磨き丸太と本葛の故郷は、古代日本史の表舞台 - 宇陀

室生寺五重塔
国宝の室生寺五重塔

伝統産業、磨き丸太

宇陀市を含む吉野地方は、山林が大半を占め、古くから林業が盛んです。年間平均気温は14度、降水量は日本の年平均の1.3倍あり、保水性に優れた土壌のため、杉が育つのに最適な気候風土となっています。いわゆる吉野杉の産地で、中でも床柱など、装飾に用いる磨き丸太の加工が盛んです。ちょうど製造の真最中というので現場を訪ねてきました。

磨き丸太は樹皮を剥がした丸太の表面を、滑らかになるまで小砂利や棕櫚の毛などで磨いたものです。山で伐り出された原木の皮むき作業が行われるのは、12月から3月の寒い時期。この時期の木は、年輪でいう色の濃い冬目の部分が木肌となります。硬く締まり、磨くと表面に光沢が浮かび上がります。反対に木肌の白い夏目の頃は、木が柔らかく簡単に傷が入ってしまい、良い磨き丸太は出来ません。木をすっかり乾燥させるために寒風に当てる他、皮をむくために大量の水を使うなど、冬場にはきつい作業ですが、寒さは絶対に欠かすことが出来ない条件です。

磨き丸太の中にはごくまれに、木の表面に絞り模様や凹凸模様が自然に現れるものがあります。これらは天然絞り丸太と呼ばれ、大変珍重されてきました。ところが、後にこれを模した人造の絞り丸太の製造法が考案され、現在その多くが宇陀で造られています。

磨き丸太、絞り丸太の製造は植林から伐採、加工まで長い年月と多くの手間が掛かります。山地に密植された杉やヒノキは丁寧に枝打ち・間伐され、製品に適したものが選別されます。吉野杉の場合、1本1本見極められ、製品となるのはおよそ5本に1本。樹齢50年未満のものが丸太として使用されます。これ以上では床柱には太すぎるためです。

絞り丸太にする木はあらかじめ決められており、立ち木の状態で加工されます。箸のような形をしたプラスチック製の型を木肌に数多く押し当て、針金できつく巻き付けるのが加工のやり方です。1~2年、この状態を保った後、針金を外すと、無数の型の跡が絞り模様になって現れます。立木のまましばらく置いて、型の跡が緩んだ後に伐採、皮をむき、磨けば人造絞り丸太の完成となります。

木肌を傷つけないよう、水圧で木の皮を剥きます

最近は床柱のある家が少なくなり、以前ほどの生産量はありませんが、用途は広がっています。洋室に使われるようになった他、屋外での使用も増えています。また幼稚園やレストラン、温泉施設の建材として採用されるなど、新たな可能性も見いだされています。

白さ際立つ吉野本葛

磨き丸太と同様、宇陀で冬に最盛期を迎えるのが本葛作り。

冷風で十分に乾燥させた吉野本葛
葛はマメ科の多年生植物で、その根から得られる澱粉を精製したものが葛粉。混じり気のない葛粉100%のものを本葛と言います。葛粉の中でも最高品質とされ、特に宇陀周辺で製造されるものは吉野本葛として地域ブランド(地域団体商標)登録されています。

本葛と言えば高級食材の一つですが、葛そのものは『万葉集』や『枕草子』にも登場して、秋の七草の一つにも数えられる身近な植物です。全国どこにでも見られ、砂漠の緑化に利用されるほどの生命力を持ち合わせています。

そのため江戸時代には各家庭で植え、葛粉を採取して食用とすることが奨励されました。何年も保存が利く葛粉は、飢饉で米などの作物が取れない時の備えとして重宝されました。ただし、葛粉を作るのには相当な手間と労力を要します。

葛の採取は、葉を落とし根にたっぷりと栄養をため込んだ冬の間に行われます。採取した根を破砕して絞ると、澱粉質が沈殿します。この澱粉には不純物が多く含まれるため、奇麗な水を何度も入れ替えて汚れが浮いた上澄みを取り除きます。今でこそ機械で行う作業ですが、かつては手で冷たい水を入れ替えていました。

「何もこんな寒い時にやらなくても、という考えが頭をよぎることがある」そうですが、気温が上がると溜めた水にバクテリアが繁殖するため、どうしても寒い冬の間の作業となります。不純物が取り除かれた澱粉を冷たい空気にさらして乾燥させると、白さが際立つ吉野本葛が完成します。葛粉の製造に欠かせない「大量の奇麗で冷たい水」と「乾燥に適した寒い気候」が、宇陀にはそろっています。

体を温め血行を良くすることから、葛粉は風邪のひき始めなどに効能のある生薬、葛根湯として利用されてきました。冷めにくい性質から冬にはとろみのある葛湯に、冷めると固まる性質から夏には涼やかな葛餅に。お菓子の他にも、和食のあんなど食材にとろみを付け、味を引き立たせる役割で使用されています。

大和朝廷起源の地

『古事記』『日本書紀』にもその名が見られるなど、宇陀の歴史を振り返ると話は古代に及びます。古代日本の中央集権国家である大和朝廷が、この宇陀から起こったという興味深い話があるのでご紹介します。

宇陀市松山の町並み
古代の宇陀一帯では、水銀の原料である朱砂・丹砂(朱色の硫化水銀)が無尽蔵に取れました。水銀は当時、最も価値の高いものの一つで、秦(中国)の始皇帝が不老長寿の薬として水銀を求めた話は有名です。ところが当時の日本ではあまり価値があるものだと思われていませんでした。

大和朝廷がまだ存在していない239年に、邪馬台国が魏国へ遣いを送りました。この時献上した品に対する魏からの下賜品の中に、それほど珍しくない鉛丹(水銀)が含まれていました。これによって初めてその価値を知った(であろう)邪馬台国は、4年後の朝貢の際には魏への献上品として水銀をリストアップしています。

中国では皇族や貴族が薬として飲んでいた以外に、防腐剤や鮮やかな朱色の顔料として使用しました。また、もう少し後になってからは仏像に塗る金メッキに不可欠な素材として水銀は重用されました。奈良の大仏に水銀が金メッキとして大量に使われているのは有名な話です。

大和朝廷の出現前、大きな力を持っていたのは、中国山地の日本海側(出雲)の勢力です。その背景にあったものは鉄。砂鉄の産地であったことから、鉄を交易品として国を豊かにしました。ところが、鉄よりも価値が高いという水銀が大和地方にあると分かってからは、権力者らは大和を手中に収めようとします。

だから日向(宮崎)を発った後、大和を目指した神武天皇の東征も、その目的は宇陀の水銀を支配するためだったのかもしれません。資料も何もない時代の話なので想像の域を出ませんが、古代史の表舞台となった地で歴史に思いを馳せてみるのも悪くないでしょう。

宇陀には女人高野として有名な室生寺や又兵衛桜、歌聖柿本人麻呂が魅了されたかぎろひの丘、水の分配を司る水分神社など、歴史資産や自然も豊富。ぜひ訪れてその目で確かめてみてはどうでしょう。

2014年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)

▼奈良県 宇陀市

奈良県北東部、北は奈良市、山添村、西は桜井市、南は吉野町、東吉野村、東は曽爾村、三重県名張市に接します。『古事記』や『日本書紀』に「宇陀」の記載が見られ、神武伝承の舞台としても知られます。大和と伊賀・伊勢を結ぶ東西の交通の要衝で、室町時代に始まり江戸時代に盛んになった庶民のお伊勢参りの宿場町として繁栄しました。内陸性気候で、冬は季節風の影響を強く受け寒さが厳しい一方、夏は冷涼で過ごしやすい気候となっています。

写真説明

●冷風で十分に乾燥させた吉野本葛:その希少性から「白いダイヤモンド」とも呼ばれます
●宇陀市松山の町並み:2006年に重要伝統的建築物群保存地区に選定されました


●天日干しした後、屋内で更に60日間じっくりと乾燥させます

●木肌の表面にシワのある天然絞り丸太を模した人造絞り丸太。立ち木にプラスチック製の当て木を針金で巻きつけ人工的に凹凸模様を作ります(撮影協力:森庄銘木産業)

●吉野本葛と水だけで炊きこまれた葛餅。時間が経つほど白くなっていくので、透明なうちにモチモチの食感と得も言われぬのどごしを楽しめます(撮影協力:森野吉野葛本舗)

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