時代と共に変わりゆく街にひっそりと残る高野街道の面影 - 河内長野
高野街道に酒蔵を構える西條合資会社 |
宿場の面影を今に残す町並み
大阪ミナミの繁華街・難波と、真言密教の聖地・高野山とを結ぶ南海電気鉄道高野線の河内長野駅前に、方錐型の碑が建っています。京都を起点に高野山を目指す東高野街道、大阪・平野を起点とする中高野街道、堺を起点とする西高野街道の合流点を示す碑です。
三つの道は一本の高野街道となって紀見峠を越え、高野山へと至ります。堺から高野山女人堂までの街道沿いには13基の里石道標が置かれ、その全てが今も残っています。河内長野市内にあるのは九里石と八里石です。
高野街道の面影をよく残しているのが、八里石のある三日市宿の町並みです。河内長野では昭和30年頃から宅地開発が進み、かつての町並みは次々に姿を消していきました。宿場のあった三日市町駅周辺も再開発で整備されましたが、駅から少し離れると、道の両側に格子が連なる古い町並みが姿を現します。
街道はこの三日市を過ぎると険しい紀見峠へと向かいます。そのため、庶民の参詣者が増えた江戸時代に宿場が開かれて大いににぎわいました。1760(宝暦10)年の記録によれば、三日市宿には215軒の家々があり、その多くが旅籠や旅人相手の商家で占められていました。そのにぎわいも、1898(明治31)年に南海鉄道高野線の前身である高野登山鉄道が開通すると衰え、宿場町としての役割を終えました。
その町並みの中程に、木綿問屋を経て酒造業を営んだ八木家の建物があります。18世紀後半に建築された平屋建てで、伝統的な町屋の外観をよくとどめています。三日市宿は江戸時代に四度の大火に見舞われましたが、火災を免れた八木家の母屋と土蔵は国の登録有形文化財となっています。その他にも幕末から明治にかけて建築された旅籠や町屋の建物が軒を並べており、今も現役の住宅として使われています。
かつての旅籠や商家の建物が残る三日市宿の町並み |
古い町並みは河内長野駅の近くに酒蔵を構える西條合資会社の周辺にも見られます。1718(享保3)年の創業で、入母屋造に虫籠窓が開かれた旧店舗主屋がその歴史を感じさせます。代表銘柄は天野酒。聖武天皇の勅命で開かれたという天野山金剛寺で造られていた天野酒を、50年ほど前に復活させました。
平安時代以降、大和や河内など各地の大寺院で醸造された酒は「僧坊酒」と呼ばれ、あそたが、金剛寺の天野酒は「天野無比類」「美酒絶言語」とたたえられ、多くの戦国武将に愛飲されたと伝わります。太閤秀吉もこれを愛でて、良酒造りに専念するようにとの朱印状を金剛寺に下付しています。
河内長野駅と三日市町駅の間の高野街道には、古い町並みの他に戦国時代の山城烏帽子形城趾などの史跡もあります。毎年11月には往時の街道のにぎわいを取り戻そうと、高野街道まつりが開かれています。
楠木正成ゆかりの真言密教寺院
河内長野市の観光キャッチフレーズの一つに「文化財のまち河内長野」とあります。市内には国宝6件、重要文化財77件、合わせて83件の国指定文化財があり、その数の多さは大阪府内では大阪市に次いで2番目、全国の市町村の中でも14番目に数えられるのだそうです。
京都と高野山との往還の途中にあったこの地には、天野山金剛寺、檜尾山観心寺という弘法大師空海ゆかりの真言密教の大寺があり、それら文化財の多くはこの二つの寺で守られてきました。
高野山真言宗遺跡本山の寺格を持つ観心寺は701(大宝元)年、修験道の開祖・役小角が修行道場として草創。815(弘仁6)年に空海が観心寺の寺号を与えたと伝えられます。空海の高弟・実恵が伽藍造営に着手し、寺の基礎を確立しました。
紅葉の名所としても知られる観心寺の金堂 |
観心寺はまた、楠正成と深いつながりを持った寺でもあります。塔頭の一つ中院は楠家の菩提寺で、寺伝によれば正成は8歳から15歳までこの寺で学びました。正成は鎌倉幕府倒幕を志した後醍醐天皇に呼応し、現在の河内長野市に隣接する千早赤坂村に築いた赤坂城で挙兵。建武新政の立役者となりました。
倒幕後、後醍醐天皇の命で造営され、正成がこれを奉行した金堂が今に残り、国宝に指定されています。丹塗りを施した柱が鮮やかな金堂は、和様を基調に禅宗様、大仏様を採用した折衷様で「観心寺様式」と呼ばれます。
その金堂の傍らには、わらぶきの屋根がどこかアンバランスな印象を与える建掛塔が建ちます。本来は三重塔となるはずが、塔の建立を誓願した正成が湊川の戦いで敗れたため、初重が出来たところでそのまま残されました。湊川で討ち死にした正成の首級は、足利尊氏の命によって観心寺に送り届けられ、境内奥の首塚に祀られています。
2016年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)
▼大阪府河内長野市
大阪府の南東端に位置し、東は奈良県、南は和歌山県と接して、金剛山地とそれに連なる和泉山地が両府県を隔てています。南部の山麓地域は豊かな自然に恵まれ、観心寺、金剛寺を始め歴史的価値の高い文化財を多数有しています。中世の鋳物師(いもじ)の伝統を受け継ぐ鋳物の産地でもあり、その流れで現在は可鍛鋳鉄やステンレスなどの製造業が盛んです。また豊富な森林資源を生かして、つまようじやすだれの生産も盛んに行われました。一方、昭和29年に長野町と五つの村が合併して市制施行されて以来ニュータウンの造成が進み、大阪市の衛星都市として発展してきました。
【交通アクセス】
南海電車の大阪・難波駅から南海高野線急行で27分。
関西国際空港からリムジンバスで約60分。
写真説明
●つまようじ:「ようじ」は奈良時代、仏教と共に日本に伝わったといわれます。江戸後期から需要が拡大。森林資源に恵まれ材料となるクロモジが豊富だった河内長野では、明治中頃からようじ生産が地場産業として発展しました。約20年前の最盛期には国内シェア95%以上を占め、輸出も盛んに行われました。しかしその後の廉価な中国産の普及により、国内産業はほぼ潰滅状態にあります。そんな中、大正6年創業の広栄社は国産「三角ようじ」や歯間ブラシなどのオーラルケア用品専門メーカーとして、歯の健康を守る商品を世に送り出しています。
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