瀬戸内から世界へ羽ばたくメード・イン・ジャパン - 倉敷

瀬戸大橋たもと、ジーンズの街・児島

瀬戸大橋の本州側起点となる倉敷市児島は、国産ジーンズ発祥の地です。有名な国産メーカーが軒を連ねるだけではなく、ここで作られるジーンズは世界の一流ブランドから指名で注文が入るほど、注目を集めています。世界に誇るメード・イン・コジマの真相を探るため、児島のジーンズ・メーカーを訪れました。

レディースジーンズの草分けブランド「ベティスミス」の本社工場は、染色工場が集まる地区の一角にありました。

「ここでは主に、徳島県や中国にある工場で量産ラインに乗せる際、見本となる商品サンプルを作っています」

と話すのは同社の会長・大島邦雄さん。

大島さんは何を隠そう、レディース用のジーンズを世界で初めてこの世に送り出した人物です。当時、アメリカで履かれていたジーンズは男女兼用。体格の良いアメリカ人はそれでも良かったのかもしれませんが、日本の女性にはどうしても兼用ジーンズは似合わなかった、と大島さんは話します。

「男性がジーンズに求めるものは機能性が8割で、ファッション性は2割程度。でも、女性はその割合が逆だということに気付いたのです」


かくしてレディースジーンズは、児島で産声を上げました。大島さんは2007年、その功績によって岡山県から産業功労者技術賞を受けています。

ジーンズ作りは、おおよそ次のような手順で進められます。


最初はデザイン起こし。デザインが決まると、パターン(展開図)に落とし込まれます。パターンから型紙が起こされ、それに沿って生地が裁断されます。こちらの工場では、パターンのデジタルデータからそのまま型抜きする機械が導入されていました。この作業によってさまざまなパーツが出来るので、今度はこれらをミシンで縫製。補強のためのリベットやボタンを付け、ブランドタグなど細部の装飾・加工を施します。最後の仕上げは「洗濯」です。糊が利いているため硬くて履きにくいジーンズには、他の繊維製品にはないこの工程が加わります。


国産ジーンズが市場に出始めた70年代初め頃の話ですが、あるメーカーの営業が百貨店に児島のジーンズを売り込んだ際、ひどく叱られたといいます。

「何を考えているんだ君は。家で洗濯したものを売りに来るなんて」

百貨店に持ち込んだ商品は、洗濯機で何時間も洗って生地を柔らかく仕上げた自慢の品でした。今では笑い話ですが、こうした「洗い」の工程は、後に児島の名を世界へと轟かせた最終加工技術として発展していきます。

児島を巡る木綿産業興隆記

ジーンズで知られるようになる以前から、児島は繊維の町でした。町の歴史を簡単に振り返ってみましょう。


児島というだけあって、かつては瀬戸内に浮かぶ島でした。宮崎から奈良を目指した神武天皇が、今では陸続きとなっている児島の海路を通ったという言い伝えが残っている他、800年前の源平合戦で、頼朝麾下の佐々木三郎盛綱が、浅瀬を渡って平家を討った時も児島はまだ島でした。そのため土壌には塩分が含まれており、どんな作物も育ちません。しかし、ただ一つ綿花だけは例外でした。


綿花のおかげで児島に木綿産業が発展。江戸時代には、強くて丈夫な真田紐や足袋などが生産されました。この頃、児島にある由加山は四国の金比羅山と並ぶ信仰のメッカで、両方を参る「両参り」が流行しました。当時、由加山をお参りした人には真田紐がお土産として配られたといいます。宣伝効果の程は分かりませんが、児島=繊維の町というイメージは、江戸期に形成されたと考えられます。

明治に入ると、政府から紡績機械の払い下げを受けたある企業が、綿糸の生産を開始。大正時代には国内最大級の規模を誇る足袋の生産地となりました。更に昭和の中頃には学生服の産地として一世を風靡、一時は全国の9割が児島産でした。その頃の学生服は綿で作られていました。ところが、昭和20年代の末頃から日本に入ってきた合成繊維が繊維業界を席巻。木綿業者に大打撃を与えました。学生服の需要が伸び悩んでいたこともあり、児島の木綿業者の多くは経営不振に喘ぎました。

「何か他に作るものはないか」。そんな危機感の中で、それまで中古で入手する以外なかったジーンズを国内で作ろうと言い出した人が現れます。ビッグジョンの創業者、尾崎小太郎です。

「幸運にも児島には、厚くて頑丈な真田紐や足袋を縫うミシンがありました。幾多の困難がありましたが、1965年に国産ジーンズ第1号が児島で誕生したのです」
とは、岡山県アパレル工業組合、及び日本ジーンズ協議会の専務理事を務める本山俊明さん。

不毛の地から綿を紡ぎ出し、真田紐や足袋から学生服、ジーンズへと、作るものを時代のニーズに合わせて変化させてきたことで今の児島があります。そして今まさに、児島が世界中から脚光を浴びているのは、変化に対応しながらも地場産業を支えてきた確かな技術力に他なりません。

生地の表面に独特の擦れ感、剥げ感を出す軽石と、生地を柔らかくするゴムのボール

最終工程の「洗い」の技術は、ユーズドやダメージといった風合い豊かな表現を生み出し、藍染めの技を駆使してジーンズを作る者も出てきました。そして、こうした妥協のないものづくりに触発されて、次代を担う若いクリエーターたちが児島に集まって来るようになりました。彼らの情熱が、産業を、そして街を活気づけています。

2008年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)


●ジーンズの生地を織る糸を藍で染めるメーカーもあります。藍で染めると、洗えば洗うほど、発色が鮮やかになっていくといいます(撮影協力:藍布屋)

●瀬戸内のタコを使ったタコ料理。児島半島の最南端にある下津井の沖合は、潮の流れが速い県内有数の好漁場。タイやアナゴ、サワラにフグなど、1年を通じて魚種が豊富ですが、特においしいのがタコ。江戸初期の『諸国名物』の中にも「下津井蛸」の名があるように、古くからその味の良さは全国区でした。児島周辺のタコは、潮の流れの速い岩場にがっしりとしがみついているため、足が太く身の締まりが良いと言われます。取れたての身は柔らかく、噛むほどに甘みが感じられます。料理法も刺身に酢の物、唐揚げやタコ飯とさまざま。産卵期の春から初夏にかけてが旬です

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