300年の歴史と伝統を現代に生かす足袋の町 - 行田

足袋の縫製
足袋の縫製

伝統の産業と新たな挑戦

行田は北の利根川、南の荒川に挟まれた平坦な地形で、肥沃な大地を生かした藍染の綿布の製造が盛んでしたた。それを原料にして、江戸中期に足袋の生産が始まり、足袋づくりは忍藩士の内職として奨励されたと言われています。

明治になるとミシンが導入され、日清・日露戦争の軍事用の足袋の需要もあって、生産量が増大。明治43年には行田電燈株式会社が設立されてミシンの電動化が進み、行田の足袋産業は飛躍的な発展を遂げていきます。それに伴い、染色工場やミシン商、鉄工場、印刷業、箱屋など、足袋に関連する産業も活気づきました。行田足袋は東北地方や北海道へ販路を広げ、最盛期の昭和10年頃には市内に200社以上の足袋商店があり、全国シェア8割を占めました。

戦後は洋装化が進んで足袋の需要は激減し、足袋商店の多くは被服生産などに転換していきました。現在、市内で足袋生産を続ける会社は12軒ほど。その一つ、きねや足袋を訪ねて、3代目社長の中澤貴之さんに工場を案内してもらいました。

足袋づくりには、裁断前に布を重ね整える「ひきのし」に始まる13工程があり、分業で行われます。裁断に用いるのは創業当初から約70年使われてきた裁断機と金型。どんな足にもフィットするようにと、祖父や父の代に作られた鉄製の金型は、パターンやサイズの異なる1700種類があります。

縫製は九つの工程に分かれ、甲の親指側と四つ指側、それに底のパーツを、各工程に合うミシンを使って職人が縫い合わせていきます。つま先部分を縫う「つま縫い」用ミシンは、100年以上前に輸入されたドイツ製の製靴用ミシンを改良したものです。立体的な膨らみをつけながら縫うには、このミシンと職人の技が不可欠だと、中澤さんは言います。

足袋の金型
足袋の金型

その伝統の製法を生かして、中澤さんが開発したのが「ランニング足袋」。きっかけは裸足のマラソン・ランナー、高岡尚司さんの「裸足感覚で走れる足袋がほしい」という依頼でした。足袋の可能性を広げたいと考えていた中澤さんは、試行錯誤の末、天然ゴム製のソールを縫い付けたランニング足袋を作り上げました。

行田市立東小学校
地下足袋で学校生活を送る行田市立東小学校の児童たち
偶然にも時を同じくして、ランニングシューズ開発に挑戦する行田の老舗足袋屋の奮闘を描いた小説が世に出ます。小説はテレビドラマ化され、市内に残る足袋工場や商店街、公園などで撮影が行われました。ドラマ放映後はロケ現場を巡ろうと多くの観光客が訪れ、きねやのランニング足袋も注目を集めることになります。

「ただ珍しいから作ったわけではなく、人間本来の歩き方や走り方を取り戻すというのが、ランニング足袋のコンセプトです。これを履くと自然につま先から足を着くようになり、脚やひざに掛かる負荷が少なくなります。厚いソールに頼り切ってしまうシューズと違って、足袋は裸足に近い感覚で、履くことによって体幹が鍛えられ、身体の方が変化していくんです」(中澤社長)

小学校や幼稚園で子どもに裸足で活動させる「はだし教育」の取り組みがありますが、行田市立東小学校では全校児童が地下足袋を履いて学校生活を送っています。これは行田市が中京大学と進める共同事業で、児童のバランス能力や土踏まずの形状などを測り、足袋が足の形成や健康面にもたらす効果の研究を進めています。

報告はこれからですが、足指のつかむ力が増すなど変化が見られると、柿沼耕一校長は話します。

「足袋を履くことを通じて地域の歴史や産業に興味を持ち、誇りを感じる子も増えています」

足袋を履いた効果は、健康面だけにとどまらないようです。

地域の遺産を町づくりに生かす

行田の中心街には、たくさんの古い蔵が点在しています。足袋を保管するための足袋蔵です。足袋の出荷は秋口に本格化することから、製品を保管する倉庫として蔵が建てられました。明治から昭和にかけて、土蔵や石蔵、煉瓦造りと時代によってさまざまな建築様式の足袋蔵が建てられ、現在も70棟余りが残っています。

足袋蔵
足袋蔵
足袋産地の歴史と伝統を伝える足袋蔵を町づくりに生かそうと、2004年にNPOぎょうだ足袋蔵ネットワークが発足。蔵を店舗として再活用したり、蔵巡りイベントを企画したりする活動を展開してきました。更には、使われなくなった足袋工場を利用して「足袋とくらしの博物館」を開館。ここでは行田足袋の歴史を伝えるさまざまな資料や道具を見学出来る他、足袋職人による実演、オリジナル足袋づくりの体験会(予約制)も開かれます。

行田市は17年「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」として、文化庁の「日本遺産」認定を受けました。日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化や伝統を語るストーリーを認定するもので、創設から4年間で全国67件が認定されています。

足袋蔵が点在する中心街は、小説『のぼうの城』で知られる忍城の城下町だった場所です。行田は二つの河川に挟まれた扇状地で、かつては広大な湿地帯が広がっていました。

この沼地と点在する島を巧みに利用して居城を築いたのは、地元の豪族だった成田氏です。豊臣秀吉の小田原征伐の際、忍城攻めの総大将を務めた石田三成は、平坦な一帯を見渡せる丸墓山古墳に本陣を置いて水攻めを画策。28kmに及ぶ石田堤を築き、利根川の水を引き入れて水攻めを行いました。忍城はそれに耐え抜き、ついに陥落しなかったものの、小田原城の落城によって開城されました。

徳川家康の関東入部後は、家康の四男の松平忠吉が10万石で忍城に入りました。以後、徳川の譜代や親藩の大名が城主となり、城は整備・拡大されていきました。

忍城御三階櫓
再建された忍城御三階櫓

忍城は明治になって解体され、1988年に元禄期に築かれた忍城御三階櫓が再建されました。外堀跡を利用した水城公園に、「浮城」が築かれた沼地の痕跡が残っています。

2019年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)取材協力/きねや足袋(Tel.048-556-6361 http://kineyatabi.co.jp)

▼埼玉県行田市

埼玉県北部に位置し、利根川を境に群馬県と接しています。市の南側には荒川が流れ、二つの河川に挟まれた市域は平坦で起伏がほとんどありません。『万葉集』に登場する「佐吉多万の津」は現在の行田市埼玉周辺を指し、これが「さいたま」に転じて郡名、更には県名となりました。日本最大の円墳である丸墓山古墳など大型古墳9基が集まる埼玉古墳群があり、その一つ稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣」は国宝に指定されています。忍藩十万石の城下町で、江戸中期に製造が始まった足袋の一大産地として発展。中心部には最盛期をしのばせる足袋蔵が点在します。市内には忍城址や、市指定天然記念物の行田蓮(古代蓮)を始め42種類約12万株の花蓮を楽しめる古代蓮の里があります。
【交通アクセス】
市域内に高速道路はなく、市の南西部を国道17号、中央部を125号とそのバイパスが走ります。
市中心部に秩父鉄道秩父本線の行田市駅があり、市内沿線に武州荒木駅、東行田駅、持田駅があります。市域の外れをかすめるようにして走るJR高崎線には行田駅があります。

丸墓山古墳
丸墓山古墳

写真説明

●足袋の縫製:足袋のつま先部分は、専用のミシンを使って膨らみをつけながら縫い合わせます。きねや足袋では100年以上前に輸入されたこのドイツ製ミシンを始め、古い機械や道具を大切に手入れしながら使っています
●足袋の金型:純度の高い鉄製の金型は強い衝撃にもゆがむことがありません
●地下足袋で学校生活を送る行田市立東小学校の児童たち:東小学校の児童は、登校すると足袋に履き替え、校内では教室でも校庭でも足袋を履いて過ごします
●足袋蔵:大正5年に建てられた3階建ての足袋蔵は設計事務所、敷地内にある別の足袋蔵はパン屋、住居はカフェとして利用されています
●再建された忍城御三階櫓:忍城は関東七名城に数えられ、「浮城」「亀城」の別名を持っています。忍城址内には現在、郷土博物館が開設されています
●丸墓山古墳:三成が本陣を置いたとされる丸墓山古墳は、9基の大型古墳が残る埼玉古墳群の一つ


●パーツごとの金型を使って、重ねた布を裁断機で裁ちます


●こはぜを留める掛け糸を専用の機械を使って生地に通す「掛け通し」


●表地と裏地を合わせて足首からかかと部分を縫う「羽縫い」


●縫製が終わると木型を入れて、木槌などの道具でたたいたりして形を整え、ふっくらと仕上げます。この工程によって履き心地が格段に良くなります


●写真上:週2~3回、ランニング足袋を履いて12km走るという中澤社長
●写真下:ランニング足袋、きねや無敵(右)と進化版のToe-Bi(トゥービ)


●写真左:忍藩の家臣が創業した足袋商店、牧野本店の店蔵。隣接する工場が「足袋とくらしの博物館」(土・日のみ開館)
●写真右:大正初期建設の土蔵造りの足袋蔵


●水城公園には、釣り場として開放されているしのぶ池、ホテイアオイが咲き乱れるあおいの池があります



●足袋工場で働く女工のおやつとして広まり地元の味として定着したのが、お好み焼きに似た「フライ」と、おからにじゃがいもなどを加えて素揚げした「ゼリーフライ」(協力/駒形屋:Tel.048-554-2561)

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