手筒花火が轟く、三州吉田をそぞろ歩く - 豊橋
手筒花火 |
夜空を彩る炎の祭典
火柱が噴き上がり、火の粉が雨のように降り注ぎます。やがて爆裂音と共に火が大きく爆ぜると、一面に火薬の臭いと白煙が立ち込め、見物人からは歓声が沸き起こりました。
豊橋市の吉田神社では毎年7月第3金土日曜日の3日間で豊橋祇園祭が行われます。その幕開けを告げるのが、吉田神社が発祥と言われる手筒花火の奉納です。東三河地域と静岡県の一部にだけ伝わる手筒花火は、縄を巻いた竹筒に火薬を詰め込み人が抱えて上げる花火。
江戸時代、徳川家康の編成した鉄砲隊が火薬の取り扱いを故郷の弟子たちに伝授したことから、古来、三河では花火が盛んでした。もともとは戦国時代の狼煙がルーツだといいますが、江戸時代に黒色火薬が使われ始めると、煙だけでなく鑑賞に耐え得る現在のような花火が作られるようになりました。
手筒花火は地上に寝かせて点火し、安全を確認してから抱え上げます。火の勢いは徐々に強くなり、火柱の高さは10mにもなりますが、男衆は降り注ぐ火の粉を全身に浴びながら仁王立ちでじっと同じ姿勢のまま耐え続けます。その昔、男性は手筒花火を経験して初めて成人と見なされました。危険を恐れず手筒花火を抱える行為は、勇気の証であり男の美学でもあったのです。
手筒花火最大の魅力は花火のクライマックスに轟く「ハネ」です。着火から40~50秒後、爆裂音と共に手筒の底が抜けるハネを迎えて花火は終了となります。手筒を抱える人にすれば「緊張からの解放感と、成し遂げた達成感の両方を味わえる最高の瞬間」なのだといいます。
身体を張って打ち上げる手筒花火は、竹の切り出しから火薬詰めまでを全て自分たちで行うというのも、この地域に代々伝承されてきた文化です。8カ町の氏子それぞれに秘伝の製造方法があるそうですが、基本は同じ。火薬の取り扱いは法律で規制されているため、花火を作る氏子は毎年講習を受けることが義務づけられています。火薬を詰めるのは祭りの前日。火薬と共に混ぜる鉄粉の大小で、噴き上げる火柱の勢いや音を変えることが出来ます。
祭の当日、午後6時からの宵祭の後、大筒花火などと共に、今年は315本の手筒花火が奉納され、勢いよく上がる火柱が夏の夜空を赤く彩りました。
全国一のウズラ王国
手筒花火が盛んな東三河地域は、温暖な気候と豊かな水に恵まれた全国有数の農業生産地としても知られます。トマト、スナップエンドウ、大葉(しその葉)など全国トップクラスの生産高を誇る品目が多くあります。特にウズラ卵は全国生産量の約60%を東三河が占め、中心地である豊橋では、18の生産者が250万羽のウズラを育てています。
現在、野生のウズラは絶滅危惧種に指定されていますが、元々はキジ科の渡り鳥で日本中に生息していました。大正10年頃から豊橋を中心にウズラの飼育が始まり、近年家禽として飼養されているのは野生ウズラを多産型に改良したもの。発育が早く、17日目に孵化し、生後約40日目から卵を産み始め、その後、年間約250個というハイペースで産卵し続けます。
昔からウズラ卵は栄養豊富、滋養強壮に良い食材として知られ、東洋医学ではマムシや朝鮮人参と並んで三大滋養薬に数えられます。戦後の食糧難で重宝された後、病院食や学校給食などに採用されるようになり急速に普及しました。ウズラ卵には、鶏卵と比較してもビタミン群やミネラル分が豊富に含まれており、体調に合わせて1個2個と数の調整をしやすいとあって、子どもから年配の方までおいしく食べられる栄養補給源として利用されてきました。
生卵か水煮での出荷がほとんどでしたが、近年、消費拡大のためにこれまで接点のなかった業種とのコラボレーションが試されています。例を挙げると、エビせんべいの原料に使ったところ、柔らかな食感が得られるなどの好評を得、原料としてのウズラ卵が見直されています。現在は、洋菓子や加工食品といった製品に利用され、意外なところで口にする機会も増えています。
藩政期には木綿の産地として、明治以降は製糸業が発展した豊橋。そんな背景もあって、手筒花火の時に着られる刺子半纏や、日本の伝統的な仕事着の一つ「帆前掛け」が、今も作られています。帆前掛けの由来は、船の帆に使われる帆布で作られたからといいますが、丈夫で使い勝手が良かったため、戦後に造り酒屋や商店で働く人たちが愛用。後に銘柄やロゴを入れたことで販売促進ツールとして一気に全国へ広まりました。最近では、どこか懐かしさを感じるデザインから、カフェや美容室など全く新しい分野でも使われているようです。また、外国人向けに「バーベキューエプロン」と名付けて売り出したところバカ売れ。土産品や贈り物としても人気があります。
豊橋市には、もう一つ古くからの地場産業があります。現在もほとんどが伝統的な技法で作られる「豊橋筆」です。吉田藩の学問所に招かれた京都の筆匠が作ったのが最初と言われ、その後は筆の材料であるイタチやタヌキの毛が豊川河畔で入手出来たので、下級武士の副業として発展しました。しかも分業ではなく最初から最後まで一人の職人が作り上げるため、書道家などの要望に応えながら技術が高められていきました。
最盛期の昭和40~50年代には約3000人の職人がおり、50年代以降に芸術書道が盛んになると、ますます高級筆のニーズが高まりました。「墨含みが良く、墨はけが遅い」と使い勝手の良さが評価され、現在も書道用を中心に工芸用、日本画用など高級筆のシェアでは全国の約70%という生産量を誇ります。
2013年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)
▼愛知県 豊橋市
中世から江戸時代まで市の中心部は吉田と呼ばれ、江戸時代には吉田藩の城下町、吉田宿の宿場町、豊川水運で栄えた港町でした。1869年の版籍奉還で、吉田から豊橋に改称されました。現在は、5市3町1村からなる東三河地域の中核をなす都市。東は弓張山系を境に静岡県と接し、南は太平洋、西は三河湾に面しており、豊かな自然と温暖な気候に恵まれています。
写真説明
●手筒花火:地上に寝かせた状態で点火し、抱え手は経験豊富な年配の点火者の指示で、少しずつ手筒を起こしていきます
●ウズラ卵:生産日本一を誇る豊橋には、日本で唯一のウズラ専門農協(豊橋養鶉農業協同組合)があります
●1925年に開通した豊橋鉄道市内線の路面電車。今も市民の足として親しまれています
●豊橋筆は、高級筆として書家からの評価も高くなっています(撮影協力:柴田祥雲堂)
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