまれている秀峰です。 昭和30年代、温暖な気候と温泉に恵まれた指宿は、西日本を代表する新婚旅行のメッカでした。その新婚さんたちが目指す先は決まって開聞岳。ふもとの公園で新婚旅行記念に植樹するというのが当時大流行しました。そんな幸せいっぱいの新婚さんを開聞岳と共に写真に収めてきたのが、父の代から写真館を営んできた馬渡成貴さん、御年88歳。 「新婚の時に植樹に訪れたという老夫婦がたまに何組か指宿にやって来るんですよ。ひょっとすると当時私が記念写真を撮った方たちかもしれないと思うと感慨深いですね」 温浴効果は抜群の天然砂蒸し温泉 指宿を有名にしている観光資源の筆頭はやはり砂蒸し温泉でしょう。海岸に湧出する高温の自然温泉を利用したいわば砂のサウナで、天然の状態で入ることが出来るのは世界でもここ指宿だけです。入浴法は至ってシンプル。砂の上に仰向けになり、頭以外はシャベルを持った砂掛けさんに砂で埋めてもらい、10~15分その状態を維持するというもの。ものの5分で額に汗が吹き出し、ジワジワと体全体が温まってきます。長く入り過ぎると、低温やけどをするので入浴時間は長くても15分程度。温浴効果は抜群で、砂圧で血液の循環が促進され、高温による血管拡張で心機能が高まるため、しばらく身体がポカポカした状態が続きます。また、ナトリウム塩化物を含む温泉水には、

大地の躍動を感じさせる山々に抱かれ神話と古代史が息づく場所 - 霧島

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うっそうとした木々に囲まれた霧島神宮の三の鳥居 神話の舞台にある二つの神宮 霧島市中心部に近い城山公園の山上からは、北に霧島連山、南には錦江湾(鹿児島湾)に浮かぶ桜島の姿が見えます。どちらも今なお活動を続ける活火山です。霧島市には「神宮」の社号を持つ神社が二社あり、霧島神宮は霧島連山の高千穂峰を背に、もう一つの鹿児島神宮は桜島を真正面に望むようにして建っています。 高千穂峰は天孫降臨神話の地。霧島神宮は、地上に降りた天照大神の孫、瓊瓊杵尊を主祭神にまつってお、あし。高千穂峰は古来修験の地でもあり、6世紀には社殿が築かれたと言われます。社殿は噴火の度に移され、現在地には500年ほど前に遷座。古くから薩摩を根拠地とする島津家の崇敬を集め、現在の社殿は1715(正徳5)年、島津吉貴が寄進しました。その拝殿へ、禰宜の赤 﨑 大和さんの案内で上がりました。 「島津家が寄贈された社の特徴の一つが、本殿の手前にある龍の柱です。本堂の外陣には獏や麒麟など想像上の動物の彫刻が施され、内陣の壁や天井も彫刻や絵画で飾られています。島津家は鎖国の時代にも大陸と貿易をしていたので、絵画には大陸の風物が描かれています」 極彩色の龍が巻き付いた柱から天井へと目をやると、年月を経て色あせた草花図が見えました。「鹿児島神宮では奇麗に残っていますよ」と、赤 﨑 さんが教えてくれました。 高千穂峰の麓で深い緑に囲まれた霧島神宮から天降川沿いに車を走らせること約40分。鹿児島神宮は錦江湾へ注ぐ天降川河口にほど近い隼人町にあります。祭神は、瓊瓊杵尊の子で山幸彦と呼ばれる彦火火出見尊です。 「ここは古代、隼人族が住んでいた場所で、その先祖と言われるのが山幸彦の兄、海幸彦です。海幸山幸の神話は大和族が隼人族を征服したことを表し、大和族すなわち宇佐八幡がこの地にやってきたと言われます。ここにはその八幡様もおまつりしていて、正八幡宮と呼ばれた時代が千年以上の長きにわたりました」 霧島神宮の社殿 建設当時の色彩を残す鹿児島神宮拝殿の天井 権禰宜の伊賀昇三さんが言うように、堂々とした勅使殿に「正八幡宮」の扁額がありました。社殿は1756(宝暦6)年、島津重年の寄進で造営され、本殿前に霧島神宮と同じく龍の彫刻を施した柱があります。拝殿の天