伝統をベースに新しいものにもチャレンジする筑波山西麓の町 - 筑西

桐下駄輪積
茨城県郷土工芸品の桐下駄

現代に生きる伝統の職人技

日本古来の履き物と言えば、草鞋と草履、それに下駄です。明治維新で西洋化が進んでも、靴を履く文化は一般化しませんでしたが、戦後の高度成長期に入ると、日本人の生活習慣は大きく変化。道路のアスファルト化などもあり、下駄は日常品から嗜好品へと変わり、下駄の製造業者も全国的にどんどん少なくなりました。

そんな中、茨城県郷土工芸品に指定されている桐乃華工房は1951年の創業から66年、今も伝統を守り続けています。初代の猪ノ原昭吾さんは、江戸時代からの桐下駄産地である、お隣の結城市で修行をした後、現在地に工房を開きました。現在は2代目の昭廣さんと3代目の武史さんが桐下駄を作っています。桐乃華工房は関東で唯一、原木の製材から製造まで一貫して行っている桐下駄工房で、時には栃木や福島、秋田まで原木の伐採に出掛けることもあります。

桐は国産材の中で最も軽く、吸湿性が少ないのが特徴。また狂いや割れも少ないのですが、それでも原木で1~2年、更に木の特徴に合わせて切断(玉切)した丸太を約25cmの長さに製材(木取)してからも4カ月ほど乾燥させます。この時、アクを抜くため、桐材1枚1枚を井桁に組んで円環状に積み上げ(輪積)、雨風に当てながら自然乾燥させます。

十分に乾燥させた桐材は更に軽くなり、ここでようやく桐下駄の製造に取り掛かります。最初の工程は「組取」と言い、乾燥した桐材を円盤かんなでそれぞれの規格に削り上げ、糸ノコを使って二つに引き放し歯形をつけます。次に丸ノコで下駄の歯形と長さを決め裏側のかんなをかけます(七分)。その後、型に合わせて角を丸めて下駄の形を決め(鼻廻)、仕上げに穴穿けなど幾つかの工程を経て白木製品となります。これを桐本来の美しさである木目と光沢が十分に出るよう、とのこなどで磨き上げ、最後に鼻緒を付けて完成となります。ここまで約20工程、原木からすると約2年の歳月を要することになります。

下駄には天板に歯を接着した「天一」と、一枚物の「真物」があります。桐乃華工房でもその両方を製造していますが、「合目」という最高級の桐下駄も作っています。丸太から縦に切り出し、下駄の表を合わせた形で加工すると、一足の下駄は同じ柾目となります。これが「合目」で、原木からの一貫作業をしている桐乃華工房ならではのぜいたくな下駄です。

桐乃華工房
桐乃華工房

また桐乃華工房には、売れても売れなくても年に10作は新作を作るというこだわりがあります。これは3代目の武史さんにも受け継がれ、創業60周年の2011年から桐下駄をベースに表面仕上げを施したデザインクロス・シリーズを製作。クロスには甲州印傳や山ブドウのつた、畳表を始めとした国産材を中心に、エイやオーストリッチなども使っています。更に13年からは、木を焦がして描く「ウッドバーニング・アート」の作家とコラボレーションするなど、新しい感覚やテクノロジーも取り入れながら、桐下駄作りを継承しています。

関東の大阪と呼ばれた商都・下館

荒川家住宅
荒川家住宅(食の蔵 荒為)
筑西市には水戸線、常総線、真岡線の3路線のターミナル駅となっている下館駅があります。市町村合併前は下館市の中心となっていた地域で、かつては「関東の大阪」と呼ばれるほどの商都として栄えていました。

下館商人の活躍が始まるのは江戸時代。大坂や江戸の商人を介し、奈良から織物や布団の原料となる繰綿を中心に仕入れ、下館周辺や東北に販売する遠隔地商業で財を成しました。その後、商人たちは真岡木綿の買継商へと展開。二宮尊徳が下館藩の財政改革を行った際、下館商人が藩の負債の3分の1を負担するなど、藩の財政を支えるほどの隆盛を誇りました。

1889(明治22)年に下館駅が開設されると、流通拠点として綿、塩、肥料、薬品などの卸商が発展。同じ年、商家を中心にこの地方最初の銀行が設立されており、当時の繁栄ぶりがうかがえます。更に1912(明治45)年、真岡軽便線(現在の真岡鐵道)が開通し、翌13 (大正2)年に常総線が下館まで延びると、下館は鉄道交通の結節点となり、周辺地域も商圏とする商都となりました。

荒川家住宅
荒川家住宅(荒七酒店)
下館には現在、当時の面影を伝える蔵が100以上現存しています。が、店舗の拡張や駐車場の確保のために蔵を取り壊したり、スーパーなどに押され商業機能が低下するのに伴い蔵を物置化したりといった動きもあります。また蔵の老朽化も進んでいますが、補修には多額の費用がかかるため、二の足を踏んでいる所有者も多いようです。

そんな中、2005年のつくばエクスプレス線開業に伴い、県西の地域資源をアピールすることを目的として「県西地域蔵のまちネットワーク」が構成されました。同時に県西地域に残る蔵の調査事業が始まり、蔵の散策マップやパンフレットも作られました。筑西市については「勇壮な祇園祭に代表される伝統と歴史のまち。江戸から明治期の豪商が建てた蔵は代々受け継がれ、当時の面影を今に伝えます」と記載されています。

最近、下館では空き店舗をイベントスペースやギャラリー、また定期市に活用する動きが生まれています。向かい合って建つ2軒の国登録有形文化財を始め、商都・下館の潜在力は十分なだけに、今後、蔵を文化遺産として保存するだけでなく、蔵を活用した街づくりが進めば、新たな魅力発信につながるに違いありません。

2017年取材(写真/田中勝明 取材/鈴木秀晃)

▼茨城県筑西市

筑西市は茨城県西部、その名の通り筑波山西麓にあり、2005年3月28日に、下館市・関城町・明野町・協和町の1市3町が合併して誕生しました。市北東部に標高200mほどの丘陵地がある他は、ほぼ全域が平坦地で、総面積の約95%は居住または耕作が可能な土地となっています。また鬼怒川や小貝川などが市を南北に貫流し、肥沃な田園地帯を形成。耕地面積は市域の半分以上を占め、梨やこだまスイカなどの特産があります。市の中心・下館地区は、真岡木綿や結城紬などを扱う商業の町として発展、「関東の大阪」と呼ばれました。
【交通アクセス】
東西にJR水戸線が走り、下館駅を起点に南へ関東鉄道常総線、北へ真岡鐵道真岡線が運行しています
主要道は市内を東西に貫く国道50号と南北に貫く国道294号。北関東自動車道が市域北東端をかすめ、桜川筑西ICから市の中心部まで約11km

下館駅
水戸線、常総線、真岡線の3線が乗り入れる下館駅


写真説明

●桐乃華工房:桐乃華工房では販売や修理も行っており、直接工房へ足を運べば、その人の足に合わせて鼻緒を付けてくれます。桐乃華工房:筑西市関本上345/TEL.0296-37-6108
●荒川家住宅(食の蔵 荒為)と荒川家住宅(荒七酒店):下館地区には国登録有形文化財となっている建物が2軒、道路を挟んで向かい合っています


●桐乃華工房3代目の猪ノ原武史さん。現在、2代目である父・昭廣さんや母の幸子さん、また工房を手伝うため東京から移住してきた妹さん夫婦などと共に伝統の桐下駄作りに取り組んでいます


●下駄の仕上げにはさまざまな道具が使われます。牛の角の形をしたノミは「牛角(ぎゅうのう)」と呼ばれ、下駄作りのための特注品


●下館ラーメン:商都として栄えた下館では、商家は食事もままならいほど忙しく、出前文化が発達。特に時間が経ってもおいしさを損ないにくい中細ちぢれの少加水麺を使ったラーメンが中心になりました。また戦後間もない頃、豚肉より安価だった鶏肉をチャーシューに使ったものが、今に受け継がれています。写真を撮らせて頂いた盛昭軒は創業60年の老舗で、自家製麺を使い、鶏チャーシューは鶏の全部位を使って仕込んでいます。スープも鶏がベースで鶏肉の旨みが凝縮しています。撮影協力/盛昭軒(Tel.0296-22-3669)


●波山の鳩杖最中:筑西市の出身で、日本近代陶芸の祖と言われる板谷波山にちなみ、下館地区菓子組合に加盟する菓子店が共同で企画したもの。波山は古里を愛し、創作活動の傍ら、下館の80歳以上のお年寄りに、長寿を祝って毎年鳩杖を贈り続けました。鳩杖最中は、この人間味豊かな波山の人柄を伝えるエピソードをモチーフにしたもの。現在市内10店が参加、生地とパッケージは共通ですが、餡(あん)は各店オリジナルのものが使われており、食べ比べてみるのも面白いと思います。撮影協力/たちかわ(Tel.0296-22-3268)



●梨:筑西市の関城地区は、日本で最も古い梨の産地の一つで、幸水や豊水、新高などの定番品種から恵水という新品種まであります。4月下旬、筑波山を背景に咲き誇る梨の白い花は、筑西市に本格的な春の訪れを告げる季節の花。この時期、生産者は「花合わせ」と呼ばれる梨の授粉作業に大忙しです。


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