江戸時代から連綿と続く日本一の人形のまち - 岩槻

岩槻人形
岩槻のひな人形

関八州の北の砦として築かれた岩槻城

岩槻は関東平野のほぼ中央にあります。そのため、軍事上の拠点として重視され、室町時代には関八州の北の砦として岩槻城(別名白鶴城)が築かれました。築城したのは、江戸城や河越城(川越)と同じ、太田道灌であるというのが通説となっています(※近年、敵対する古河公方方の成田氏築城説が有力視されていましたが、その根拠となる史料にも新解釈が示され、現時点では太田氏築城説と成田氏築城説が並立しています)。

その後、関東に入った徳川家康も、この地の重要性を認識。譜代家臣の高力清長を岩槻に配置し、以後、岩槻は徳川家譜代大名の居城となりました。更に江戸中期には第9代将軍家重の側近大岡忠光が入り、武蔵岩槻藩が確立しました。天守はありませんでしたが、天守代用の櫓として本丸に2層2階の瓦櫓があり、他に葺き2層2階の二重櫓と、やはり葺きの1層1階の櫛形櫓が本丸に存在したといいいます。

現在、城跡は岩槻城趾公園となっており、桜の名所として知られます。園内の菖蒲池には、公園の象徴とも言える、八つに折れ曲がった朱塗りの八つ橋が架かっています。また「人形のまち岩槻」だけあって、人形塚や童人形が時を告げるからくり時計などもあります。

園内では毎年3月3日直前の日曜日に、ひな祭りの起源と言われる流しびなが行われます。子どもたちの無病息災を祈り、さん俵に乗せた和紙人形を菖蒲池に流す、岩槻の春の風物詩です。また、その前後3週間ほどは、「まちかど雛めぐり」というイベントも開催され、伝統工芸士の作品や、各商店に伝わる古い人形などが飾られ、にぎわいを見せます。

衣装着人形
衣装着人形の制作風景

更に毎年11月3日には、人形塚で人形供養祭が行われます。古くなって飾らなくなったり、壊れたり、使わなくなった人形を並べ、出席者は約20人の僧侶による読経の下に焼香。人形の持ち主は、日本の人形の原形と言われる天児に見守られながら、供養札をお焚き上げして冥福を祈ります。岩槻人形協同組合が、人形の行く末に対しても責任を持つべきとの考えから、執り行っています。

日光東照宮造営と岩槻人形

岩槻人形の始まりは、江戸初期にさかのぼります。3代将軍家光は、日光東照宮造営のため、全国から優れた工匠を集めました。江戸から日光へ向かう日光御成街道の最初の宿場である岩槻にも、それらの工匠たちが訪れました。

岩槻人形の型
頭の原型(右)と型、その型で抜いた生地(左)

当時、岩槻周辺には多くの桐が植えられていました。それに目を付けた職人たちが、岩槻や隣接する春日部に定着し、桐の箪笥などを作るようになりました。更に、それらを作る中で出るおがくず(桐粉)を利用して、人形作りも行われるようになりました。

『新版風土記』によると、1697(元禄10)年、京都・堀川の仏師恵信が、岩槻で病に倒れました。恵信は岩槻藩藩医の治療を受け回復しましたが、そのまま岩槻にとどまり、付近で産出される桐粉に着目して、しょうふ糊で練り固めて人形の頭を作り始めたといいます。桐粉で作った人形は壊れにくく、精巧さでも土をしのぎ、量産も利くことから急速に発達。幕末には、岩槻藩の専売品に指定されるほど重要な産業となりました。

岩槻城趾公園
岩槻城趾公園の象徴「八つ橋」

岩槻で作られる人形は、衣装着人形とも呼ばれる「岩槻人形」と、筋を彫り入れた胴体に布地を埋め込んでいく「江戸木目込み人形」の二つに大別されます。それぞれ国の伝統的工芸品に指定され、木目込み人形は23人、岩槻人形は13人の伝統工芸士がいます。

岩槻人形は、その名の通り江戸時代から作られてきた岩槻オリジナルの人形。頭の輪郭が丸く、胴体が大きめで、目が大きく少し派手な彩りが特徴。織物で仕立てた衣装を着せることから、衣装着人形とも言います。一方の木目込み人形は、賀茂人形とも呼ばれ、江戸中期に京都で作られていました。それが江戸に伝わり、人形作りが盛んな岩槻にももたらされました。

からくり時計
岩槻城趾公園のからくり時計
岩槻の人形は全て、この当時に確立された、昔ながらの手仕事によって作られています。作業は分業制で、人形問屋がどんな人形を作るか企画を立て、それに従って頭、手足、胴(衣装)、小道具が作られます。それぞれ専門の頭師、手足師、着せつけ師、小道具師がおり、最後に人形問屋がそれらを組み立てて完成となります。

現在、岩槻にはおよそ150軒の人形店があり、人形職人は約300人、内職など人形関連の従事者は3000人に上っています。岩槻全体の人形出荷総額は年110億円で、文字通り日本一の人形産地となっています。

そんな岩槻では毎年2月の終わりから3月の中旬にかけ、「人形のまち岩槻 まちかど雛めぐり」が開催されます。岩槻駅周辺の人形店や一般の商店など約80店舗が参加。職人らの作品や、それぞれの商店に伝わる古い人形などが飾られ、町全体が美しい雛人形で彩られます。「観る・創る・食べる」のキャッチ通り、見て回るだけではなく、人形の制作体験や、参加飲食店による雛めぐり限定メニューなども楽しむことが出来ます。

2015年取材(写真/田中勝明 取材/鈴木秀晃)

取材協力

■㈱東玉=1852(嘉永5)年創業の老舗人形店で、本店には人形博物館を併設。毎年、その年の最も印象に残る出来事を一般から募り上位のものを題材に「変わりびな」を制作、マスコミ各社に取り上げられているのでご存じの方も多いでしょう。
■㈱矢作人形=伝統的な人形から、加賀友禅と岩槻人形の伝統工芸コラボ企画「手書き加賀友禅雛」や、写真を元に制作する夫婦の顔そっくりの「夫婦和合雛」など、独創的なオリジナル作品まで幅広いラインナップがあります。

▼埼玉県さいたま市岩槻区

さいたま市を構成する10区のうちの一つ。2005年4月1日、岩槻市がさいたま市に編入された際に、旧市域をもって岩槻区が設置されました。江戸時代は、岩槻藩の城下町として、また日光御成街道の宿場町として栄えました。1871年の廃藩置県に伴い埼玉県が成立、県庁は岩槻町に置かれることになり、県名は岩槻の所属郡であった埼玉郡から付けられました。が、県庁は暫定的に旧浦和県庁に置かれ、結局岩槻に移転することのないまま、1890年、勅命により浦和が県庁に確定しました。市内には人形店が集積、「人形のまち」として全国的に知られます。
【交通アクセス】
東武野田線(東武アーバンパークライン)岩槻駅と東岩槻駅があります
東北自動車道岩槻インターチェンジがあり、神奈川、千葉、埼玉、東京の首都圏を結ぶ国道16号(東京環状)が通ります

●時の鐘:寛文11年(1671年)に岩槻城主阿部正春(あべまさはる)が城下町に時を知らせるために設置されました。現在の鐘は、享保5年(1720年)に同城主永井直陳(ながいなおのぶ)が改鋳したものです。朝夕6時と正午に鐘がつかれます

●豆腐ラーメン:岩槻城址公園内にあるレストラン大手門の賄い料理から生まれた岩槻名物のご当地グルメ。「埼玉B級ご当地グルメ王決定戦」にさいたま市代表として出場し優勝したこともあります





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