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護摩の炎に願かけて、新年めでたし成田お不動参り - 成田

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ガイドと歩く成田山散策 正式名称は成田山明王院神護新勝寺。真言宗智山派の大本山として知られ、不動明王を本尊としていることから、「成田のお不動さん」の名で親しまれています。正月には家内安全や交通安全を祈る護摩祈願のために多くの人が訪れ、その様子は毎年のようにニュースで放映されているのでご存じの方も多いでしょう。今回は関東地方有数の参詣客を集めるこの寺を、ボランティアガイドの説明を受けながら散策します。 成田ボランティアガイドの会の上川克巳さんとは、新勝寺の入り口にあたる総門の前で待ち合わせました。あいさつが済むと早速、お寺の説明が始まりました。 「新勝寺開山の契機は平将門の乱にまでさかのぼります。天慶3(940)年に朱雀天皇から乱を平定する密勅を受けた寛朝大僧正が、京都の神護寺にあった弘法大師手彫のお不動様をこの地に持って来ます。21日間と日数を定めて護摩の火を焚き願かけしたところ、ちょうど21日目に将門の首が落ちて乱は治まった。以後、この地に東国鎮護の霊場として成田山が開山されました。寺号は『新たな』敵である平将門に『勝った』ことに由来しています」 慣れた調子で話した後は、2007年に新築された真新しい総門をくぐり次なる仁王門へと移動しました。現存する仁王門は江戸末期に建てられた総ケヤキ造り。国の重要文化財に指定されており、同じケヤキ造りの総門と比べても施されている装飾は明らかに手が込んでいます。さぞかし由緒ある門に違いないとくぐろうとしたところ、ガイドの上川さんは門をくぐらず脇へ逸れました。上川さんが指さす仁王門の側面には、一本の角と蹄を持った想像上の動物、麒麟の彫刻がこちらを向いていました。 「麒麟は石や土を食べて生きると言われています。だから虫一匹草一本、生きとし生けるものは絶対に傷つけない。つまり平和のシンボルなのです」 日光の東照宮で使われだしてから、麒麟は関東一円の神社仏閣で多用されました。内乱の時代から平和な江戸の世が訪れ、もう二度と戦乱の世には戻りたくないという当時の人々の気持ちが込められているのだといいます。 成田山、参詣客の今昔 成田のお不動さんが隆盛を極めたのは江戸中期。要因はいくつかありますが、「成田屋」の屋号を名乗った歌舞伎役者、市川團十郎の影響力は計り知れないものがあります。初代團十郎の父が新勝寺のすぐそばの出身だったこともあり、成田山と

朝市と初鰹でにぎわう南房総の漁港の町 - 勝浦

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初鰹の水揚げ日本一の港 江戸中期の俳人山口素堂に「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句があります。木々の新緑がまぶしく輝き、山からほととぎすの鳴き声が聞こえ、食卓には新鮮な初鰹が上がる。春から夏にかけ、江戸っ子が好んだものを詠んだ句ですが、とりわけ初鰹は支持されました。もう少し待てば盛りになって値段も安定するのに、待つのはやぼとばかりに我先にと値の張る旬の走りを求めました。初物に手を出すのは、粋の証でした。 さて、その初鰹であるが、大きさは40~50cm、重さで2~3kg程度が一般的。エサとなるイワシを追いながら黒潮に乗って日本列島沿岸を北上、関東沖を通って三陸沖まで移動します。南から上ってくるので「上りガツオ」とも呼ばれます。九州や四国沖で北上を始めたばかりのカツオはさっぱりとした味わいが特徴ですが、関東沖に来る頃には小ぶりながらほどよく脂が乗ってきます。 黒潮が房総半島沖に達する4~6月、勝浦周辺の海はカツオの好漁場となります。漁を行うのは、宮崎、高知、三重、静岡から出航した漁船で、全部で70隻ほど。カツオ漁船の漁師は2、3月にそれぞれの地元を出港し、一本釣りで漁をしながらカツオの群れを追い続けるという生活を約10カ月間も続けます。釣った魚をなるべく鮮度の高いうちに水揚げするため、カツオ漁船は勝浦港に入ります。最も水揚げの多い5月には、1日に約20隻が入港し港は活気づきます。7月になるとカツオは更に北上を続け、カツオ漁船も後を追います。勝浦以北でカツオの水揚げ港といえば宮城県の気仙沼港のみ。三陸沖での漁期が長いこともあって、一本釣りのカツオの水揚げ量では気仙沼が一位ですが、4~6月に取れる初鰹に関して言えば、勝浦が文句なしの1位です。 水揚げのため勝浦港に入港するカツオ船 朝7時頃にカツオ漁船が入港するというので勝浦港へ向かいました。水揚げされていたのは1匹で10kg近くはある大物ばかり。これは黒潮に乗ってやって来るカツオではなく、小笠原など遠方の島々を周遊しているものだそうです。大物が揚がってさぞかしうれしいのではと思いきや、漁協関係者に話を聞くと苦笑いが返ってきました。3kgほどの初鰹なら良い時で1万円の値が付くといいます。初物好きの江戸っ子気質は今も健在で、やはり小ぶりな初鰹が待ち遠しいのです。

江戸の繁栄と舟運によって育まれたしょうゆの町 - 野田

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御用蔵の仕込室 江戸の食文化が生んだ濃口しょうゆ 江戸初期、しょうゆや酒などの生活物資は文化の中心を担っていた上方ものが上等とされ、「下り物」と呼ばれて廻船によって江戸へ運ばれていました。江戸が大消費地となり、独自の文化が花開くのと共に、関東のしょうゆ産地として発展したのが、千葉県の銚子と野田です。 野田での本格的なしょうゆ造りは銚子からやや遅れて始まります。1661年に 髙 梨兵左衛門家が醸造を開始。1766年には味噌醸造を行っていた茂木七左衞門家がしょうゆに転じ、両家一族を中心にしょうゆ醸造が盛んになっていきました。1824年には野田のしょうゆ醸造家は19軒を数えました。 その発展に大きく寄与したのが、江戸初期に行われた利根川東遷事業です。利根川の水を流して出来た江戸川は、東北や北関東の物資を江戸へ運ぶ大動脈となります。これにより、大量のしょうゆをその日のうちに江戸へ運ぶことが可能になり、また大豆や小麦など原料の調達も容易になりました。更に江戸中期以降になると、そばや寿司、天ぷら、うなぎの蒲焼きといった江戸特有の食文化が発達し、しょうゆは江戸庶民の調味料として定着。それまで造られていた溜まり醤油から上方では淡口しょうゆが生み出されたのに対して、関東では江戸の人々の好みに合わせて濃口しょうゆが造られるようになります。 明治に入ると、野田のしょうゆ醸造家たちは野田醤油醸造組合を結成。そして1917(大正6)年には、野田・流山の八家が合同で野田醤油株式会社を設立しました。この時に造られていたしょうゆの商標の数は200にも上っていたといいます。会社設立後、その中でも人気が高く、最上級のブランドとして江戸幕府に献上されていた「亀甲萬」に商標を統一。後にそれが社名に冠され、現在のキッコーマン株式会社となります。 御用蔵 現在、東武野田線野田市駅の目の前にキッコーマン食品野田工場があります。もともと東武野田線はしょうゆやその原料の輸送を目的に敷設された鉄道で、かつては工場内に出荷用の駅がありました。 巨大なサイロや近代的な設備が建ち並ぶ工場内の一角で、朱塗りの橋と城郭のような建物が異彩を放っています。「御用醤油醸造所(御用蔵)」は、宮内庁へ献上するしょうゆを造る専用の醸造所として1939(昭和14)年に江戸川沿いに