時を超えて息づく坂の城下町 - 杵築

酢屋の坂
酢屋の坂

独特の地形を生かした城下町の姿

朝8時、ランドセルを背負った子どもたちが「酢屋の坂」の急坂を上っていきます。杵築小学校がある坂の上は、杵築藩の上級藩士の屋敷が並ぶ武家町があった場所。今も石垣と土塀に囲まれた屋敷が残り、まるで時代劇の世界に迷い込んだかのようです。映画やテレビのロケ地になることも多く、 最近では昨年5月公開の映画『居眠り磐音』の撮影が行われました。

杵築の城下町は、高山川と八坂川に挟まれた三つの台地を巧みに利用して築かれています。河口にある台地に城が建ったのは14世紀末。江戸時代になると、城の西側にある二つの台地、北台と南台の上に武家町が置かれ、その間の谷筋に商人町が形成されました。今に残る城下町の形が完成したのは、松平氏が藩主となった正保年間(1645~48)のことです。

杵築藩は3万2000石の小藩ながら、豊かな経済力がありました。松平氏は農業改革に力を入れ、トカラ列島伝来の七島藺(カヤツリグサ)の栽培を奨励しました。安価で耐久性、耐火性に優れた七島藺の畳は、庶民の畳として全国的に流行。七島藺の畳表は「豊後表」の名で杵築商人によって大阪へ運ばれ、そこから関東、東北地方へ出荷されました。これにより藩の財政は石高の2倍の規模があったと言われます。その経済力を背景に杵築藩は人材育成に取り組み、多くの学者を輩出しました。

城下町に独特の趣を生み出しているのが、約20mの高台にある武家町と商家町をつなぐ坂道。中でも風情豊かなのが、北台につながる酢屋の坂です。向かい側で南台につながる塩屋の坂から眺めると、歴史を感じさせる商家と石垣の上に土塀に囲まれた武家屋敷が見えて、城下町の特徴が一目で分かります。

酢屋の坂の上に建つのは重厚な茅葺き屋根の家老屋敷・大原邸。そこから重臣の屋敷が並んだ家老丁が真っすぐ伸び、城に向かって下る勘定場の坂につながっています。緩やかな石畳の坂道は、家老を乗せた馬や籠担ぎの歩幅を計算して造られたといいます。

勘定場の坂
勘定場の坂

台地上の武家屋敷は平均で300坪、家老の屋敷では600坪の広さがありました。北台と南台には当時の城下町絵図に描かれた区割がよく残り、2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

武家屋敷は普通、藩主から土地を与えられて代々受け継がれるイメージがありますが、杵築藩では土地も屋敷も全て藩の所有で、役職に応じた官舎として武士にあてがわれました。その管理は徹底していたと、きつき城下町資料館の学芸員を務める阿南雅希さんは言います。

家老丁
北台にある家老丁の土塀

藩士の勤め向きなどをまとめた「御家中被仰出控帳」には、武家による新田開発は屋敷そのものに属することや、役職が変わり屋敷替えをする時に畳や建具、庭木を持ち出すことのないよう、引き渡しには目付普請方の検分が必要と記されています。阿南さんによれば、杵築には城下町の詳細な絵図や170年分に及ぶ町役所の日誌など貴重な文献資料が豊富に残っており、学芸員にとっては宝の山だそうです。

うれしの
うれしの

豊かな自然が育む杵築の味

大分には魚の切り身を醤油だれに漬け込んだ「りゅうきゅう」という郷土料理がありますが、杵築には新鮮な海の恵みを生かした、ユニークな名前の名物料理がある。16代続く若栄屋の鯛茶漬「うれしの」です。杵築の殿様が「うれしいのう」と喜んで食べたことが名前の由来。鯛の切り身を漬け込むゴマだれは、代々の当主のみが受け継ぐ秘伝の味です。

杵築城から一望出来る守江湾には、干潮時で東西1.5km、南北2kmに及ぶ干潟が広がっています。春には大勢の市民が潮干狩りを楽しむこの干潟は、全国でも珍しいカブトガニの生息地。その貴重な環境を守ろうと、住民による保全活動が行われています。

大小九つの川が流れ込む守江湾は栄養が豊富。湾の東側には牡蠣の養殖場があります。杵築で本格的に牡蠣養殖が始まったのは60年ほど前。県の漁業振興策として指導を受けながら、灘手地区の漁業者6人で取り組んだのが始まりです。

牡蠣養殖では筏方式が一般的ですが、ここでは竹の支柱に渡した縄に種牡蠣をぶら下げて育てる、簡易垂下方式を採っています。湾内は穏やかで、筏にして移動させる必要がないのだそうです。11月~翌年3月まで、種牡蠣を干潟域に置き成長抑制を行って抵抗力を付け、4月頃から本養殖場に移動。その後の成長は早く、半年後の10月中旬には出荷が始まります。現在、種牡蠣は宮城県産ですが、いずれは純杵築産の牡蠣を出荷することを目指して、天然採苗も始めています。

10年余り前まで、杵築の牡蠣は九州各地へ安価で出荷され、地元での消費はわずかでした。そこで2004年、漁協の組合員による牡蠣焼き小屋を開設。今では4店舗に増えて、牡蠣のシーズンを迎えると県内外から多くの人が訪れます。市内の飲食店でも牡蠣料理を出す店が増え、杵築産牡蠣の知名度は上がっています。

牡蠣の収穫
牡蠣の収穫

牡蠣の養殖場が見える海岸にある魚市魚座では、牡蠣を始め地元の新鮮な魚貝類を目の前の炭火で焼いて食べられます。昼時に訪ねると、平日にもかかわらずほぼ満席のにぎわい。炭火でふっくら焼いた牡蠣はうま味たっぷり。テーブルには次から次へと蛎殻が積み上がっていました。

牡蠣やハモ、赤エビといった海産物に加え、杵築の特産には柑橘類があります。温暖な気候と水はけの良い火山灰の土壌という好条件に恵まれ、年間を通じてさまざまな種類が作られています。

ハウス栽培のデコポン
ハウス栽培のデコポン

最高級のハウスみかん「美娘」は皮が薄く果汁の多い天草という品種のみかんで、この地方の方言で女の子を指す「びこ」から命名されたブランドです。上品な香りと甘さで、贈答用として高い人気を誇ります。

12月半ばの杵築柑橘選果場では、美娘や青島みかん、デコポンなど、鮮やかな色の柑橘類が出荷を待っていました。

2019年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)

杵築城模擬天守
杵築城の模擬天守

▼大分県杵築市

大分県北東部、国東半島の付け根に位置し、別府湾に面した海岸地域と山間地域から成ります。江戸時代は杵築藩の城下町で、当時の武家屋敷の区割がそのまま残る北台、南台地区が17年11月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。杵築市は貴重な歴史遺産の保存整備を進めると共に、09年には着物が似合う町として「きつき和服応援宣言」を発表。着物で散策する人は公共観光文化施設の入館料が無料になるサービスを実施し、町中にあるレンタル店の着物を利用する観光客は年間1万人に上ります。地域特性を生かした優れた産品を認定する「きつきブランド」には、別府湾かちえび、きつき紅茶、フランスの日本酒コンクールで最優秀に選ばれた「ちえびじん」などがあります。
【交通アクセス】
大分空港から大分空港道路の杵築ICまで約30分。海沿いを通る県道213号線は通称・杵築沿海路。
JR日豊線の杵築駅、中山香駅、立石駅があります。杵築駅から城下町のある中心部までは路線バスで約10分。

写真説明

●酢屋の坂:上り口に酢屋があった酢屋の坂。現在、坂の下にあるのは明治創業の味噌屋。手前は塩屋の坂
●勘定場の坂:城から北台の武家屋敷に向かう勘定場の坂。藩政時代、この付近に収税や金銭出納の役場がありました
●牡蠣の収穫:竹の支柱の間に下げたロープを引き上げて牡蠣を収穫します。ロープの重さは5kgほどあります。杵築産牡蠣1本分の漁獲量は年間100~200トン
●うれしの:JR九州の豪華寝台列車ななつ星の昼食に提供され、好評を博しています(若栄屋Tel.0978-63-5555)
●ハウス栽培のデコポン:大きく育った実の重さで枝が傷まないように、縄で吊って支えます


●杵築では瓦葺より草葺の屋根の方が格式が高かったと考えられています。家老屋敷・大原邸は企業の社宅などに使われた時期もあり、現在は往事の姿に修復され一般公開されています


●炭火で焼き上げた牡蠣はうま味が強いのにあっさりとした味わい(魚市魚座Tel.0978-63-9100)


●七島藺と世界農業遺産:杵築市を含む国東半島宇佐地域は2013年、国連食糧農業機関(FAO)の世界農業遺産に認定されました。国東半島は降雨量が少なく、半島中央の両子山系から放射状に伸びる谷川は短く急なため、水田に必要な水の確保は困難でした。そこで作り上げられたのが、ため池と周辺のクヌギ林をつないで水を循環させるシステム。水田を利用する七島藺の栽培にもそのシステムが活用され、杵築藩の財政を支えました。七島藺の栽培面積は大正末期から昭和にかけて高い水準を維持し、畳表は海外にも輸出されていきました。しかし昭和40年頃には住宅の洋風化や中国産い草の増加などで急速に減少。杵築市では15年ほど前に七島藺の栽培が途絶えました。これを復活させようと14年に七島い栽培復活継承協議会が発足。生産技術と加工技術の継承を目指して研修会が行われています。写真は七島藺を使った工芸の研修会での円座づくり。

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