江戸の繁栄と舟運によって育まれたしょうゆの町 - 野田

御用蔵
御用蔵の仕込室

江戸の食文化が生んだ濃口しょうゆ

江戸初期、しょうゆや酒などの生活物資は文化の中心を担っていた上方ものが上等とされ、「下り物」と呼ばれて廻船によって江戸へ運ばれていました。江戸が大消費地となり、独自の文化が花開くのと共に、関東のしょうゆ産地として発展したのが、千葉県の銚子と野田です。

野田での本格的なしょうゆ造りは銚子からやや遅れて始まります。1661年に梨兵左衛門家が醸造を開始。1766年には味噌醸造を行っていた茂木七左衞門家がしょうゆに転じ、両家一族を中心にしょうゆ醸造が盛んになっていきました。1824年には野田のしょうゆ醸造家は19軒を数えました。

その発展に大きく寄与したのが、江戸初期に行われた利根川東遷事業です。利根川の水を流して出来た江戸川は、東北や北関東の物資を江戸へ運ぶ大動脈となります。これにより、大量のしょうゆをその日のうちに江戸へ運ぶことが可能になり、また大豆や小麦など原料の調達も容易になりました。更に江戸中期以降になると、そばや寿司、天ぷら、うなぎの蒲焼きといった江戸特有の食文化が発達し、しょうゆは江戸庶民の調味料として定着。それまで造られていた溜まり醤油から上方では淡口しょうゆが生み出されたのに対して、関東では江戸の人々の好みに合わせて濃口しょうゆが造られるようになります。

明治に入ると、野田のしょうゆ醸造家たちは野田醤油醸造組合を結成。そして1917(大正6)年には、野田・流山の八家が合同で野田醤油株式会社を設立しました。この時に造られていたしょうゆの商標の数は200にも上っていたといいます。会社設立後、その中でも人気が高く、最上級のブランドとして江戸幕府に献上されていた「亀甲萬」に商標を統一。後にそれが社名に冠され、現在のキッコーマン株式会社となります。

御用蔵
御用蔵
現在、東武野田線野田市駅の目の前にキッコーマン食品野田工場があります。もともと東武野田線はしょうゆやその原料の輸送を目的に敷設された鉄道で、かつては工場内に出荷用の駅がありました。

巨大なサイロや近代的な設備が建ち並ぶ工場内の一角で、朱塗りの橋と城郭のような建物が異彩を放っています。「御用醤油醸造所(御用蔵)」は、宮内庁へ献上するしょうゆを造る専用の醸造所として1939(昭和14)年に江戸川沿いに建てられたもので、老朽化が進んだため2011(平成23)年に現在の場所に移築されました。御用蔵の仕込室では今も宮内庁に納めるしょうゆを醸造しています。

内部は全面鮮やかな朱塗りで、床には杉の木桶が据えられています。厳選した国産原料を用い、1年掛けてじっくり熟成させたしょうゆは、「亀甲萬 御用蔵醤油」として工場売店や通販などで販売もされます。御用蔵の隣にある「キッコーマン もの知りしょうゆ館」は見学が可能で、家族連れや団体の他、野田市に限らず近隣にある小学校から児童が社会科見学に訪れます。

野田市内には他にも、江戸時代から180年以上にわたってしょうゆ醸造を続けるキノエネ醤油があります。本社社屋は1897(明治30)年に建設された木造建築で、趣あるたたずまいを見せます。大正から昭和初期に建てられた建物が現役で使われ、貴重な産業遺産として調査が進められています。

キノエネ醤油から歩いてすぐの平井煎餅店では、しょうゆの香り漂う店先で名物「おにやき」を焼いていました。鬼瓦のような風格があると、この名前が付いたとのこと。しょうゆを薄く塗った生地を網に乗せると、表面がぷくぷくと膨らんできて、それを箸で何度も返しながら焼き上げます。押さえつけながら平らに焼く堅焼きと違い、ごつごつとした大小の気泡があることで軽やかな歯ごたえと、しょうゆそのものの香ばしさが楽しめます。

江戸の町を守る要の地・関宿

野田市最北端、利根川と江戸川の分流点に位置する関宿は古くから交通の要であり、軍事的な要衝でもありました。戦国時代にはここを本拠地とする梁田氏と、北関東への勢力拡大を狙う北条氏による争奪戦が繰り広げられました。北条氏康は関宿城を「一国にも等しい」と評していることから、ここがいかに重要な戦略拠点だったかがうかがえます。

関宿城趾
関宿城趾の碑

江戸幕府が開かれると、徳川家康は関宿を江戸防衛と水運の要と位置づけ、有力な譜代大名に統治させました。そして江戸の町を水害から守り、水上交通網を確立させるため、東京湾に流れ込んでいた利根川の流路を変えて太平洋に注がせる利根川東遷の大工事に着手。これにより銚子から関宿を通って江戸川を下り、江戸に物資を運び入れるルートが完成しました。

木桶工房
小峯風呂製作所の小峯さん
関宿には船の関所が設けられ、「入鉄砲に出女」と言われるように、武器の持ち込みや、江戸に住む大名の妻女が国元へ帰ることを厳しく監視しました。舟運を担ったのは一度に1300俵近くの米を積載出来た大型の高瀬船で、関所の対岸にあった向河岸には大問屋の蔵が建ち並びました。

関宿城の城郭は明治になって解体され、その後の河川改修によって城の痕跡はほとんど残っていません。江戸川堤防沿いにわずかに残る跡地に関宿城趾の碑が建っています。その北側には、千葉県立関宿城博物館があります。関宿城が江戸城の富士見櫓を模して建てることを許されたとの記録に基づき城を再現した建物で、河川の歴史や流域の産業・文化、関宿藩の資料を展示しています。

関宿城趾からほど近い場所に、伝統的な木桶を作る工房があります。小峯風呂製作所の小峯穣二さんは、千葉県指定伝統的工芸品製作者に認定された職人です。

小峯さんの家は祖父の代から3代続く桶職人。祖父は東京の下町・深川の桶職人で、東京大空襲で焼け出された父が親戚のいる関宿へ疎開し、この地で家業を続けました。工房が多忙を極めたのは小峯さんがまだ幼かった昭和30年代。東京オリンピックを控えた高度成長期、都市近郊にはダイニングキッチンに水洗トイレ、浴室を備えた公団住宅が大量に建設されました。その初期の公団の浴室に置かれたのがヒノキの風呂桶でした。当時は父・吉一さんの下で8人の職人が働き、寝る間も惜しんで風呂桶作りに追われていたと、小峯さんは振り返ります。

小峯さんは現在、寿司屋で使われる飯台や、湯桶などの受注生産を手掛けており、中には風呂桶の注文もあるそうです。最近では材木商を通じてアメリカから注文が舞い込みました。伝統的な日本のヒノキ風呂がほしいと、楕円形の桶の下に付ける足の形状にまでにこだわった注文で、小峯さんが丹精込めた風呂桶は、2018年1月に完成して海を渡りました。

2018年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)

茂木佐平治邸
茂木佐平治邸

▼千葉県野田市

関東平野のほぼ中央、千葉県最北端に位置します。東を利根川、西を江戸川、南を日本初の西洋式運河である利根運河が流れ、三方を河川に囲まれた珍しい地理的特徴を持ちます。利根川の対岸は茨城県、江戸川の対岸は埼玉県。江戸時代、江戸に供給するしょうゆ産業が興り、江戸川の水運を利用して一大産地となりました。明治に入って野田のしょうゆ醸造家が合同で設立したのが現在のキッコーマン株式会社。市の中心部には、同社創業家の茂木、梨両家が設立した興風会が昭和4年に建てた興風会館や、旧茂木佐平治邸の野田市市民会館があり、国の登録有形文化財に指定されています。2003年6月に関宿町が編入合併。関宿は現在の茨城県境市、埼玉県幸手市にまたがる関宿藩の行政の中心地として関宿城があり、江戸への舟運の拠点でもありました。
【交通アクセス】
常磐自動車道の流山IC、柏ICから数分で野田市街へ入ります。通称・流山街道と呼ばれる県道17号が市内を南北に走ります。
東武鉄道野田線(アーバンパークライン)の6駅があり、中心駅は野田市駅。

写真説明

●御用蔵の仕込室:キッコーマン食品野田工場内の「御用醤油醸造所(御用蔵)」にある仕込室。撮影時は次の仕込みを控えて木桶は空でしたが、普段はもろみが入っている様子が見学出来ます
●御用蔵:1939年に建設され、2011年に野田工場内に移築されました。仕込桶や屋根の小屋組み、屋根瓦、石垣、門は移築前のものを使用。内部には建設当時の道具や装置、歴史的な資料が展示されています
●関宿城趾の碑:近くには江戸川に流入する水量を抑制するために川幅を狭めた「棒出し」の跡が今も残ります
●小峯風呂製作所の小峯さん:つなぎ合わせた側板を両足のつま先を使って器用に回転させながら、側板の内側をかんなで削る小峯さん
●茂木佐平治邸:大正13年頃に建てられたしょうゆ醸造家茂木家の邸宅は野田市に寄贈され、野田市市民会館として市民の文化活動に広く利用されています


●1830年創業のキノエネ醤油の本社社屋


●キノエネ醤油工場でのパッケージ作業


●焦げ目も香ばしい「おにやき」。火に乗せると次々に気泡がふくらみます


●桶作りに使われる道具。かんなや木材の表明を削る「セン」、手前は側板の湾曲の角度を測る道具

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