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9月, 2020の投稿を表示しています

金沢の食文化を支える個性豊かな加賀野菜 - 金沢

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消滅の危機から誕生した加賀野菜 かつては全国至る所に、地域の食文化や気候風土に根ざし、古くから親しまれてきた個性的な野菜がありました。しかし、日本経済が高度経済成長の波に乗り出すと、人口が都市部に集中。その需要を満たすために大量生産向きの野菜が作られるようになりました。品種改良の技術が進んだこともあり、こうした野菜の多くは病気に強く栽培しやすい、形が均一で運搬に適した交配種が主流となりました。不ぞろいであることが多く、病気にも弱かった在来野菜は次第に、品種改良種に取って代わられました。 城下町金沢にも、藩政時代から受け継がれる伝統野菜がありましたが、絶滅の危機に瀕していました。金沢で150年続く種苗店の5代目当主である松下良さんはある時、馴染みの料理店でも地元の野菜が使われていないことに気付きました。 「地元の野菜は先人が残してくれた文化遺産。このままでは金沢独自の文化が消滅してしまう」 危機感を募らせた松下さんは1989年、店で大切に保管していた約30種の伝統野菜の種を持ち出し、周囲の生産者らに栽培してもらおうと協力を求めました。こうして91年に加賀野菜保存懇話会が立ち上がり、松下さんが会長を務めることになりました。97年には行政が加わって金沢市農産物ブランド協会を設置。昭和20年以前から栽培され、現在も主として金沢で栽培されている15品目(さつまいも、加賀れんこん、たけのこ、加賀太きゅうり、金時草、加賀つるまめ、ヘタ紫なす、源助だいこん、せり、打木赤皮甘栗かぼちゃ、金沢一本太ねぎ、二塚からしな、赤ずいき、くわい、金沢春菊)が伝統ブランド野菜「加賀野菜」に認定されました。同協会が中心となって生産振興や消費拡大に努めた結果、全ての品目で著しい増加があったわけではありませんが、生産量は微増もしくは横ばいで維持されています。もし「加賀野菜」ブランドに認定されていなければ、消えていた野菜は間違いなくあっただろうというのが同協会の見解です。 金沢は地産地消の先進都市 加賀太きゅうり 近年、先駆けである京野菜や加賀野菜に倣って、伝統ブランド野菜が各地で誕生しています。ところが多くの場合は、既にその土地でその野菜を食べる文化は消えかかっており、食べ方もほとんど知られていません。しかも高価であるため一部料理店が仕入れる以外、一般の人は見向きもしないという声を耳にします。加賀野菜も

心穏やかな時間を過ごす宿坊体験と身延参り - 身延

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宿坊は旅館と何が違うのか 江戸時代、庶民の間で善光寺参りや大山参りといった寺社参詣が大流行しました。稲の刈り取りも終わった農閑期、大切に積み立ててきたお金を手にしてお参りに出かけた人々の多くは、ひと月もふた月も旅先に滞在しました。そんな彼らが宿として利用したのが宿坊です。 「旅の目的地であった寺院には通常、幾つもの末寺が存在します。身延山にも多い時で百近くの末寺があり、本寺である久遠寺を支えていました。こうした末寺が、遠くから来た信者の宿代わりに使われたことから宿坊の歴史は始まります。身延にも宿坊を足掛かりに、何日にもわたって久遠寺をお参りする方が今も大勢いらっしゃいます」 日蓮宗の総本山、身延山久遠寺の末寺の一つである行学院覚林房の樋口是亮住職は、宿坊の成り立ちについてこのように説明します。本来は修行中の僧侶が宿泊する施設でしたが、時代が下るにつれ一般の参詣者や観光客も利用出来るようになりました。現在、身延には32軒の宿坊があり、そのうちの16軒が参拝客や観光客を受け入れています。最近では部屋やトイレ、空調などが快適に整備され、サービス内容が旅館然としている宿坊が多く、反対にゆば料理や精進料理が自慢の町の旅館もあるなど、宿坊と旅館の違いはほとんど見当たりません。 しかし、昭和の初め頃までの身延はお寺自体がご飯を食べられるか食べられないかという貧しい懐事情でした。だから泊まる方も2合の米を奉納して泊めてもらっていました。 「ここ10年で身延の宿坊はゆばを使った料理を打ち出していますが、以前はどこの宿坊の料理も一汁一菜に近いものでした。町の旅館はこれにせいぜいお刺身が一品加わる程度の質素なものだったと聞いています」(樋口住職) 今は快適なこともあって物見遊山でやって来る人がほとんどで、昔のようにストイックに信仰心から訪れる人はごくわずかです。ただ、瞑想や写経に興味を持つ外国人の来訪は増えており、ホームページに英語版を用意している宿坊もあります。また宗派もこだわりなく、観光で訪れて、住職との何気ない会話をきっかけに悩み事を打ち明け始める宿泊者もいます。本人は幸せそうに見えてもお子さんが引きこもりやいじめで困っているなど、人は何かしら悩みを抱えているもの。宿泊先で自然に悩みを打ち明けられるのも、宿坊ならではの体験と言えるかもしれません。 ロープウェーから望む身延の門前町

水に恵まれ、金銀糸で華やぐ五里五里の里 - 城陽

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地下水と西陣の恩恵で発展した地場産業 京都を代表する伝統工芸の一つ西陣織や、京都祇園祭の山鉾を飾る緞帳がキラキラと輝いているのは、ラメ糸とも呼ばれる金銀糸が使われているためです。この金銀糸の製造で、国内生産量の約8割を占めるのが城陽市を中心とする南山城地域です。 もともとは職人の手で和紙に金箔や銀箔を張り、細長く切ったものを綿や絹の芯糸に巻き付けて作るものでしたが、1960年頃から化学繊維による機械化生産が主流になりました。現在作られているのは、ポリエステルフィルムに銀、もしくはアルミニウムを特殊な技術で付着させ、色彩豊かに着色したものです。機械化で大量生産が可能になったことで、和洋を問わず衣料や装身具、インテリアや生活雑貨の素材などとしてさまざまな分野、用途で金銀糸が使われるようになりました。面白い所では自動車のシートや、商品券等のホログラムの素材として利用されています。 一方で、高級品には現在も和紙に金箔を押して作る伝統的な本金糸がしばしば使われます。本金糸の製作現場を見せてもらうと、和紙に漆を染み込ませ、完全に乾く前に丁寧に拭き取る作業が行われていました。和紙に箔押しする際、漆は接着剤の役割を果たします。漆の乾燥には適度な湿度が必要なのですが、城陽は宇治川と木津川の合流地点で水が豊富であるため、生産に適しています。また、市域の地下には琵琶湖の水量に匹敵するほどの地下水が溜め込まれていると言われ、昔から飲み水以外にもさまざまな用途に活用されてきました。 話は少しそれますが、市内の城陽酒造では1895年創業以来、この地下水を汲み上げて酒造りをしています。南東の青谷エリアは砂利質で、雨が地面に染み込む際に、この砂利が天然のろ過器となって良い軟水を作るのだといいます。また、青谷には20haの梅林が広がり、2~3月にかけ約1万本の白梅が咲き誇り、辺り一面、大きな白布を広げたように白一色となります。 ともあれ、掘ればすぐに水が出るため、箔押しにはうってつけの場所でした。明治の終わりから大正時代にかけて、箔押しや糸撚りの職人らがこの地に集ったことで、地域で一貫して金銀糸を生産出来るようになり城陽は金銀糸の町になりました。また、城陽は京都から五里(約20km)、奈良からも五里の距離だったことから「五里五里の里」と呼ばれます。金銀糸の大消費地である京都の西陣にも比較的近かったた

秀峰開聞岳に抱かれた湯煙たなびく薩摩の湯都 - 指宿

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  海・山・湯に恵まれた薩摩半島最南端の町 地名の由来は、湯の豊かな宿を意味する「湯豊宿(ゆほすき)」。その名の通り、今でも地面を少し掘れば、たちまち湧き出すほど湯の豊富な町です。1日約12万トン湧き出るという豊富な湯量の恩恵で、町には公衆浴場が点在し、一般家庭の約7割に直接温泉が配湯されます。何ともうらやましい限りです。 地熱の影響、薩摩半島の最南端という地理的な要因、そして沖を通る暖流のおかげで一年を通して気候は温暖です。太古の頃から住み良い場所であったようで、市内全域に縄文・弥生時代の遺跡が見つかっています。そのうちの一つ指宿橋牟礼川は、日本史の常識を決定付けたことでも知られます。火山灰層を間に挟んで下層から縄文土器が、上層から弥生土器が出土したことで、縄文時代が弥生時代より古いことがこの発見によって初めて証明されたのです。火山灰層は開聞岳の噴火によるもの。標高922mの美しい円錐形をした開聞岳は、その姿から地元で薩摩富士として親しまれている秀峰です。 昭和30年代、温暖な気候と温泉に恵まれた指宿は、西日本を代表する新婚旅行のメッカでした。その新婚さんたちが目指す先は決まって開聞岳。ふもとの公園で新婚旅行記念に植樹するというのが当時大流行しました。そんな幸せいっぱいの新婚さんを開聞岳と共に写真に収めてきたのが、父の代から写真館を営んできた馬渡成貴さん、御年88歳。 「新婚の時に植樹に訪れたという老夫婦がたまに何組か指宿にやって来るんですよ。ひょっとすると当時私が記念写真を撮った方たちかもしれないと思うと感慨深いですね」 温浴効果は抜群の天然砂蒸し温泉 指宿を有名にしている観光資源の筆頭はやはり砂蒸し温泉でしょう。海岸に湧出する高温の自然温泉を利用したいわば砂のサウナで、天然の状態で入ることが出来るのは世界でもここ指宿だけです。入浴法は至ってシンプル。砂の上に仰向けになり、頭以外はシャベルを持った砂掛けさんに砂で埋めてもらい、10~15分その状態を維持するというもの。ものの5分で額に汗が吹き出し、ジワジワと体全体が温まってきます。長く入り過ぎると、低温やけどをするので入浴時間は長くても15分程度。温浴効果は抜群で、砂圧で血液の循環が促進され、高温による血管拡張で心機能が高まるため、しばらく身体がポカポカした状態が続きます。また、ナトリウム塩化物を含む温泉水には、

冬の男鹿を熱くする神の使いと神の魚 - 男鹿

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  それは山からやって来る 12月31日。その年を締めくくる最後のこの日は、男鹿っ子にとって最も訪れてほしくない日でしょう。昨年も、その前の年にもさんざん泣かされた、あの恐ろしいなまはげがこの日、また家にやって来るのです。 毎年大晦日の晩に男鹿半島のほぼ全域で行われる奇習なまはげといえば、イコール秋田県というイメージが根強いですが、実は「男鹿のなまはげ」として商標登録もされている男鹿独自の重要無形民俗文化財です。大きな音で戸を開け、大声で叫びながら家に上がって­は「怠け者はいねが~。泣ぐ子はいねが~」とターゲットである子どもや嫁を探しまわります。頭に角、手には包丁という出で立ちからよく鬼と間違われますが、その正体は悪霊を追い払い、新しい神様を家の中へ迎え入れに山から降りてくる神の使いです。恐ろしいうなり声にしても、子どもたちの健やかな成長を願う気持ちが込められているといいますが、とてもそうは思えないと男鹿では誰もが口をそろえます。 「なまはげの空気感というのがあって、その日の晩になるとザワザワとずっと先の方からなまはげがこちらに近付いて来る気配がするんです。それが、いくつになっても恐ろしくてね」 と地元の人が教えてくれました。 男鹿の子どもは悪いことをすると「なまはげが来るぞ」と親や近所の大人に脅されて育ってきました。だから大人になってもその時の記憶が蘇るのか、なまはげに対し緊張感にも似た複雑な気持ちを持っているのだといいます。 恐怖、なまはげ体験 男鹿半島の突端、真山のふもとで常時なまはげ行事を再現しているというので立ち寄りました。この地方の典型的な曲家をそのまま活用した男鹿真山伝承館の玄関をくぐると、囲炉裏がある大部屋に通されました。しばらくすると家の奥から主人役が登場し、なまはげの語源について説明してくれました。勉強や仕事もしないで囲炉裏にばかりあたっているとヒザに「なもみ」と呼ばれる赤い火あざが出来ます。怠慢を戒めにこのなもみをはぎ取りに来る「なもみはぎ」が訛って「なまはげ」になったのだといいます。 なまはげ行事の再現シーン 主人役が定位置に着くと、いよいよ再現劇の始まり。まず、案内人役の先立が訪ねて来て、主人になまはげを家に入れても良いか確認します。その年に不幸があった家、赤ちゃんが生まれた家の訪問は避ける決まりになっているのです。先立の合図を確認すると、

安芸の国、酒と歴史に醸されたまち - 東広島

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  米蒸す香りに包まれて 広島県のほぼ中央、東広島市の西条は灘(兵庫県)、伏見(京都府)と並ぶ三大銘醸地の一つとして知られます。9銘柄ある西条酒のうち八つの醸造所が、JR西条駅周辺の酒蔵地区に集まっています。蔵元の銘を背負い、高さを競うようにいくつも突き出ている赤レンガの煙突は酒蔵地区のシンボル。今も現役で使われているものは1本だけになってしまいましたが、煙突の下にはそれぞれ赤い石州瓦の大屋根を頂いた豪壮な蔵が構えられ、仕込みの時期ともなると、仕込み蔵から酒米を蒸す甘い香りが放たれます。 近代化のあおりを受け、日本各地で伝統的な酒蔵が姿を消していく中、白壁になまこ壁の大きな酒蔵が、旧山陽道を挟んで軒を寄せ合い建ち並ぶ町並みは文化遺産としても貴重な風景で、「酒都」西条の魅力にもなっています。 気温、水、米、そして技 酒造りで大切なのは気温、水、米、そして技術。ここ西条には美酒を育むために必要な全ての条件がそろっています。海抜200mの賀茂台地は、周囲を山々に囲まれた高原の盆地です。広島県は瀬戸内海の影響を受ける温暖な気候という印象がありましたが、内陸の西条は昔から雪が多い場所。東北の仙台とよく似た気候だといいます。酒を仕込む冬の平均気温は4~5度。極端に寒すぎず、しかも昼夜の気温差が大きく酒造りには最適の気候です。 町の背後にそびえる龍王山に降った雨は地下の砂礫層をくぐって伏流水となって湧き出ます。西条の地下水は「水の郷百選」にも選ばれる質の良さで、「爽やかで甘い」と感じる中硬水。酒蔵地区のほとんどの酒蔵では水汲み場が開放されており、持参の容器に名水を汲み入れる町の人たちの姿をよく見かけます。有機物が少なくカルシウムやマグネシウムの含有が低いこの中硬水が出るのは、蔵が密集する酒蔵地区だけ。不思議なことに、少し離れた場所では酒造りには不向きな鉄分を含む水が出ます。西条駅の北側には今も天平年間創建の安芸国分寺が堂を構えますが、古代山陽道は酒蔵地区のある駅の南側ではなく、安芸国分寺のある北側を通っていました。後に南側に井戸が出来ると町の中心地も南に移り、それに伴い山陽道も移動。ある限られた範囲にだけ酒造りに適した水が出ることが分かり、そこに酒蔵が密集しました。現在の西条の町並みは「水」の存在を抜きに語ることは出来ません。 JR西条駅周辺 江戸時代には西条四日市として、四のつ

世界を席巻した日本磁器のふるさと - 有田

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  日本の磁器発祥の地 JR佐世保線の有田駅~上有田駅間の狭い谷間の川沿いには約4kmにわたって旧市街地が帯状に伸びています。窯元であることを示すレンガ造りの煙突が所々に突き出す景色を目にすると、ここが日本有数の焼き物の里だと実感します。白しっくいの町家としゃれた洋風建築が混在する、かつての中心地は内山と呼ばれ、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。普段はゆっくりとした時間が流れる静かな目抜き通りも、ゴールデンウィーク中に開催される有田陶器市の間だけはあふれんばかりに焼き物が並び、それを求めて全国から訪れる観光客でにぎわいます。人口2万1500人の小さな町が、期間中には延べ100万人に膨れ上がるというから、そのにぎわいや推して知るべし、です。 有田で焼かれているのは主に磁器。陶石(または磁石)と呼ばれる石を砕いて粘土にし、高温で焼き上げたものです。白く、硬く、そして艶やかなこの焼き物は中国で生まれ、その技術が朝鮮半島を経て日本に伝わりました。日本と磁器の接点は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の時代にさかのぼります。秀吉の急死で、朝鮮半島に渡っていた諸大名はそれぞれの国へ引き上げましたが、この時、佐賀鍋島藩は道案内役だった朝鮮人陶工の李参平を連れ帰っています。李参平は現在の多久市に窯を開き作陶に精を出しますが、どうしても思うような焼き物が焼けません。原料は土しかなく、朝鮮で使っていた時のような陶石が手に入らなかったのです。陶石を求めて領内を回った参平は、1616年に現在の有田町に入り、ついに良質の陶石を発見しました。この場所こそが、日本の磁器発祥の地にして、その後の有田の磁器産業を支えることとなる泉山陶石場です。一つの山だった所を約400年間、採掘し続けた結果、荒々しい岩肌に囲まれた東西450m、南北250mにも及ぶ広大な空間が生まれました。山がそっくり磁器に変わってしまったのです。 明治以降は歩留まりの良い天草陶石(熊本)が主流となったため、今では泉山での採掘はほとんど行われていませんが、地下には十分なほどの陶石が埋蔵されているといいます。いずれ天草陶石が枯渇しても、この泉山の陶石を生かせるように、現在、資源の活用が再び検討され­­­ています。 泉山陶石場 伊万里焼として海外へ 有田焼発祥の地を訪れた後は、県立九州陶磁文化館で有田焼について体系的に