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野球小僧への第一歩、万葉の里が生んだ必携スポーツ用品 - 三宅

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世界に誇る地場産業 ブラジルでは、子どもが数人集まれば自然に球蹴りが始まるといいますが、かつての日本でもこれと同じように、男の子を夢中にしたのが、球投げと球打ちでした。そして、いつしか球打ちの棒はバットに代わり、手にはグローブがはめられました。たいてい新品ではなく、お下がりではありましたが、初めて野球用品を手にしたその瞬間、野球小僧は決まって顔をくしゃくしゃにして喜んだものです。 奈良県北西部、奈良盆地のほぼ真ん中に「グローブの街」三宅町はあります。『万葉集』の中にも「三宅の原」「三宅道」と詠まれているように、万葉の時代からその名はありますが、大正の半ばに野球用のグローブやミット、スパイク、昔は革製だったスキー靴の生産技術が導入されてからは、スポーツ用品産業の街として知られるようになりました。1970(昭和45)年頃に最盛期を迎え、グローブで年間60万個を生産。一つひとつ職人の手によって作られたこれらのグローブは、国内のみならず野球の母国にも認められ、累計587万個がアメリカへ輸出されました。と言っても、これは過去の話。近頃は事情が違うようです。 「最近では、韓国や台湾製のグローブ・ミットが国内に入ってきています。国産品と比べてもそれほど品質が変わらない上、格段に安価。そのため今ではグローブ・ミットの生産量は最盛期の10分の1にまで落ちました」と話すのは、吉川清商店の吉川雅彦さん。三宅町が誇るグローブ作りの職人です。 スポーツメーカー大手数社でも硬式用と、軟式用の上位クラスを除いたほとんどのグローブを海外生産に頼っていますが、細かなオーダーに迅速に対応出来るということで、国内産のニーズも少なからずあります。吉川さんが作るのは、そんなニーズに応えるグローブです。小売りはせず、複数のスポーツメーカーからの受注をこなし、40種類近い硬式用グローブを年間で約3000個生産しています。 使い手の感性に訴えかける匠の技 吉川さんの作業場にお邪魔しました。大きな機械がたくさんあって、ガシャガシャ音をたてている工場を想像していましたが、機械類は思った以上に少ないのが印象的でした。それだけに、職人の技が必要とされることを感じる空間となっています。 作業場の入り口付近に積まれているのは、染色済みの牛の皮でした。複数の皮からパーツを取ることもありますが、目安として2歳の牛皮1頭分でグロー

磨き丸太と本葛の故郷は、古代日本史の表舞台 - 宇陀

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国宝の室生寺五重塔 伝統産業、磨き丸太 宇陀市を含む吉野地方は、山林が大半を占め、古くから林業が盛んです。年間平均気温は14度、降水量は日本の年平均の1.3倍あり、保水性に優れた土壌のため、杉が育つのに最適な気候風土となっています。いわゆる吉野杉の産地で、中でも床柱など、装飾に用いる磨き丸太の加工が盛んです。ちょうど製造の真最中というので現場を訪ねてきました。 磨き丸太は樹皮を剥がした丸太の表面を、滑らかになるまで小砂利や棕櫚の毛などで磨いたものです。山で伐り出された原木の皮むき作業が行われるのは、12月から3月の寒い時期。この時期の木は、年輪でいう色の濃い冬目の部分が木肌となります。硬く締まり、磨くと表面に光沢が浮かび上がります。反対に木肌の白い夏目の頃は、木が柔らかく簡単に傷が入ってしまい、良い磨き丸太は出来ません。木をすっかり乾燥させるために寒風に当てる他、皮をむくために大量の水を使うなど、冬場にはきつい作業ですが、寒さは絶対に欠かすことが出来ない条件です。 磨き丸太の中にはごくまれに、木の表面に絞り模様や凹凸模様が自然に現れるものがあります。これらは天然絞り丸太と呼ばれ、大変珍重されてきました。ところが、後にこれを模した人造の絞り丸太の製造法が考案され、現在その多くが宇陀で造られています。 磨き丸太、絞り丸太の製造は植林から伐採、加工まで長い年月と多くの手間が掛かります。山地に密植された杉やヒノキは丁寧に枝打ち・間伐され、製品に適したものが選別されます。吉野杉の場合、1本1本見極められ、製品となるのはおよそ5本に1本。樹齢50年未満のものが丸太として使用されます。これ以上では床柱には太すぎるためです。 絞り丸太にする木はあらかじめ決められており、立ち木の状態で加工されます。箸のような形をしたプラスチック製の型を木肌に数多く押し当て、針金できつく巻き付けるのが加工のやり方です。1~2年、この状態を保った後、針金を外すと、無数の型の跡が絞り模様になって現れます。立木のまましばらく置いて、型の跡が緩んだ後に伐採、皮をむき、磨けば人造絞り丸太の完成となります。 木肌を傷つけないよう、水圧で木の皮を剥きます 最近は床柱のある家が少なくなり、以前ほどの生産量はありませんが、用途は広がっています。洋室に使

吉野川の傍らに江戸の商家町の面影をとどめる五條新町 - 五條

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五條新町通り 地域の力で守る商家の町並み 日本有数の多雨地帯である大台ケ原から流れ出た吉野川は、五條を過ぎて和歌山県に入ると紀ノ川と名を変えて紀伊水道へ注ぎます。五條は吉野川の水運や、紀州街道、伊勢街道、西熊野街道など主要な街道が集まる交通の要衝で、物資の集散地や宿場として繁栄しました。 その名残をとどめるのが、五條新町通りの町並みです。江戸幕府の成立と共に大和五條藩主となった松倉重政は、既に町場が発達していた五條と二見の間に新町の町割を整備。城下町の振興策として年貢諸役を免除したために近隣から多くの商人が集まり、通りには商家が建ち並びました。吉野川と並行する約1kmの通りには、今も明治以前に建てられた商家が77軒残っています。漆喰を厚く塗り込めた全体に重厚な印象の建物です。 五條新町通りの町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されたのは2010年で、意外にも最近のこと。町並み保存の動きを本格化させたのは、1990年に新町通りの有志で発足した「新町塾」の活動でした。メンバーの一人、創業から300年続く山本本家酒造の山本陽一さんによれば、新町通りに並行して国道が出来て以降、通りを行く人も車も少なくなり、空き地や町並みにそぐわない洋風建築が増え出しました。 「このまま町並みが消えてしまうのかと一度は諦めかけたこともありますが、新町塾でいろいろ学ぶうち、重伝建の法律が出来た直後の国立奈良文化財研究所の調査報告に、新町通りの町並みは日本で一番と書かれていたことを知りました。これを何としても守らなければと議論を重ね、行動を起こしました」(山本さん) 新町塾は通りのにぎわいを再現して町並み保存の機運を盛り上げようと、93年に年に一度のフリーマーケット「かげろう座」をスタート。近隣から出店を集め、回を重ねるごとに人出は増えていきました。また、新町塾が中心になって路面を町並みに合う色に塗り替えるよう働き掛けたのを機に、五條市が保存整備事業に着手。これによって外観を昔の造りに修復する家が増えていきました。通りには、修復によって趣ある風情でよみがえった美容院や牛乳販売店、うどん屋などが点在しています。 かげろう座は5万人が集う催しに成長し、20年続いて終了。現在はNPO法人大和社中が町づくりの活動を受け継ぎ、年