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アマテラスに、ニニギノミコト。神代の息吹を感じる高千穂紀行 - 高千穂

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神話と渓谷の里を行く 周囲を高い山々に囲まれた高千穂町は、九州の中央部を貫く九州山地の中にあります。人口約1万4000人ですが「山の中にこんなに立派な町があるとは思わなかった」と高千穂を訪れた人は驚くといいます。小さいながらも宮崎県の北西部に位置する西臼杵郡の中心地です。 大きな弧を描くように街中を流れる五ケ瀬川の渓谷は、山の斜面に並ぶ棚田と相まって美しい景観を見せています。実にのどかな風景ですが、生い立ちをたどると、阿蘇山系の溶岩が流れ出し、この地の谷を埋め尽くして出来た地形です。溶岩は数億年もの間、川に浸食されて深いV字型の峡谷を形成しました。両岸には、柱を並べたような岩が連続する「柱状節理」と呼ばれる断崖絶壁が東西に約7km続きます。最も深いところで水面まで100mという険しい切り込みに圧倒されますが、中でも「真名井の滝」の景観は美しさで群を抜きます。高さ17m。放物線を描きながら落ちる水の流れは上からの眺めもすばらしいですが、ひんやりとした渓谷の中を手漕ぎボートで進み、滝しぶきを浴びながら川面から眺める景色も格別です。 ここ高千穂は古来、天孫降臨の聖地として伝えられています。アマテラスオオミカミの孫であるニニギノミコトが高千穂の地に降り立ったことから神話が始まりました。 「ここの他にもう一つ、鹿児島県霧島山の高千穂の峰に天孫が降り立ったという説もあります。高千穂という地名が二つあって混同される人も多いため、あちらを霧島高千穂、こちらを三つの田んぼと三つの井戸があったことから『三田井高千穂』と呼んで区別しています」と教えてくれたのは、高千穂観光協会でガイドを務める山口洋子さん。高千穂の大自然を巡りながら、神代の昔へとタイムスリップさせてくれるナビゲーターです。 高千穂観光は、神々の足跡めぐり 「神話の里」というだけあり、高千穂町の名所はほとんどが神話に関係しています。例えば、石を重ねてお参りすると願い事が叶うという天安河原。有名な「岩戸開き」の話で、アマテラスオオミカミが天岩戸に隠れたことに困った八百万の神々が集まって相談した場所とされています。近くの天岩戸神社がご神体として祀るのは天岩戸という岩窟です。また高千穂に伝わる神楽の起源は、アマテラスを誘い出そうと踊ったアメノウズメノミコトの舞だと言われています。ちなみに、かの有名県知事は天安河原を参拝した時に神の

本物の中の本物を輩するはまぐり碁石と、かや碁盤の里 - 日向

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日向はまぐり碁石の誕生 囲碁の世界にかつてない異変が起きています。碁会所に集った年配の男性たちが、日がな一日碁盤を挟んでじっくりと対局・・・そんなイメージを覆す光景が最近見られるようになりました。囲碁普及団体が開催する最近のワークショップでは、参加者の7割、入門者のほぼ9割を20~30代の女性が占めるというのです。童話の森にいそうな「森ガール」や、アウトドア・ファッションに身を包んだ「山ガール」といった女性たちが一世を風靡していますが、最近は新たな趣味として囲碁をたしなむ「囲碁ガール」なる若い女性たちが急増中なのです。なんでも「集中力が養われ」たり「幅広い年代と対局を楽しめる」のがだいご味だと話しますす。ともあれ年配者の娯楽と思われていた囲碁は、確実に新しいファンを獲得しています。 さて今回は、その囲碁にまつわる話。名が示す通り19×19の格子が描かれた碁盤の上に白と黒の石を交互に置いていき、自分の石で囲んだ領域の広さを争うゲームです。発祥は中国と言われ、日本には平安時代に入ってきました。源氏物語など古典作品にも数多く登場し、後に庶民にも広く普及しました。地域でルールの違いがあったり、ルールそのものに矛盾も存在しましたが、徳川家康の時代に家元制が設けられ、これを機に囲碁のルールは統一されました。 黒石に今も熊野(三重県)で産出される那智黒石を使うように、もともと碁石の原料は石(または木)でした。白石に美しい透明感を持ったはまぐりの貝殻が用いられるようになるのは明治初期。桑名(三重県)で貝殻が厚いはまぐりがよく取れたため、大阪に運ばれて碁石に加工されました。その後、桑名のはまぐりの産出量が減少、碁石の原料が枯渇しかけていた頃、大阪で碁石屋を営んでいた石橋小七郎は、富山の薬屋から興味深い話を耳にします。 「日向のお倉ケ浜という場所に変わった貝殻がたくさん打ち上げられていた」というのです。早速、番頭を調査に向かわせたところ、これまで見たこともないよ うな分厚いはまぐりの貝殻が、足の踏み場もないほど散らばっていました。それからというもの、番頭は毎日貝殻を拾っては、船で大阪へ送り続けました。原料不足が解消された小七郎はたちまちにして大阪一の碁石屋になりました。 日向はまぐり碁石発祥の地であるお倉ケ浜 この時、お倉ケ浜で貝殻拾いの日雇として働いていた者の中に原田清吉という人物が

児童福祉の父・石井十次のルーツを訪ねる - 高鍋

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シニア・サーフィン・スクール 豊かな森と日向灘の荒波が育てる天然かき 高鍋町の蚊口浜では大潮の日、潮が引いた海でかき打ちをする町民の姿が見られます。蚊口浜は遠浅で、砂浜の少し先に「ゴロタ石」と呼ばれる大きな玉石の岩場があり、そこに付く天然かきをとっているのです。 高鍋のかきには、漁業権はないのだろうか? そんな疑問が浮かびます。 もちろん漁業権はありますし、組合もあって、ちゃんと1日の採取量を管理しています。が、潜ってとるのではなく、勝手に表に出て来たものについてはこの限りではありません。地元の人は昔からやっていたことで、組合もそれに目くじらを立てたりはしません。だから大潮の干潮になると、蚊口浜には手押し車を押したお年寄りを始め、大勢の人がやって来るのです。 「私は宮崎市出身なので、初めてこの光景を見た時はびっくりしました。夜、海からカチンカチンという音が聞こえて外を見たら、人がいっぱい。子ども心に何事かと思いました。蚊口浜の嫁は、かきの殻むきが出来ないとだめと言われるぐらい、かきは生活の一部になっているんです」 そう話すのは、蚊口浜で割烹旅館「磯亭」を営む中田弘幸さん。自ら素潜りで天然かきをとり、奥さん、息子さんと一緒に焼きかきに酢がき、かきフライ、かき飯、かき鍋など、さまざまなかき料理を提供しています。 中田さんの話だと、高鍋のかきは江戸時代から知られていたようで、高鍋藩主が食したという記録も残っています。中田さんが組合長を務める高鍋町カキ生産組合には、現在8軒が加盟。保護区域や漁期を設定したり、採取量を1日60kgに制限するなどして、蚊口浜が誇る天然資源としてのかきを保護しています。 岩がきは通常、表面がきれいな岩に付きます。その点、波が荒い日向灘では、荒波が砂を舞い上げゴロタ石の表面をきれいにしてくれます。しかも九州山地の山々に囲まれた椎葉村に源を発する小丸川が、森の養分をしっかり海に運んでいます。 高鍋のかき漁 こうして豊かな自然に育てられた高鍋のかきは、濃厚な味わいとぷりぷりの食感で多くの人を魅了します。また、高鍋の天然かきは、身の3分の1ほどもある大きな貝柱を持ち、そこが特にぷりぷり感を増幅させます。焼きかきにして、そのままの味を食べるのが一番。基本的にむき身では出荷しな