三河の里山・鞍掛山のふもとに広がる日本の原風景、四谷の千枚田 - 新城

四谷の千枚田
四谷の千枚田

人々が営々と築いてきた圧巻の風景

その風景は、130人ほどの人が暮らす山間の集落、四谷地区にあります。

「四谷の千枚田」と名付けられた棚田は、鞍掛山(883m)の山頂に向かって、標高230m付近から430m付近まで広がります。高低差は実に200m、日本三大石積みの棚田で、約420枚の田んぼが連なります。

約700年前には、既に稲作が行われていたと言われており、棚田も非常に古い歴史を持っています。1904(明治37)年には梅雨の長雨と雨台風で鞍掛山の隣の山(通称貧乏山)が崩れ、沢沿いの家屋が流失、死者11人という大惨事が起こりました。この時、棚田も沢沿いでほぼ壊滅状態となりました。が、村人たちは諦めることなく、くわとモッコで棚田復興に全力を注ぎ、わずか5年ほどで石積みの棚田を蘇らせました。この絶景は、そうした長い歴史と先人たちの汗と苦労で積み上げられたものです。

棚田はかつて、日本のあちこちで見られました。が、70年頃から国の減反政策の対象として耕作放棄され始め、今では4割の棚田が消えたと言われます。ここ四谷の千枚田も70年代初めには1296枚の田んぼがありましたが、20年後の平成元年には3割以下の373枚まで減少してしまいました。

そんな現実を見て、先祖が残してくれた遺産を何とかして次代につなげたい、と一人の男性が立ち上がりました。当時、愛知県水産試験場で養殖魚の技師をしていた小山舜二さんです。

小山さんは50歳の誕生日を機に、千枚田の保存活動を仕掛けることにしました。手始めに千枚田の写真を撮り、全国の写真展に出展しては日本の原風景である「棚田」をアピールしました。次に作業性、生産性の悪い棚田を整備するため保存会の立ち上げを企画。が、耕作者の関心は薄く、繰り返し繰り返し粘り強く説得を重ねた末、97年、ついに念願の「鞍掛山麓千枚田保存会」を発足させました。

四谷の千枚田
鞍掛山のふもとに広がる石積み棚田は、訪れる人の心を捉える

これによって「ふるさと・水と土ふれあい事業」に選ばれ、軽トラックが通れる作業道が完成。農作業が驚くほど楽になりました。更に都市との交流を目的に、「ふれあい広場」や「ぼっとり小屋」「水車小屋」などの施設が整備されると、街から大勢の人が訪れるようになりました。その後も、愛知万博に合わせて全国棚田(千枚田)サミットを開催したり、毎月『四谷の千枚田だより』という情報誌を発行したり、毎年6月には1500本のろうそくを棚田に並べるキャンドルナイト企画「お田植え感謝祭~みんなで灯そう千枚田~」を開催したりしています。こうしたさまざまな企画により、四谷の千枚田は知名度がアップし、観光客が年々増加。それらの人たちが写真を撮ってSNSなどで拡散することにより、更に多くの人が訪れるようになっています。

さまざまな物語が残る歴史舞台

新城は、戦国時代、三河に属していましたが、隣接する遠江の今川氏の影響が強く、また西上をもくろむ甲斐の武田氏にとっても重要な拠点とされていました。そのためこの地には、徳川や今川、武田、織田など有力な戦国武将たちの足跡が数多く残っています。そんな歴史舞台の一つが長篠城です。

馬防柵
設楽原古戦場に復元された馬防柵

長篠城は豊川と宇連川の合流点に築かれた堅固な城で、築城したのは今川氏に属していた菅沼元成でした。菅沼氏はその後一時、徳川氏に服属しましたが、1571年、武田信玄による三河侵攻の一端として攻められ、武田軍に屈しました。同じく菅沼氏によって築城された野田城も武田軍に落ち、徳川軍の三河防衛網は崩壊。しかし、信玄の病が悪化したことにより武田軍は侵攻をやめて甲斐へと引き返し、その道中で信玄は亡くなりました。信玄の死が広まった直後に、家康は長篠城を奪還。野田城も菅沼氏の手により奪還されました。

ちなみに野田城の戦いの際、城から聞こえる笛の音に聴きほれていた信玄が鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡したという伝説があります。黒澤明の映画『影武者』は、この伝説を元に制作されたと言われています。

長篠城はその後、家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用された奥平貞昌が城主となりました。1575年、父信玄の夢を果たそうと武田勝頼が1万5000の大軍で長篠城を包囲。この時、奥平氏の兵はわずか500でしたが、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って救出に来るまで、武田軍の攻勢をしのぎきりました。その後、織田・徳川連合軍は当時無敵を誇っていた武田軍の騎馬隊を、馬防柵と鉄砲隊という戦術で破り、決戦を征しました。

鳳来山東照宮
徳川家康(東照大権現)を主祭神とする鳳来山東照宮

この他にも、新城にはさまざまな歴史物語があります。その一つが、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』にも登場する鳳来寺。今川氏から命を狙われた虎松はこの寺に逃れ、8歳から14歳まで過ごしたといいます。その後、虎松は家康に仕え、井伊直政として徳川四天王の一人に数えられるまでになります。ところで、野田城を落とした信玄は鳳来寺に入ったのですが、寺には虎松もいたはずで、その話がドラマに挿入されたら、どのような展開になっていたでしょう。今更ながら興味がわきます。

また、子宝に恵まれなかった家康の両親が、祈願のため鳳来寺山にこもったところ、間もなく家康を懐妊したという伝説もあります。この話を聞いた3代将軍家光は、鳳来寺の近くに鳳来寺東照宮を創建、4代将軍家綱の時に完成しました。鳳来寺は江戸時代、徳川家ゆかりの地として幕府の厚い保護を受け、21院坊、寺領1350石という盛大さを誇っていました。

2017年取材(写真/田中勝明 取材/鈴木秀晃)

▼愛知県新城市

新城市は愛知県東部、市域東は静岡県浜松市に接しています。戦国時代には今川、武田、織田、徳川などの有力大名に囲まれ、この地の武将たちはその時の強い勢力に従い、従属関係を変えていたと言われます。織田信長・徳川家康連合軍が、武田の騎馬軍団を鉄砲と馬防柵で破り、それ以後の戦術・戦法に大きな影響を及ぼしたと言われる長篠の戦いの合戦場は、新城市のほぼ中央にあります。現在の新城市は2005年に鳳来町、作手村と合併し、愛知県では豊田市に次いで2番目に広い面積があります。標高700~800mの山々に囲まれていますが、市の中央を流れる豊川に沿って平地が広がり田畑が開かれています。
【交通アクセス】
JR飯田線の新城駅を中心に15もの駅があり、新城市内から上り方面は豊川市、下り方面は浜松市に通じます
主要道は、豊橋市と長野県飯田市を結ぶ国道151号と、豊田市と静岡県浜松市を結ぶ301号。新東名高速道路新城ICがあり、市街地まで約6km

長篠堰堤
長篠堰堤

写真説明

●四谷の千枚田:傾斜地の山林を苦労して開墾した棚田は、鞍掛山の転石や山崩れで流出してきた石を積んで構築され、その間を鞍掛山の湧き水が流れ棚田を潤しています
●長篠堰堤:幅100m、日本の三大美堰堤の一つで、日本で最初の縦軸式発電所(ナイヤガラ発電所)であることから「花の木のナイヤガラ」とも言われます(撮影協力/花の木公園 Tel. 0536-25-0123)


●鞍掛山の中腹から湧き出す清冽な水が、四谷の千枚田全体を潤しています


●鳳来寺は鳳来寺山の山頂付近にあり、表参道は1425段の石段が続く山道。徳川家光が建立した仁王門は国の重要文化財


●「徳川家康の危機を救った鶏」で有名な曹洞宗の古刹・満光寺は庭園の美しさでも知られます


●幻の米ミネアサヒと川売梅
四谷の千枚田で作られている米はミネアサヒという品種。中山間地に適した米として愛知県で生まれました。小粒ですが、炊いた米は光沢があり、うま味・粘りに優れ、冷めてもおいしいのが特徴。愛知県三河地方と宮崎県高千穂でしか栽培されておらず、ほとんど流通していないため「幻の米」と呼ばれています。また四谷に近い川売(かおれ)の集落は梅の里として「日本のふるさと百選」にも選ばれ、そこで加工される梅干しや梅漬けは大人気となっている。湯谷温泉の泉山閣など、地元の宿ではその両方を味わうことが出来ます。(撮影協力/湯谷観光ホテル泉山閣 Tel.0536-32-1535)


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