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もち米から生まれる甘い露は、料理に奥行き与える名脇役 - 碧南

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それは甘くて高貴なお酒であった グラスに注がれた琥珀色の液体。ウイスキーにも見えますが、実はこれ、キッチンでおなじみのみりんです。調味料のイメージが強いため、グラスより大さじ小さじが似合いそうですが、みりんにはお酒として親しまれてきた歴史があります。 かつては密淋酒とか美醂酒と呼ばれ、宮中などごく限られた人たちの間で甘い口当たりの高級酒として珍重されてきました。アルコール度数は14%程度と清酒並み。正月に飲まれる甘い薬酒「お屠蘇」はその名残で、みりんがベースに使われています。 「みりんを舐めたが、全然酒じゃない」 そんな声も聞こえてきそうですが、しばらくは「みりん=お酒の一種」という前提でお付き合いください。 みりんの原料は、もち米と米こうじです。これに焼酎を混ぜる点を除けば、清酒造りによく似ています。西三河一帯は醸造に適した水に加え、矢作川流域で豊富に収穫される米、麦、大豆などの原材料、更に醸造品を船で出荷する港にも恵まれていたため、200年以上も前から清酒や味噌などの醸造業が盛んでした。特に江戸市中で消費される酒の産地として、数多くの酒造業者が集まりました。三河のみりんは、酒蔵と深いかかわりを持ちながら、この地で独自の発展をしていきます。 「三河の酒は、原材料の水が柔らかいため発酵が盛んになり、辛口になりやすい。戦前までの造石税(出荷時ではなく、酒が出来た時点で課税された)の時代には、この辛い酒に甘さを加えるためにみりんが使われました」 西三河の碧南で明治43年以来、伝統的なみりんの製法を貫く角谷文治郎商店の角谷利夫社長は三河みりんの特徴をこう説明します。他の地域では、清酒を作るかたわらみりんが造られましたが、三河では焼酎造りの原料としてよく使われた酒粕が容易に入手出来たことから、みりん業者の多くが酒蔵から独立。今日もほとんどが専業でみりんを造っており、西三河は業者数も全国で最も多いみりんの銘醸地となっています。 仕込みは花の咲く季節 寒仕込みの清酒と違い、みりんの仕込みは花の季節。梅や桜が咲く春と、菊の薫る秋です。角谷文治郎商店でも、春の仕込みの真っ最中でした。 仕込みは、主原料である蒸したもち米と2日がかりで造った米こうじに、自前で醸したアルコール度数40%を超える焼酎を混ぜ合わせます。そのせいか醸造所内には、微かに焼酎の香りが広がっていました。 「昔は酒粕

手筒花火が轟く、三州吉田をそぞろ歩く - 豊橋

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手筒花火 夜空を彩る炎の祭典 火柱が噴き上がり、火の粉が雨のように降り注ぎます。やがて爆裂音と共に火が大きく爆ぜると、一面に火薬の臭いと白煙が立ち込め、見物人からは歓声が沸き起こりました。 豊橋市の吉田神社では毎年7月第3金土日曜日の3日間で豊橋祇園祭が行われます。その幕開けを告げるのが、吉田神社が発祥と言われる手筒花火の奉納です。東三河地域と静岡県の一部にだけ伝わる手筒花火は、縄を巻いた竹筒に火薬を詰め込み人が抱えて上げる花火。 江戸時代、徳川家康の編成した鉄砲隊が火薬の取り扱いを故郷の弟子たちに伝授したことから、古来、三河では花火が盛んでした。もともとは戦国時代の狼煙がルーツだといいますが、江戸時代に黒色火薬が使われ始めると、煙だけでなく鑑賞に耐え得る現在のような花火が作られるようになりました。 手筒花火は地上に寝かせて点火し、安全を確認してから抱え上げます。火の勢いは徐々に強くなり、火柱の高さは10mにもなりますが、男衆は降り注ぐ火の粉を全身に浴びながら仁王立ちでじっと同じ姿勢のまま耐え続けます。その昔、男性は手筒花火を経験して初めて成人と見なされました。危険を恐れず手筒花火を抱える行為は、勇気の証であり男の美学でもあったのです。 手筒花火最大の魅力は花火のクライマックスに轟く「ハネ」です。着火から40~50秒後、爆裂音と共に手筒の底が抜けるハネを迎えて花火は終了となります。手筒を抱える人にすれば「緊張からの解放感と、成し遂げた達成感の両方を味わえる最高の瞬間」なのだといいます。 身体を張って打ち上げる手筒花火は、竹の切り出しから火薬詰めまでを全て自分たちで行うというのも、この地域に代々伝承されてきた文化です。8カ町の氏子それぞれに秘伝の製造方法があるそうですが、基本は同じ。火薬の取り扱いは法律で規制されているため、花火を作る氏子は毎年講習を受けることが義務づけられています。火薬を詰めるのは祭りの前日。火薬と共に混ぜる鉄粉の大小で、噴き上げる火柱の勢いや音を変えることが出来ます。 手筒花火 祭の当日、午後6時からの宵祭の後、大筒花火などと共に、今年は315本の手筒花火が奉納され、勢いよく上がる火柱が夏の夜空を赤く彩りました。 全国一のウズラ王国 手筒花火が盛んな東三河地

三河の里山・鞍掛山のふもとに広がる日本の原風景、四谷の千枚田 - 新城

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四谷の千枚田 人々が営々と築いてきた圧巻の風景 その風景は、130人ほどの人が暮らす山間の集落、四谷地区にあります。 「四谷の千枚田」と名付けられた棚田は、鞍掛山(883m)の山頂に向かって、標高230m付近から430m付近まで広がります。高低差は実に200m、日本三大石積みの棚田で、約420枚の田んぼが連なります。 約700年前には、既に稲作が行われていたと言われており、棚田も非常に古い歴史を持っています。1904(明治37)年には梅雨の長雨と雨台風で鞍掛山の隣の山(通称貧乏山)が崩れ、沢沿いの家屋が流失、死者11人という大惨事が起こりました。この時、棚田も沢沿いでほぼ壊滅状態となりました。が、村人たちは諦めることなく、くわとモッコで棚田復興に全力を注ぎ、わずか5年ほどで石積みの棚田を蘇らせました。この絶景は、そうした長い歴史と先人たちの汗と苦労で積み上げられたものです。 棚田はかつて、日本のあちこちで見られました。が、70年頃から国の減反政策の対象として耕作放棄され始め、今では4割の棚田が消えたと言われます。ここ四谷の千枚田も70年代初めには1296枚の田んぼがありましたが、20年後の平成元年には3割以下の373枚まで減少してしまいました。 そんな現実を見て、先祖が残してくれた遺産を何とかして次代につなげたい、と一人の男性が立ち上がりました。当時、愛知県水産試験場で養殖魚の技師をしていた小山舜二さんです。 小山さんは50歳の誕生日を機に、千枚田の保存活動を仕掛けることにしました。手始めに千枚田の写真を撮り、全国の写真展に出展しては日本の原風景である「棚田」をアピールしました。次に作業性、生産性の悪い棚田を整備するため保存会の立ち上げを企画。が、耕作者の関心は薄く、繰り返し繰り返し粘り強く説得を重ねた末、97年、ついに念願の「鞍掛山麓千枚田保存会」を発足させました。 鞍掛山のふもとに広がる石積み棚田は、訪れる人の心を捉える これによって「ふるさと・水と土ふれあい事業」に選ばれ、軽トラックが通れる作業道が完成。農作業が驚くほど楽になりました。更に都市との交流を目的に、「ふれあい広場」や「ぼっとり小屋」「水車小屋」などの施設が整備されると、街から大勢の人が訪れるようになりました。その後も