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「香り文化」を花開かせた堺線香。立ちこめるは、自然と人智が生み出す芸術 - 堺

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国産線香発祥の地は、東洋一の貿易港 原材料が国内で手に入らないため、輸入に頼っていた線香が初めて国産化されたのは16世紀末。かつて東洋一の貿易都市と呼ばれた堺でのこと。 瀬戸内海と幾内を結ぶ商港として開かれたこの港町は、15世紀の終わり頃から、対明(中国)貿易や、ポルトガル、イスパニアとのいわゆる南蛮貿易の拠点として栄えた。外国との交易によって巨万の富を得た堺商人は、その財力で町の自治特権を領主に認めさせ、更に積極的な自由貿易を展開していった。日本からは硫黄、銅、刀剣、工芸品などが輸出され、明からは生糸、絹織物、陶磁器、南蛮からは鉄砲が輸入された。輸入品の中には、線香の原材料となる各種香木も含まれていた。 「インドの白檀やベトナムの沈香など香木の原産地は広く東南アジアなどの熱帯地方に分布しています。もともとその大半が漢方薬や香辛料であったので、明船、南蛮船でも最も重要な交易品として珍重されました」 と説明するのは、創業明暦3年(1657年)の老舗、梅栄堂の中田信浩社長だ。 香が日本にもたらされたのは古く、538年。仏教と共に百済から海を渡ってきた。四囲を浄めて壮厳な世界を醸し出すものとして、香は仏事からやがては神事、宮中儀式の場にも重用されるようになる。この頃は、葬式のお焼香のように香木の小片を焚いていて、まだ線香の形にはなっていない。香を棒状に練り固めた現在の線香の製法が明から伝わったのは、戦国時代になってからのこと。一説によると、豊臣秀吉の武将で堺商人の出の小西行長が、朝鮮出兵の折に線香の作り方を持ち帰ったとも言われている。 港から原材料が直接手に入ることに加え、町に寺院が多かったことも幸いした。人口一人当たりのお寺の数は、京都よりも堺の方が多い。使われるマーケットがあったことが、線香づくりの発展を支えた。 原材料はカレーと同じ 中田社長に工場を案内してもらったが、建物に足を踏み入れた瞬間、どこかで嗅いだことのある強い香りに包まれた。 そう、本格インドカレーのレストランと同じにおいがするのだ。 右上から、丁子、沈香、大茴香。右下から、貝甲、桂皮 「桂皮(シナモン)に丁子(クローブ)、大茴香(スターアニス)など、カレーに使う香辛料と多くの部分で共通しています」(中田社長) 白檀や沈香といった線香の原材料となる植物性天然香料は、東南アジアなどで採取されたものがシンガ

光を引き込み、風を通す空間を演出する日本建築の技 - 吹田・摂津

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商都大阪で華咲いた伝統工芸 通風と採光を良くすると共に、部屋の品格を保つため鴨居と天井の間に取り付けられる欄間。日本家屋に欄間が用いられるようになったのは、日本の建築様式が寝殿造から書院造へと移っていく安土桃山時代以降のことです。もともとは奈良時代の寺社建築に用いられた採光目的の簡素なものでしたが、後に木材が使われ、彫刻などの装飾が施されるようになりました。代表的なものが京都の西本願寺や二条城に見られる豪華で壮大な彫刻欄間。華美な欄間は権力者が権威を示すためによく使われましたが、当時欄間を使うことが出来たのはこのような特権階級の人々に限られていました。それゆえ寺社仏閣が集中する京都は、自然と欄間生産の中心地となっていきました。 一般庶民の茶の間や客間に欄間が登場するのは、江戸時代中期以降のことです。経済の中心が京都から大阪に移り、大阪商人が力をつけていくに従って、特権階級のものであった欄間が広く商家などに普及。それに伴い、中心産地も京都から大阪へと移っていきました。大阪は木材の集散地でしたし、堺を中心に豪商が多く、需要も高かったことが生産拠点が移った理由だと考えられています。大阪市内にある四天王寺の元三大師堂や和泉市の聖神社では、今も発祥の頃の大阪欄間の姿を見ることが出来ます。 その後、大阪市内を始め岸和田市や吹田市、貝塚市、摂津市といった大阪府下の都市に欄間生産の拠点は広がり、1975年には「大阪欄間」の名で、府内で初となる国の伝統的工芸品の指定を受けています。また、長年にわたって磨き蓄積されてきた高度な彫刻欄間の技術が評価され、85年には大阪府知事が指定する伝統工芸品「大阪欄間彫刻」にも認定されています。 多様なデザインが生まれた理由 吹田市にあった大阪欄間工芸協同組合が2012年3月に摂津市に移ったこともあって、現在、大阪欄間のメーンの生産地は摂津市になります。大阪平野の北部、淀川の豊かな自然に育まれ、大阪と京都を結ぶ水陸交通の要所として重要な役割を担ってきた町です。市内には、屋久杉やヒノキ、キリなど家屋の内装や家具などに使う高品質な建築材・銘木を扱う卸売問屋が集まる銘木団地という名の問屋街があります。すがすがしい木の香りが漂うその一画で、職人の手によって大阪欄間は製作されています。 透彫欄間 一口に大阪欄間と言っても、長い伝統に支えられたいろいろな技法があり

時代と共に変わりゆく街にひっそりと残る高野街道の面影 - 河内長野

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高野街道に酒蔵を構える西條合資会社 宿場の面影を今に残す町並み 大阪ミナミの繁華街・難波と、真言密教の聖地・高野山とを結ぶ南海電気鉄道高野線の河内長野駅前に、方錐型の碑が建っています。京都を起点に高野山を目指す東高野街道、大阪・平野を起点とする中高野街道、堺を起点とする西高野街道の合流点を示す碑です。 三つの道は一本の高野街道となって紀見峠を越え、高野山へと至ります。堺から高野山女人堂までの街道沿いには13基の里石道標が置かれ、その全てが今も残っています。河内長野市内にあるのは九里石と八里石です。 高野街道の面影をよく残しているのが、八里石のある三日市宿の町並みです。河内長野では昭和30年頃から宅地開発が進み、かつての町並みは次々に姿を消していきました。宿場のあった三日市町駅周辺も再開発で整備されましたが、駅から少し離れると、道の両側に格子が連なる古い町並みが姿を現します。 街道はこの三日市を過ぎると険しい紀見峠へと向かいます。そのため、庶民の参詣者が増えた江戸時代に宿場が開かれて大いににぎわいました。1760(宝暦10)年の記録によれば、三日市宿には215軒の家々があり、その多くが旅籠や旅人相手の商家で占められていました。そのにぎわいも、1898(明治31)年に南海鉄道高野線の前身である高野登山鉄道が開通すると衰え、宿場町としての役割を終えました。 その町並みの中程に、木綿問屋を経て酒造業を営んだ八木家の建物があります。18世紀後半に建築された平屋建てで、伝統的な町屋の外観をよくとどめています。三日市宿は江戸時代に四度の大火に見舞われましたが、火災を免れた八木家の母屋と土蔵は国の登録有形文化財となっています。その他にも幕末から明治にかけて建築された旅籠や町屋の建物が軒を並べており、今も現役の住宅として使われています。 かつての旅籠や商家の建物が残る三日市宿の町並み 古い町並みは河内長野駅の近くに酒蔵を構える西條合資会社の周辺にも見られます。1718(享保3)年の創業で、入母屋造に虫籠窓が開かれた旧店舗主屋がその歴史を感じさせます。代表銘柄は天野酒。聖武天皇の勅命で開かれたという天野山金剛寺で造られていた天野酒を、50年ほど前に復活させました。 平安時代以降、大和や河内など各地の大寺院で醸造