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料理の名引き立役もここでは主役。爽やかに香るカボスの産地を訪ねて - 竹田

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産地に暮らす人々は何にでも搾るカボス好き 大分県西部、奥豊後の中核都市である竹田市は、鉢の底のような盆地に開けた町です。くじゅう連山、祖母山、阿蘇外輪山など四方を大きな山に囲まれているためトンネルが多く、山に空いた無数の穴から「レンコン町」とも呼ばれます。 山間部の町らしく、昼夜の寒暖の差が大きく、そんな気候が県の特産物であるカボスの生育に適しています。竹田に暮らす人々にとってカボスは昔から身近な存在で、食卓に欠かすことの出来ない食材の代表格です。 作付けが始まったのは江戸時代からで、昭和40年代になってから県が積極的に奨励したことが、栽培面積増大の大きな要因となっています。民家の軒先にもカボスの木が植えられ、さまざまな料理の酸味や香り付けに利用されてきました。 焼き魚の薬味として、あるいは鍋料理、天ぷらのポン酢や酢の物に。揚げ物に搾れば油っこさを中和し食べやすくなるし、皮を吸い物に浮かせれば爽やかな香りが立ち込め、焼酎に適量の果汁を加えるとひと味違った味を楽しめます。また、味噌汁や新鮮な刺身にもたっぷりとカボスを搾るのが竹田流です。 竹田の人たちがいかにカボス好きか、それにまつわるこんな話がある。 県内の海沿いにある町へ新鮮な魚を食べに出掛ける時、竹田の人は必ずカボスを持参するそうだ。もちろん出て来た料理にかけるためです。料理屋自慢の新鮮な刺身にも、ちゅうちょなくカボスを搾るものだから、「私の店には酢をかけて食べなければならない魚はいない」とお店の主人が言ったといいます。 冷蔵技術と流通が発展した現代と違って、その昔、魚が竹田まで運ばれて来る間にどうしても生きが下がってしまいます。だから生魚に施す防腐手段として、酢をかける代わりにカボスを搾ったのだそうです。こうした習慣が長い年月の間に形を変えて今に残されているのかもしれません。 いずれにしても竹田の人々は、実にさまざまな食べ物にカボスを使います。特に露地ものの出荷が始まるお盆過ぎからは、手を伸ばせばカボスに当たるといった状態に。秋から冬にかけて利用頻度はますます高くなっていきます。 1年中楽しめるみずみずしい果汁と豊かな香り 選果場では、朝早くからカボスの箱詰め作業が行われていました。ベルトコンベアの上を流れるみずみずしいカボスは色づきや傷がチェックされ、みるみるうちに仕分けられていきました。 選り分けられた傷も

錦秋の耶馬渓と城下町・中津を訪ねる - 中津

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深耶馬溪、一目八景の鳶ノ巣山 岩また岩の奇勝耶馬渓 切り立った岩山を、彩り豊かな紅葉が染めます。九州随一の紅葉の名所として名高い耶馬渓の中でも、深耶馬渓の一目八景はモミジやカエデ、ハゼなど落葉樹の種類が豊富で、秋の深まりと共に鮮やかに色を変えていきます。岩と木々が織りなす八つの景色が一望出来るという一目八景には、鳶ノ巣山、群猿山、仙人岩などと命名された奇峰や奇岩が連なります。 この一帯は昔は川の名をとって山国谷と呼ばれていましたが、江戸後期の儒学者頼山陽が『耶馬渓図巻記』に「耶馬溪山天下無」と詠んでたたえたことから、その名になりました。1950(昭和25)年には、天領だった日田、修験道の聖地である英彦山と共に、耶馬日田英彦山国定公園に指定されています。 広く耶馬渓と呼ばれる地域は本耶馬渓、深耶馬渓、裏耶馬渓、奥耶馬渓に分かれます。太古の昔には九州は南北二つの島に分かれ、この山深い渓谷は海の底でした。火山の爆発によって溶岩台地が形成され、それが浸食されて生まれたのが耶馬溪の奇勝です。火山の爆発は3回あったと考えられ、流れ込んだ溶岩の性質の違いが景観にも表れています。深耶馬渓の岩はきめ細かで浸食されにくく、岩肌は滑らかで、川底が巨大な一枚岩で出来た渓谷もあります。一方、本耶馬渓の岩は浸食されやすく洞穴が生じやすくなっています。 本耶馬渓の見所は山国川に沿って岩峰が並ぶ競秀峰と、その断崖の下に禅海和尚が掘り上げた青の洞門です。競秀峰の通行路は岩場に並べた板を踏み、鎖を伝い歩く難所で、転落し命を落とす人も多くいました。諸国遍歴の途上で人々が難渋する様を見た禅海は、独力で洞門の掘削を開始し、やがて村人も手を貸すようになります。 羅漢寺 1期工事を終えると、人は4分、牛馬は8分の通行料を徴収して2期工事の費用とし、1764年に全長342mの洞門を完成させました。この逸話を基にした菊池寛の短編小説『恩讐の彼方に』で、禅海と青の洞門は一躍世に知られることになりました。競秀峰の下には今は国道が通っていますが、ノミと鎚だけで掘られたトンネルの一部が保存されています。 禅海の遺品を納めた禅海堂のある羅漢寺も、険しい岩山の中腹にあります。縁起によれば、645年にインドから渡来した法道仙人がこの地で修行したのが寺の起こりで

時を超えて息づく坂の城下町 - 杵築

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酢屋の坂 独特の地形を生かした城下町の姿 朝8時、ランドセルを背負った子どもたちが「酢屋の坂」の急坂を上っていきます。杵築小学校がある坂の上は、杵築藩の上級藩士の屋敷が並ぶ武家町があった場所。今も石垣と土塀に囲まれた屋敷が残り、まるで時代劇の世界に迷い込んだかのようです。映画やテレビのロケ地になることも多く、 最近では昨年5月公開の映画『居眠り磐音』の撮影が行われました。 杵築の城下町は、高山川と八坂川に挟まれた三つの台地を巧みに利用して築かれています。河口にある台地に城が建ったのは14世紀末。江戸時代になると、城の西側にある二つの台地、北台と南台の上に武家町が置かれ、その間の谷筋に商人町が形成されました。今に残る城下町の形が完成したのは、松平氏が藩主となった正保年間(1645~48)のことです。 杵築藩は3万2000石の小藩ながら、豊かな経済力がありました。松平氏は農業改革に力を入れ、トカラ列島伝来の七島藺(カヤツリグサ)の栽培を奨励しました。安価で耐久性、耐火性に優れた七島藺の畳は、庶民の畳として全国的に流行。七島藺の畳表は「豊後表」の名で杵築商人によって大阪へ運ばれ、そこから関東、東北地方へ出荷されました。これにより藩の財政は石高の2倍の規模があったと言われます。その経済力を背景に杵築藩は人材育成に取り組み、多くの学者を輩出しました。 城下町に独特の趣を生み出しているのが、約20mの高台にある武家町と商家町をつなぐ坂道。中でも風情豊かなのが、北台につながる酢屋の坂です。向かい側で南台につながる塩屋の坂から眺めると、歴史を感じさせる商家と石垣の上に土塀に囲まれた武家屋敷が見えて、城下町の特徴が一目で分かります。 酢屋の坂の上に建つのは重厚な茅葺き屋根の家老屋敷・大原邸。そこから重臣の屋敷が並んだ家老丁が真っすぐ伸び、城に向かって下る勘定場の坂につながっています。緩やかな石畳の坂道は、家老を乗せた馬や籠担ぎの歩幅を計算して造られたといいます。 勘定場の坂 台地上の武家屋敷は平均で300坪、家老の屋敷では600坪の広さがありました。北台と南台には当時の城下町絵図に描かれた区割がよく残り、2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 武家屋敷は普通、藩主から土地を与えられ