雪国に息づく伝統の技術は、創造意欲と先見性のたまもの - 十日町

豪雪地帯の農閑期が生んだ芸術品

模様がカスレて見えるから「絣(かすり)」と呼ぶのだといいます。あらかじめ模様を染め込んだ絹糸を織機で交差させると出来る絣模様は、確かに交差の微細なズレによってカスレているように見えます。

「絹糸に糸をくくり付けておいて、これを染料につけると、くくった部分だけが白く残る。この白い部分が織り上げた時に模様となります」と話すのは、「十日町絣」を織り続ける伝統工芸士の渡邉孝一さん。ご両親も伝統工芸士として一つ屋根の下で絣織りに明け暮れます。

十日町絣は、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の両方を染め分けて、織機の上で模様を再現します。基本の絵柄は20種類程度。模様のパターンは方眼紙を使って考案されます。絣模様の大小や組み合わせ、色などを変えて、バリエーションを増やしています。

「伝統的な模様とはいえ、少なからず流行はありますよ。今ならこんな感じ」と出してくれた反物が前ページの3点。1反が13m。反物をここまで織り上げて1着の着物を作るには、最低でも3カ月はかかります。冬のほとんどが雪のため外から閉ざされてしまうこの地域では、その昔、機織りは長い農閑期の生業でした。そこらじゅうの農家から織機の音が響いていました。現在、十日町絣を織っているのは、渡邉さん一家を含めわずか5、6軒だけとなりました。

麻から絹への大転換

十日町の織物史をひも解いてみると、他の地域にはない変遷をたどっています。

十日町で絣織りなどの絹織物の生産が始まったのは、今から200年前の江戸時代後期から。一帯はもともと麻織物を作る技術も盛んで、その集大成とも言われる高級夏織物の「越後縮」を産出しています。越後縮は幕府の御用縮にも指定されており、江戸末期まで武士や上流階級を中心に幅広く供給されました。ところが明治になると木綿や絹織物が普及し、麻織物は衰退。この機に十日町は、いち早く絹織物の産地へと転換を遂げます。こうして麻織物の技術と伝統を生かした「十日町絣」が誕生しました。

やがて、絹織物の産地として歩み出した十日町に最初の大ヒット作「明石ちぢみ」が登場します。播州明石で生まれて京都西陣を経て、明治20年頃に十日町で完成を見た明石ちぢみは、シャリッとした清涼感のある夏の着物です。1929(昭和4)年には「越後名物かずかずあれど、明石ちぢみに雪の肌……」と唄われるほどの人気を博しました。32(昭和7)年には年産27万反を記録するなど絹織物産地十日町の基礎を確立した看板商品となりました。

59(昭和34)年には、織りと染めの画期的な融合を実現した「マジョリカお召し」を生み出します。これまでの織物にはなかった明るい色調のお召しは、戦後の復興が軌道に乗り、明るさを取り戻しつつあった世相にも合致し爆発的な人気を呼びました。続いて開発されたのが「黒絵羽織」。無地染めの黒羽織の丈を短くし、刺繍などの加工を施した新しい略礼装は、入園・入学、卒業式の母親の定番衣装となり、昭和40年代に「PTAルック」として空前のブームを巻き起こします。十日町の織物史に詳しい新潟県民藝協会の佐野良吉会長の話によると「黒の羽織は、下に着ている着物の色柄を選ばずに合わせることが出来る。その上、高価で入手しにくい帯を隠せるから帯なしでも着られるということでコストパフォーマンスの面でも優れていた」。この点が消費者のハートをとらえたのだとそうです。そして64(昭和39)年、十日町は産地としての一大転換期を迎えます。それまで生産の主流であった絣などの先染め製品から後染め製品へ、主に友禅染めへの進出を果たしました。

イノベーションから生まれた全国無二の織物産地

糸を染めて柄を織り出す先染めとは違い、後染めは白生地に手描きや型染めなどの技法で柄を染め上げていきます。職人も技術も設備もない中での友禅への挑戦は、まさにゼロからのスタートでした。


「後発産地である十日町が他の産地と差別化を図っていくには、単なるまねではダメ。そこで十日町は、他では例のない友禅染めの工場一貫生産を実現したんです」と話すのは、寛永年間創業の老舗・桐屋「翠山工房」の田村憲一社長。つまり、京都を始めとする他の産地では、地色の染め、蒸し、手差しなどの各パートを分業で行うのが当たり前でしたが、十日町は工場一貫生産による生産体制を構築。生産の合理化を徹底し、コストの引き下げによってそれまで高級品であった中振袖の大衆化に成功しました。

「今でこそ生産の割合は、伝統的工芸品に指定されている明石ちぢみや十日町絣などの先染め商品が3割、友禅が7割となっていますが、商品が売れるようになるまでに15年は掛かっています」と田村社長。十日町の友禅の歴史はわずか40年。しかし、現在では京友禅、加賀友禅と並び称されるほど全国で高い評価を受けています。田村社長の工房で作られる「辻が花染め」は評価を受ける十日町発の友禅の一つです。多彩なボカシ染めに、手描き友禅・手絞りを駆使した工房オリジナルです。

麻織物から絹織物へ、先染めから後染めへと大きな転換を経て、他の産地では例を見ない織りと染めの両方の技術を持つ「総合織物産地」へと変貌を遂げた十日町。毎年5月3日には「きもの祭り」が開催され、全国から集った着物ファンでにぎわいます。

2006年取材(写真/田中勝明取材/砂山幹博)


●後方左から十日町の名を全国に知らしめた「明石ちぢみ」、先染めと後染めの技術を融合した「マジョリカお召し」。前方はPTAルックとして一世を風靡した「黒絵羽織」


●へぎそば:こちらの人に言わせると、日本を代表するそばの産地・信州戸隠の「十割そば」は、ボソボソしていてそばではないそうです。そばといえば「へぎそば」に決まりなのです。そば粉8に対し、小麦粉2の割合で混ぜ合わせる「二八そば」のように、そばにはよくつなぎが使用されます。小麦粉が一般的ですが、十日町を中心とした魚沼地方では、つなぎに布海苔(ふのり)という海藻を使います。つるつるとした喉越しと独特の歯ごたえで、小麦粉つなぎのそばとは違った味わいが楽しめます。なんでも「明石ちぢみ」のヨリを固定するために使われていた布海苔を誤ってそば粉に落としてしまったという偶然が、このそばを生んだと言われますが、実のところ定かではありません。「へぎ」とは、剥ぎ板で作った四角い器のことです。「剥ぐ」が訛って「へぐ」→「へぎ」になったと言われます。このへぎと呼ばれる器に、一口程度に手繰りで丸めて盛りつけると「へぎそば」の完成です。盛りつけの美しさにも定評がありますが、やはり古くから織物の街として知られるだけあって、そばにも美的感覚が取り入れられているのでしょうか。

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