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滔々たる真夏の四万十、自然の恵みと人の手が生み出す奇跡 - 四万十

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沈下橋のウォーターボーイズ 夏の四万十川と言えば、入道雲の青空の下、橋の上から川に飛び込む子どもたち・・・そんなイメージを勝手に思い浮かべて四万十入りしたのですが、まさにその通りの光景が飛び込んできました。高さ5m程の橋の上から川面を覗き込んだ後、思い思いのポーズで飛び込んでいく人の姿です。 近くに寄って話を聞くと、高知市から遊びに来たという大学生でした。やはり彼らにとっても四万十の夏はこのダイブだと言います。流域に暮らす者ならば、子どもの頃に一度は経験する水遊びで、飛び込むことで泳ぎの技術と勇気を身に付けていきます。飛べないと意気地なしと言われ、飛べば一目置かれる。子どもながらにその後の評価が大きく変わる、進退を懸けた行事なのです。 飛び込み台となる欄干のない橋は「沈下橋」と言い、氾濫時には水面下に沈むように設計されています。流木などが引っ掛かりその抵抗で橋が倒壊するのを防ぐため余計な装飾はありません。欄干がないのもそのためです。幅5m程の歩行者専用のものもあれば、車同士が橋の上ですれ違えるように幅員が広くなった場所を設けている橋もあります。四万十川には、県の保存対象となっている沈下橋が本流に21、支流に26現存し、そのほとんどが現役で使われています。 全長196km、300を超える支流を集め、豊かな水をたたえる四万十川は、他の多くの河川がダムの建設やコンクリート護岸などの工事により自然の景観を失ってきた中、川本来の姿をとどめている数少ない大河です。「日本最後の清流」などと称されるのはそのためです。 昭和20年の終わりから30年に掛けて沈下橋が流域各所に掛けられる以前、この川唯一の交通手段として舟母(せんば)という帆船が行き交っていましたが、この舟母を模した観光船で川面から四万十川を眺める機会を得ました。確かに人工の建造物は周囲に見当たりません。たまに目に付くのは川岸の木立の枝に引っ掛かっている多少のゴミだけです。増水時にそこまで水位が上がったことを物語っています。3年前にあった大きな台風の時は、四万十各地で浸水するはずのない場所に建つ多くの家屋が水浸しになりました。「自然のまま」が良いと人は言いますが、時に自然は過酷な現実を突きつけます。 真夏の太陽の下、水と緑の豊かな風景に溶け込む沈下橋の姿は、過酷さとは程遠いのどかな日本の原風景を思わせます。 最盛期を迎える

あのつゆ、あのだしの深みを支えるのは黒潮の恵みが生んだ飴色の宝石 - 土佐清水

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全国一を誇る宗田節の産地 南方から暖かい海水を運んでくる黒潮が日本で最初にぶつかるのが高知県南西部、太平洋に突き出すように伸びる足摺岬です。周辺海域は魚介類の宝庫で、岬からほど近い土佐清水は県内有数の水揚げを誇る港町として知られます。漁師が1本の竿と自らの腕だけでカツオやマグロを釣り上げる豪快な一本釣り漁業が昔から盛んです。最近では脂の乗りのいいゴマサバを「土佐の清水サバ」として売り出し、人気を博しています。もう一つ土佐清水で忘れてはならないのが、全国生産量の8割を占めている宗田節です。 宗田節とは、地元ではメジカと呼ばれるカツオの仲間のマルソウダを原料とした節のことです。カツオ節に比べ濃厚で力強いだしが取れるのが特徴で、料亭や割烹を始め、日本全国のうどん・そば店でだしやつゆを作るのに欠かせない食材となっています。メジカは鮮度が落ちやすいだけではなく、血合いが多く生食には向きませんが、宗田節になると独特の味と香りを生み出す最高の一品に生まれ変わります。 漁が行われるのは足摺岬の沖合。水温20度を超える黒潮の本流に沿うように水温19度前後の流れがあり、そこにメジカは生息します。夜明け前の午前3時、沖に向けて出航した漁師は漁場に着くと伝統の曳き縄漁に取りかかります。円を描くように船を旋回させながら撒き餌をまき、船から張り出された4~5本の竿に疑似餌を付け一尾ずつメジカを釣り上げていきます。 漁のあったその日の昼から夕方にかけて市内の各港で水揚げが行われます。冷却された状態で加工業者に落札されたメジカはすぐに宗田節製造工場である節納屋へと運ばれ、翌朝までに沸騰した釜の中に入ります。メジカを間近で見てみると、なるほど名前の由来「目近」が示す通り、目と口の距離が近く、どこか幼い面構えです。カツオに比べると一回りから二回り小ぶりな魚です。漁期に合わせてそれぞれ呼び名があり、1~3月末の寒い時期に水揚げされたものを「寒メジカ」、5月末~7月初めの「梅雨メジカ」、9~10月中旬は小型で笹の葉に似ていることから「笹メジカ」、11月~12月中旬にとれるものを「秋メジカ」と呼びます。中でも寒メジカで作る宗田節は、大きさ・品質ともに最上級とされています。 大釜での煮熟 釜で煮られ、煙で燻される 宗田節の加工業を営む中平健さんの節納屋をのぞいてみると、市場から運ばれてきた新鮮なメジカを鉄製の

土佐の山間から卓越した人材を世に送り出した文教の町 - 佐川

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司牡丹酒造の酒蔵 郷校・名教館と伊藤蘭林 坂本龍馬を筆頭に、幕末の土佐藩からは個性豊かな人物が出ました。高知市の西に位置し周囲を山々に囲まれた佐川では、脱藩志士で明治政府の要職を歴任した田中光顕や、日本の植物学の父・牧野富太郎など傑出した人材が育まれました。 藩政時代に佐川 を治めたのは土佐藩の筆頭家老深尾氏です。初代重良は関ケ原の戦いの後に土佐藩主となった山内一豊に従って入国し、佐川1万石を与えられました。 1772年、6代茂澄が深尾家の子弟を教育する家塾「名教館」を開き、後にそれが拡張されて郷校となり、家臣の教育に力を注ぎます。そのため多くの儒学者が出て「佐川山分学者あり」(「山分」は山がたくさんある所の意)と言われました。 この名教館で学んだ儒学者の伊藤蘭林は、自ら教授となって多くの生徒を教えました。蘭林は和漢の才に長けていただけでなく、天文、科学、文学、音楽など多方面に通じ、学問だけでなく武芸にも優れた文武両道の人でした。 教え子は、田中光顕の他、港湾建造の第一人者として小樽港に日本初のコンクリート製外洋防波堤を築いた広井勇、ブラジル移民を計画し第1回移民団を率いて海を渡った水野龍など、幅広い分野で活躍しました。 名教館は明治維新後、廃校の危機に見舞われたましが、佐川の有志によって義校・名教館として存続され、庶民にも門戸が開かれました。酒造を営む家に生まれた牧野富太郎は、蘭林の私塾とこの義校で学んでいます。富太郎の自伝には明治5、6年、10歳頃の話としてこんな一節があります。 酒蔵通り 「その頃の名教館では以前と異なり、日進月歩の学問を教えていた。そこでは訳書で、地理・天文・物理などを教えていた。その頃物理のことを窮理学といっていた。その時習った書物を挙げると、福沢諭吉先生の『世界国尽』、川本幸民先生の『気海観瀾広義』(これは物理の本で文章がうまく好んで読んだものである)、又『輿地誌略』『窮理図解』『天変地異』もあった。ここで私ははじめて日進の知識を大分得た」(『牧野富太郎自叙伝』) 牧野はその後通った小学校を中退して独力で植物学を学び、やがては東京帝国大学から理学博士の学位を得ますが、その基礎を培ったのが蘭林と名教館の教えだったのでしょう。 「自由民権運動の板垣退助が高知に立志