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鋼の切れ味に込めらているのは、鍛え、受け継がれてきた刀匠の技 - 越前

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鍛冶屋の醍醐味「鍛造」が、刃物の質を左右する 時は南北朝時代。京都の千代鶴国安という刀匠が、刀剣製作に適した地を求め、当時「府中」と呼ばれていた福井県越前市に腰を据え、刀を作る傍ら近郊の農民のために鎌を作りました。これが、越前打刃物がこの地に起こった経緯です。江戸時代には福井藩の保護政策によって株仲間が組織され、産業として発展します。 販路が全国へと拡大したのは、ひとえに在郷の漆かき職人によるところが大きいといいます。奥羽、関東、中部方面へと漆の採集に出かけて行った彼らが携えていた越前鎌が、訪れる場所で「よく切れる」と評判を呼んだのです。いつしか漆かき職人は鎌の行商を兼ねるようになっていきました。 明治時代には、鎌で約8割のシェアを占め全国一の生産量を誇るようになります。以来、日本古来の火づくり鍛造技術と手仕上げを守りながら、包丁や鎌、鉈、刈り込み鋏などを生産し、1979(昭和54)年には、業界では初めてとなる伝統的工芸品の指定を受けています。 その翌年に伝統工芸士に認定された藤下新次さんが、工場を見せてくれるというのでお邪魔しました。 ベルトハンマーがけたたましく鳴り響く藤下さんの仕事場は、市街地から離れた工業団地の中にありました。9軒の打刃物工場が軒を並べ、刺身包丁や鎌など、それぞれの工場で職人が得意とする打刃物を作っています。 藤下さんが作るのは菜切り包丁とそば切り包丁です。大量生産ではなく納得のいく1本を丁寧に作り上げる、そんな仕事を60年以上続けてきました。工場では、ベルトハンマーの前に腰掛けた藤下さんが、長さ100mmほどの鉄の固まりをたたいて伸ばしている最中でした。 越前打刃物には完成までに20以上の工程があります。まず最初は「鋼作り」や「地鉄作り」といった刃物の素材作り。鉄には炭素が含まれていますが、特に炭素を多く含むものを「鋼」と呼びます。鋼を鍛造して金属組織を強靭に変化させた後、含有炭素の少ない刃物用軟鉄「地鉄」を継ぎ合わせたものが刃物の元となります。刃物の種類によって継ぎ合わせる方法が異なりますが、菜切り包丁の場合は、鋼を中央に両側を地鉄で挟んだ形となります。 伝統工芸としての越前打刃物はこの工程が手作りでなければなりませんが、最近は製鉄技術が高度になって、あらかじめ地鉄と鋼が鍛接された複合材を使う機会も多いといいます。複合材を使用すれば、伝統

名水湧き出る奥越の山間に、城下町の面影を残す小京都 - 大野

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古い町割が残る、北陸の小京都 福井県東部、岐阜県との境にある大野市は、白山連峰に囲まれた大野盆地に開けた町です。市街地はかつての城下町の面影を残し、北陸の小京都として知られます。町を見下ろす標高250mの亀山に城を築いたのは、織田信長の武将であった金森長近。後に飛騨高山や上有知(現在の美濃市)を築いた都市計画に優れた才を持つ人物です。越前一向一揆の鎮圧で功を挙げた長近は、1575年に大野郡の3分の2(3万5000石)を拝領すると、すぐに城の建設に取りかかり、同時に亀山の東側で城下町の建設も開始しました。城のそばには武家屋敷を置き、京の街を模し、東西南北に6本ずつ通りを交差させ、碁盤の目というよりは1つの区画が縦に長い短冊状になるような町割りを行いました。東の端を南北に貫く寺町通りにはその名の通り、中世から近世にかけて建てられた九つの宗派の16の寺院が集められ、通りの両脇に軒を連ねています。町の外郭に意図的に配置された寺院は、防御壁の役割も担っていたといいます。 一方、町の中央部を東西に走る七間通りは、越前から美濃へ抜ける美濃街道にあたり、城下町の中心街として発展しました。創業150年以上の老舗が並ぶこの通りには、春分の日から大晦日の間、毎朝7時から市が立ちます。金森長近の時代から続く朝市で、近郊の農家が丹精込めて育てた野菜や取れたての山菜が並びます。市民の台所として毎朝開かれており、この日はナスにジャガイモ、ネギの苗といった野菜や山菜、切り花などが売られていました。たまに物珍しそうに売り物をのぞく観光客が混じりますが、客の多くは市民。それぞれに馴染みの店があって、二言三言会話を交わしながら買い物を楽しんでいました。 こんこんと湧き出す「清水」の町 扇状地の上に造られた大野の地下には、水を通さない岩盤が横たわっており、その上に周囲の山々が吸い込んだ水が地下をゆっくりと移動し溜まっていきます。そのため地下水位が上がると、町の随所で湧水が地表にあふれ出ます。湧水は清水と呼ばれ、長く町を潤してきました。 本願清水 金森長近もこれに目を付け、特に水量が豊富だった本願清水を整備し、生活用水として利用すべく水を市街地に引き入れました。この水は南北を貫く5本の通りの真ん中に設けられた水路を走り、町の人々に生活・防火用水として利用されました。今も寺町通りの脇に水路の名残がありますが、

越前竹人形の古里は、日本最古の天守閣を仰ぐ城下町 - 丸岡

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越前竹人形 日本最古の天守を持つ丸岡城 丸岡城が築かれたのは戦国時代の1576(天正4)年。織田信長が、一向一揆の備えとして、柴田勝家の甥勝豊に築造させました。標高17mの丘の上に建ち、現存天守閣では最古と言われています。 外から直接天守へ入るという独立式の城で、2重3階ですが通し柱はなく、1階の上に2階と3階が載っています。更に屋根には全国的にも珍しい石瓦が使われ、城郭建築史上貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されています。 勝豊の死後、城主が何人か変わった後、1613(慶長18)年、徳川家康に仕え勇猛果敢で剛毅な性格から「鬼作左」と呼ばれた本多重次の子成重が入城。日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、重次が妻に宛てた手紙で、文中の「お仙」はこの成重のこと。成重は3000石の旗本でしたが、越前福井藩主松平忠直が幼少であったことから、附家老として4万石を与えられ丸岡に入りました。 忠直が乱行を理由に流罪となり、その子光長が越後高田藩に移封されると、本多家はそのまま大名となって、4万6000石の丸岡藩が成立しました。丸岡城は本来、一国一城令で廃城となるところでしたが、これにより残り、天守を今に伝えることになります。 幕府が諸大名に命じて村の名と村高をまとめさせた統計「正保郷帳」によると、本多氏の所領は計75カ村で、その多くは丸岡を中心とした現在の坂井市に集中していました。それらの中には北陸道の関所近くなど、交通の要所となる村も含まれていました。また三国湊に隣接する滝谷村に設けられた出村(飛び地)には、藩倉も置かれました。 江戸時代の三国湊は「北前船」の寄港地として栄え、松ケ下、上新町、出村と三つの遊里もあって、多くの豪商や船主が足を運びました。三国の花柳界で歌われた「三国節」にも「三国出村の女郎の髪は船頭さんには錨綱」という一節があります。また長崎の丸山遊郭と同じように、「行こか戻ろか」の思案橋と、名残を惜しんで振り返った「見返り橋」もあります。 丸岡城 三国の遊女は「小女郎」と呼ばれ、廓の太夫と同格の芸教養と格式を持つとされていました。その中でも出色なのが、俳人として知られた出村の遊女哥川です。滝谷の永正寺住職に俳諧と書を学び、加賀千代女ら他国の俳人と