国産の伝統を守り、今新たな時代を迎えた漆の里 - 二戸

漆搔き
漆搔き

漆の一滴は血の一滴

漆を採取する仕事を漆掻きと言います。樹齢15年から20年ほどのウルシの表皮にき傷(辺)を付け、そこから出る樹液を掻き取るのです。二戸市浄法寺町とその周辺地域では、国内では希少になった漆掻きの技が守られています。現在、日本国内で消費される漆の約98%は主に中国などの外国産で、国産漆はわずか2%。その国内産の約7割をこの地域で産出しています。

浄法寺で漆掻きが行われるのは6月から9月にかけて。漆きの作業はまず、ウルシの幹に小さな傷を付け、樹液の分泌を促すことから始まります。その後は4日おきに傷を付けては、にじみ出る漆をヘラで掻き採っていきます。これを「四日山」と呼び、同じ木を毎日くのではなく休ませることで、良質の漆をより多く採れるようになります。­

職人は年ごとに400本ほどのウルシを山の所有者から買い取りますが、木の生えている場所は山のあちこちにあるので、日に100本、4日で全てを回れるように割り振って仕事を進めています。とはいえ雨の日には作業が出来ないので、良質の漆が採れる真夏に長雨が続いた年は収量が少なくなるそうです。

きの作業は9月末まで続き、漆を採り尽くして役目を終えた木は伐採されます。1本の木から採れる漆の量は約200g、わずかコップ1杯分です。

「傷を治そうとして出る漆は人で言えば血液のようなもの。『漆の一滴は血の一滴。一滴たりとも無駄にするな』と、塗りの修行中に師匠から教えられました」

そう話すのは、浄法寺塗の塗師小田島勇さん。浄法寺塗は奈良時代の開山と伝わる天台寺で使われた「御山御器」がルーツとされます。戦後の生活様式の変化で需要が減り一度は途絶えたものの、昭和50年代に地元の人たちの努力で再興。二戸市は平成7年に浄法寺塗の工房と販売所を併設した滴生舎を作り、漆の伝統をつないできました。

漆搔き
表皮に付けた傷から出る漆をヘラで掻き取ります

漆搔きの道具
漆搔きの道具
現在、浄法寺の漆き職人は20人余りで、その多くが70代です。漆きの仕事を始めて61年、76歳(取材当時)になる工藤竹夫さんに作業を見せてもらいました。漆きで大事なのは傷の付け方だと工藤さんは言います。傷が深すぎると木が秋までもたず、採れる漆の量が少なくなるのです。表皮の厚さや堅さは一本ずつ異なるので、それに合わせて手加減をしながら傷を付けます。

「腕だけを使っているようですが、全身を使って力を込めないと上手に傷が付かないんです。傷がぶれるとヘラが合わずに漆が逃げてしまいます」
工藤さんは今、その技を次の世代につなごうと若い弟子たちの指導に当たっています。

国産漆を巡る状況は、2015年頃から激変しました。文化庁は国宝や重要文化財に指定された建造物の修理に国産漆を使用する方針を決め、それによって需要が急増したのです。浄法寺漆は以前から日光東照宮を始めとする文化財修復に使用されており、修復を終えた国宝の陽明門にも大量の浄法寺漆が使われています。文化庁の方針が出てからは、職人もウルシの木も不足して需要に全く追いつかない状態です。

そこで二戸市は、2016年から漆きの担い手として年に2人ずつ地域おこし協力隊員を任命。文化庁が支援する日本うるしき技術保存会も若い世代の伝承者養成の取り組みを強化し、工藤さんら熟練の職人が技術指導に当たります。更に二戸市は肝心の木を増やすためにウルシの植林を推進。肥沃な土壌を好むウルシの生育には里山の環境が向くことから、農地などを利用した植栽を市民に呼び掛けているところです。人と木を育むことで、日本が世界に誇る漆の伝統を受け継いでいくのです。

秀吉の奥州再仕置で滅びた九戸城

東北新幹線の盛岡駅から北へ向かうと、二戸、八戸、七戸十和田と、数字に「戸」の付いた地名の駅が続きます。岩手と青森の県境を挟んで、岩手県側に一戸町、二戸市、九戸村、青森県側には三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、八戸市と、戸のつく地名が点在しています。この地名の由来には、鎌倉時代の牧場制度の名残などいくつかの説がありますが、いずれにしろ行政上の区画を表すと考えられます。この一帯は鎌倉時代に発祥した奥州南部氏の領地で、二戸市には南部一族の九戸氏が築いた九戸城がありました。

九戸城跡
九戸城跡

室町時代の末、南部氏の最盛期を築いた第24代当主の南部晴政の死後に後継者争いが勃発し、九戸氏と田子氏が激しく対立しました。天正19(1591)年3月、九戸政実が挙兵して南部を二分する戦いに突入。初めは九戸方が優勢でしたが、対する田子信直が豊臣秀吉から26代当主の公認を得たことから形勢が逆転します。秀吉はこの前年に奥州仕置軍を送って東国を支配下に置き天下統一を成し遂げていましたが、これに反発して東国各地で一揆や反乱が発生。豊臣政権は鎮圧のために前田利家、石田三成、伊達政宗らが率いる再仕置軍を派遣しました。政実は5000の兵と共に九戸城に籠もりましたが、総勢6万の再仕置軍に包囲されて降伏。政実と重臣7人は総大将の豊臣秀次のいる三の迫(宮城県栗原市)で斬首されました。

九戸城は三方を川に囲まれた平山城で、現在の城跡には中世に築かれた九戸城の姿と、その落城後に築かれた福岡城の近世城郭の姿の両方をとどめており、1935(昭和10)年に国の史跡に指定されました。落城後に築かれた福岡城本丸の下には戦禍の痕跡が見られ、堀跡や溝跡など九戸城時代の遺構が残ります。平成11年にはその遺構から漆の付着した貝殻や、漆に金泥を塗り込めた鎧の札などが出土し、城内に武具を仕立てる工房があったと考えられています。

2017年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)

▼岩手県二戸市

岩手県内陸部の北端、青森県との県境に位置します。2006年1月に二戸郡浄法寺町と合併。市域の大半を北上山地、奥羽山脈からなる山地や丘陵地が占め、馬淵(まべち)川、安比(あっぴ)川沿いに市街地を形成。豊臣秀吉の奥州再仕置によって落城した九戸(くのへ)城跡や、座敷わらしの伝説が残る金田一温泉があります。浄法寺漆の里、浄法寺地区にある天台寺は728年に聖武天皇の命で開山されたと伝わります。カツラ一木造の本尊、聖観音立像と十一面観音立像は平安中期の作と推定され、国の重要文化財に指定されています。87年には瀬戸内寂聴師が天台寺住職(現・名誉住職)となり、「あおぞら説法」で注目を集めました。
【交通アクセス】
東北新幹線の二戸駅、IGR岩手銀河鉄道の二戸駅、斗米駅、金田一温泉駅があります。
奥州街道と呼ばれる国道4号線が市域を縦断。八戸自動車道の浄法寺インターチェンジがあります。

馬仙渓
馬仙渓

写真説明

●漆き:左手に漆を入れるき樽、腰に道具入れと蚊取り線香を下げ、地下足袋履きという昔ながらの姿で作業する浄法寺の漆き職人、工藤竹夫さん
●漆きの道具:漆を入れるき樽、傷を付けるカンナ、ヘラ、傷を付ける前に木肌を平らにするカマなど、職人は使い易いよう調整して使います
●九戸城跡:本丸には東北最古と言われる石垣が残ります
●馬仙渓:馬淵川に面して男神岩と女神岩がそびえる馬仙渓。男神岩を間近に望む場所に展望台があり、二戸市内が一望出来ます


●県の試験林で育成されたウルシで、漆きをする地域おこし協力隊の隊員。今では単独で作業が出来るまでに上達。冬季は漆塗など他の仕事に従事します


●馬淵川流域のわずかな平地に田畑や宅地があります


●浄法寺塗は漆を塗り重ねることで厚みを出します。仕上げの磨きをしないため落ち着いた質感で、使い込むうちに自然な艶が出てきます


●「浄法寺の漆は職人や採取時期、木が育った場所によって異なり、その特徴を見極めて使うのが難しくもあり楽しくもあります」と塗師の馬場真樹子さん


●天台寺の本堂は2019年完成を目指して保存修理の工事中。瀬戸内寂聴師が使った書斎のある寂庵が仮本堂になっています


●そばかっけ:南部地方の郷土料理「そばかっけ」は、もともとはそばを打った時に出る切れ端を鍋に入れて食べたもので、「かっけ」は「かけら」の意味とされます。そば粉を練って薄く伸ばし、三角形に切ったものを、大根や豆腐と一緒に鍋で煮て味噌を付けて食べます。二戸ではにんにく味噌が一般的。白いのは麦で作った「麦かっけ」。南部地方は夏に「ヤマセ」と呼ばれるオホーツクからの冷たい東風に見舞われることから、昔は雑穀やそば、麦の畑作が中心で、そばかっけの他にも「ひっつみ」(小麦粉を用いた汁物)などの郷土料理があります。

コメント