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冷麺、じゃじゃ麺、わんこそば。麺都・盛岡で、三大麺を食べ尽くす - 盛岡

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麺好き市民に愛される三大麺 みちのく盛岡の名物料理と言えば、何と言っても麺料理。まず思い浮かぶのが、お椀に入ったそばを次々に食べるスタイルで知られる「わんこそば」。きしめんのような平打ち麺に肉味噌とキュウリ、紅ショウガをトッピングし、ラー油や酢、おろしショウガなどをかけて食べる「じゃじゃ麺」も、最近知名度を上げてきました。そして町の名を冠した「盛岡冷麺」。ジャガイモのデンプンと小麦粉で作る麺と、牛ベースのスープ、辛みの利いたキムチが調和した郷土が誇る味覚です。以上三つの麺料理は「盛岡三大麺」と称され、市内各所でこれらを看板メニューとする飲食店がひしめいています。 三大麺と呼ばれるようになったのはここ10年のこと。駅や市内の観光名所で三大麺のポスターやのぼりをよく見掛けるようになったことから、観光客向けのプロモーションのようにとられますが、必ずしもそうではありません。総務省統計局が実施した家計調査(2008年度調べ)でも、中華麺の消費量が全県庁所在地中で最も多かったのが盛岡市でした。独自の麺文化が根を下ろした背景には、麺料理をこよなく愛してきた盛岡の人々の気質があったのです。 苦肉のもてなし料理「わんこそば」 三大麺のうち最初にメジャーになったのはわんこそば。大勢でわいわい楽しく食べられるため、1970年代に全盛期を迎えた団体旅行にうってつけのメニューでした。 「一つの釜で茹でられるそばの量は限られています。これを団体客に出していては効率が悪い。そこで小分けにするスタイルが重宝されました」 とは、盛岡でわんこそばを提供する料理店初駒の明戸均さん。 かつて、米があまり取れなかった岩手県では何かめでたいことがあった時、小振りな椀に盛ったそばで訪れた人々をもてなしました。この時「おあげんせ(お上がりなさい)」と、何杯ものそばをお客さんに振る舞ったのが、わんこそばのルーツだと言われます。台所の釜がそれほど大きくなかった振る舞う側の事情が、そばを小分けにして大人数に振る舞いながら、次のそばを茹でるというスタイルを生み出しました。 ところで、一人でどのくらいの量を食べるものなのでしょう。 「観光客と地元の人で違います。観光客は女性で20~30杯、男性で40~50杯。それが地元の人だと女性で50~60杯、男性で70~80杯は食べます」(明戸さん) 話のタネに味わいたい観光客と違って

奇岩そびえる山水画の世界、進みゆくはこたつ舟 - 一関

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猊鼻渓舟下り こたつ舟で眺める冬景色 2014年1月、岩手県内の郵便局で県内の観光地を描いた絵はがきセットが発売されました。描かれていたのは、県内お薦め観光地の投票で選ばれた上位10カ所を題材にしたものです。一関市からは、市内東山町にある猊鼻渓が選ばれました。1位の陸前高田市の「奇跡の一本松」に次ぐ堂々の2位です。猊鼻渓の魅力は、高さ50mを超える岸壁が連続する渓谷美。市西部の磐井川沿いには名称がよく似た厳美渓という景勝地もありますが、渓谷を舟下りで鑑賞出来るのは猊鼻渓ならではです。 舟下りの舟は全て船頭らが手作りしたものです。杉の一枚板を貼り合わせて作った舟は、一番大きなもので15mもあり、70人が乗ることが出来ます。 全長2kmほどの行程を、途中徒歩を挟み90分かけて往復します。行きが上りで、帰りが下り。船頭が一本の棹を巧みに操ると、舟は川上に向かってゆっくりと進んでいきます。人力で川を往復するのは日本でもここだけなのだそうです。5月の藤の頃と10月の紅葉シーズンが繁忙期で、1時間に1本の定期便以外に臨時便が増発。ひっきりなしに川を往来します。人出でにぎわう時期もいいですが、シーンと静まり返った渓谷の中、水墨画のようなモノトーンの世界を進む冬景色もなかなかのものです。 12月から2月には、名物こたつ舟が運航。舟の中で食事をしながら景色を眺めることが出来ます。こたつ舟は、冬場の集客対策などを目的に約20年前に登場しました。以来、冬の一関には欠かせない観光スポットとなっています。花巻空港から定期チャーター便が就航したこともあって、台湾から訪れる人も多くいます。旧正月時期ともなると団体客がこのこたつ舟を楽しみに来日するそうです。 舟下りのクライマックスは、船頭が歌う「げいび追分」。そそりたつ岩肌に響き渡り、旅情が一層高まってきます。 石灰岩の東山地区 猊鼻渓が、奇岩連なる景観になったのは、北上川支流の砂鉄川によって長い年月をかけて石灰岩が浸食されてきたためです。猊鼻渓に限らず東山地域は、全体の約25%が石灰岩層という土地柄。だから石灰の採掘場が幾つもあります。JR陸中松川駅のすぐ北側にある旧東北砕石工場もその一つです。 旧東北砕石工場 幽玄洞 1924年に開業し、77年まで稼働

国産の伝統を守り、今新たな時代を迎えた漆の里 - 二戸

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漆搔き 漆の一滴は血の一滴 漆を採取する仕事を漆掻きと言います。樹齢15年から20年ほどのウルシの表皮に 搔 き傷(辺)を付け、そこから出る樹液を掻き取るのです。二戸市浄法寺町とその周辺地域では、国内では希少になった漆掻きの技が守られています。現在、日本国内で消費される漆の約98%は主に中国などの外国産で、国産漆はわずか2%。その国内産の約7割をこの地域で産出しています。 浄法寺で漆掻きが行われるのは6月から9月にかけて。漆 搔 きの作業はまず、ウルシの幹に小さな傷を付け、樹液の分泌を促すことから始まります。その後は4日おきに傷を付けては、にじみ出る漆をヘラで掻き採っていきます。これを「四日山」と呼び、同じ木を毎日 搔 くのではなく休ませることで、良質の漆をより多く採れるようになります。­ 職人は年ごとに400本ほどのウルシを山の所有者から買い取りますが、木の生えている場所は山のあちこちにあるので、日に100本、4日で全てを回れるように割り振って仕事を進めています。とはいえ雨の日には作業が出来ないので、良質の漆が採れる真夏に長雨が続いた年は収量が少なくなるそうです。 漆 搔 きの作業は9月末まで続き、漆を採り尽くして役目を終えた木は伐採されます。1本の木から採れる漆の量は約200g、わずかコップ1杯分です。 「傷を治そうとして出る漆は人で言えば血液のようなもの。『漆の一滴は血の一滴。一滴たりとも無駄にするな』と、塗りの修行中に師匠から教えられました」 そう話すのは、浄法寺塗の塗師小田島勇さん。浄法寺塗は奈良時代の開山と伝わる天台寺で使われた「御山御器」がルーツとされます。戦後の生活様式の変化で需要が減り一度は途絶えたものの、昭和50年代に地元の人たちの努力で再興。二戸市は平成7年に浄法寺塗の工房と販売所を併設した滴生舎を作り、漆の伝統をつないできました。 表皮に付けた傷から出る漆をヘラで掻き取ります 漆搔きの道具 現在、浄法寺の漆 搔 き職人は20人余りで、その多くが70代です。漆 搔 きの仕事を始めて61年、76歳(取材当時)になる工藤竹夫さんに作業を見せてもらいました。漆 搔 きで大事なのは傷の付け方だと工藤さんは言います。傷が深すぎると木が秋までもたず、採れる漆の量が少なくなるので