児童福祉の父・石井十次のルーツを訪ねる - 高鍋
シニア・サーフィン・スクール
|
豊かな森と日向灘の荒波が育てる天然かき
高鍋町の蚊口浜では大潮の日、潮が引いた海でかき打ちをする町民の姿が見られます。蚊口浜は遠浅で、砂浜の少し先に「ゴロタ石」と呼ばれる大きな玉石の岩場があり、そこに付く天然かきをとっているのです。
高鍋のかきには、漁業権はないのだろうか? そんな疑問が浮かびます。
もちろん漁業権はありますし、組合もあって、ちゃんと1日の採取量を管理しています。が、潜ってとるのではなく、勝手に表に出て来たものについてはこの限りではありません。地元の人は昔からやっていたことで、組合もそれに目くじらを立てたりはしません。だから大潮の干潮になると、蚊口浜には手押し車を押したお年寄りを始め、大勢の人がやって来るのです。
「私は宮崎市出身なので、初めてこの光景を見た時はびっくりしました。夜、海からカチンカチンという音が聞こえて外を見たら、人がいっぱい。子ども心に何事かと思いました。蚊口浜の嫁は、かきの殻むきが出来ないとだめと言われるぐらい、かきは生活の一部になっているんです」
そう話すのは、蚊口浜で割烹旅館「磯亭」を営む中田弘幸さん。自ら素潜りで天然かきをとり、奥さん、息子さんと一緒に焼きかきに酢がき、かきフライ、かき飯、かき鍋など、さまざまなかき料理を提供しています。
中田さんの話だと、高鍋のかきは江戸時代から知られていたようで、高鍋藩主が食したという記録も残っています。中田さんが組合長を務める高鍋町カキ生産組合には、現在8軒が加盟。保護区域や漁期を設定したり、採取量を1日60kgに制限するなどして、蚊口浜が誇る天然資源としてのかきを保護しています。
岩がきは通常、表面がきれいな岩に付きます。その点、波が荒い日向灘では、荒波が砂を舞い上げゴロタ石の表面をきれいにしてくれます。しかも九州山地の山々に囲まれた椎葉村に源を発する小丸川が、森の養分をしっかり海に運んでいます。
高鍋のかき漁 |
こうして豊かな自然に育てられた高鍋のかきは、濃厚な味わいとぷりぷりの食感で多くの人を魅了します。また、高鍋の天然かきは、身の3分の1ほどもある大きな貝柱を持ち、そこが特にぷりぷり感を増幅させます。焼きかきにして、そのままの味を食べるのが一番。基本的にむき身では出荷しないので、高鍋に行かないと食べられないというのも、人が引き付けられる要素でしょう。
児童福祉の父・石井十次を生んだ町
「福祉」という言葉さえなかった明治時代、日本で初めての孤児院を創設し、生涯にわたり3000人を超える孤児を救済した男がいます。その名は石井十次。高鍋が生んだ偉人です。
十次は1865(慶応元)年、現在の高鍋町馬場原に高鍋藩の下級武士・石井萬吉、乃婦子夫妻の長男として生まれました。高鍋藩は、名君の誉れ高い第7代藩主・秋月種茂が創設した藩校「明倫堂」によって、多くの有用な人材を輩出していました。生来、学問が好きであった十次も明倫堂に入学、同校閉校後は明倫堂の校風を受け継ぐ高鍋島田学校に学びました。
高鍋町の中央公園に建つ石井十次像
|
秋月種茂は、教育を重んじたばかりではなく、倹約に努めて藩の財政を再建し、藩勢を大きく発展させました。また、現在の児童手当に相当する制度を世界に先駆けて実施したと言われ、高鍋の福祉文化的土壌を作りました。実弟は米沢藩第8代藩主上杉重定の養子となり、破綻寸前の米沢藩の財政を立て直し、江戸時代屈指の名君と言われる上杉鷹山です。
十次が、こうした先人たちの影響を受けたであろうことは想像に難くありません。そんな十次に転機が訪れるのは17歳の時。郷土の先輩である荻原百々平医師との出会いによって始まりました。荻原氏の「医者になって多くの人を救ってみないか」との勧めで、十次は岡山県甲種医学校へ入学。同時に岡山基督教会を紹介され、キリスト教の世界観が十次の中で徐々に広がっていきました。
医学生として学ぶ傍ら、十次はある診療所を預かり、代診をするようになりました。診療所の隣には大師堂があり、貧しい巡礼者たちの宿となっていました。ここで巡礼たちの身の上話を聞き、励ますことが、いつしか十次の日課になっていました。
ある日、いつものように大師堂へ行くと、ボロ衣をまとった二人の子どもを連れた女性がいました。彼女は、「女手で二人の子どもを育てるのは無理でございます。お情けで上の男の子を預かってください」と涙ながらに懇願。十次はこの話を聞き、その男の子を預かることにしました。
この子・前原定一が、十次の児童救済事業における第1号となりました。噂は広まり、徐々に預かる児童が増加。十次は三友寺という寺の一角を借り、「孤児教育会」(後に岡山孤児院と改称)の看板を掲げました。そして苦悩の末、「医師になる人は大勢いても、児童救済をやる人間は自分しかいない」と確信し、医書を全て焼き、生涯を児童救済に捧げる道を選択したのでした。
1904(明治37)年、十次の活動に対し、明治天皇から2000円の御下賜金があり、更に翌年から10年間、毎年1000円の御下賜の御沙汰がありました。当時の1000円は現在の1000万円に相当します。大変な金額です。とはいえ、孤児一人を育てるのに年間約5円が必要で、東北で大凶作となった1905年には東北の子どもたち824人を受け入れ、孤児院は1200人を収容していました。つまり、子どもたちだけで年間6000円を必要としていたため、十次の苦労は簡単には晴れませんでした。それでも十次は「無制限収容」を宣言し、子どもたちのために全てを捧げ続けました。
その後、故郷高鍋に近い茶臼原に子どもたちを伴い全面移住。大自然の中、子どもたちは十次の教えを守り、学び、働く日々を過ごしました。十次の理想は確実に実を結び始めていました。が、長年の無理がたたり、移住して2年後、十次は家族や友人、子どもたちに見守られながら、48年の生涯を閉じました。
秋月種茂と石井十次、この二人は高鍋の文化そのものと言えるでしょう。
2016年取材(写真/田中勝明 取材/鈴木秀晃)
▼宮崎県高鍋町
宮崎県のほぼ中央、椎葉村に源を発する小丸川が町のやや北寄りを流れ日向灘に注いでいます。海岸部は遠浅の砂浜になっており、アカウミガメの産卵地や天然かきの産地として知られています。また、南北に10km以上続くビーチ沿いには、初心者から上級者まで楽しめる九州屈指のサーフポイントが点在していることから、サーフィン人口が多く、それを目的に移住してくる人もいます。町内には、5~6世紀頃に造られた大小85基からなる国指定史跡・持田古墳群があり、古くから開けた場所でした。江戸時代には、秋月家3万石の城下町として栄えました。県内で面積が最も小さな自治体ですが、県や国の出先機関、高校、農業大学などさまざまな施設があります。
【交通アクセス】
宮崎県の大動脈であるJR日豊本線が通り、町の中央海寄りに高鍋駅があります
海寄りを国道10号線、山寄りを東九州自動車道が通り、東九州自動車道・高鍋ICがあります
写真説明
●シニア・サーフィン・スクール:高齢者の生きがいづくりとして、高鍋町の提案で始まったもので、高鍋のサーフ・ショップ「イーストリバー」が指導に当たっています。写真は最高齢の白川満人さん(73)と開田澄子さん(70)※いずれも取材時。開田さんは「気持ちがぱーっと明るくなる」と話していました
●高鍋のかき漁:昔は「ドンザ」と呼ばれる綿入りの仕事着を着て潜っていましたが、今は素潜り用のウェットスーツが必需品。専門店があって、毎年採寸した上で作り替えているそうです
●天然かきは、表面に海草などがついているため、焼きかきにする前に包丁でこそぎとってきれいにしています
●高鍋の天然かきは全体に黄色みがかかって貝柱が大きいのが特徴です
取材協力/磯亭(Tel.0983-22-1146)
●5~6世紀頃に造られた大小85基からなる持田古墳群(国指定史跡)の一角に、町と町民が一体となって整備する花守山があります。写真は高鍋舞鶴ライオンズクラブの整備作業。同クラブでは定期的に植樹や草刈りなどを実施しているそうです
●花守山は、持田古墳群の盗掘に心を痛めた岩岡保吉氏が、古墳に眠る人々の霊を鎮めるため個人で土地を取得し、大分から招請した仏師に四国八十八カ所の石仏を彫らせ、山に配置したのが始まり。この時、自らも石仏造りを学び、生涯をかけて石像を彫り続けました。その数、実に750体。6m級の巨大石像は老年期に造ったもので、かなりの存在感を見せています。2009年には「高鍋大師」として宮崎県観光遺産に指定されました
コメント
コメントを投稿