名水湧き出る奥越の山間に、城下町の面影を残す小京都 - 大野

古い町割が残る、北陸の小京都

福井県東部、岐阜県との境にある大野市は、白山連峰に囲まれた大野盆地に開けた町です。市街地はかつての城下町の面影を残し、北陸の小京都として知られます。町を見下ろす標高250mの亀山に城を築いたのは、織田信長の武将であった金森長近。後に飛騨高山や上有知(現在の美濃市)を築いた都市計画に優れた才を持つ人物です。越前一向一揆の鎮圧で功を挙げた長近は、1575年に大野郡の3分の2(3万5000石)を拝領すると、すぐに城の建設に取りかかり、同時に亀山の東側で城下町の建設も開始しました。城のそばには武家屋敷を置き、京の街を模し、東西南北に6本ずつ通りを交差させ、碁盤の目というよりは1つの区画が縦に長い短冊状になるような町割りを行いました。東の端を南北に貫く寺町通りにはその名の通り、中世から近世にかけて建てられた九つの宗派の16の寺院が集められ、通りの両脇に軒を連ねています。町の外郭に意図的に配置された寺院は、防御壁の役割も担っていたといいます。

一方、町の中央部を東西に走る七間通りは、越前から美濃へ抜ける美濃街道にあたり、城下町の中心街として発展しました。創業150年以上の老舗が並ぶこの通りには、春分の日から大晦日の間、毎朝7時から市が立ちます。金森長近の時代から続く朝市で、近郊の農家が丹精込めて育てた野菜や取れたての山菜が並びます。市民の台所として毎朝開かれており、この日はナスにジャガイモ、ネギの苗といった野菜や山菜、切り花などが売られていました。たまに物珍しそうに売り物をのぞく観光客が混じりますが、客の多くは市民。それぞれに馴染みの店があって、二言三言会話を交わしながら買い物を楽しんでいました。

こんこんと湧き出す「清水」の町

扇状地の上に造られた大野の地下には、水を通さない岩盤が横たわっており、その上に周囲の山々が吸い込んだ水が地下をゆっくりと移動し溜まっていきます。そのため地下水位が上がると、町の随所で湧水が地表にあふれ出ます。湧水は清水と呼ばれ、長く町を潤してきました。

本願清水
本願清水


金森長近もこれに目を付け、特に水量が豊富だった本願清水を整備し、生活用水として利用すべく水を市街地に引き入れました。この水は南北を貫く5本の通りの真ん中に設けられた水路を走り、町の人々に生活・防火用水として利用されました。今も寺町通りの脇に水路の名残がありますが、道路中央の水路はすべて埋められて見ることが出来ません。大野にはもう一つ、1985年に名水百選に選ばれた御清水という湧水があります。亀山の麓にあるこちらは殿様清水とも呼ばれ、主に城や武家屋敷の生活用水でした。こうした水場では、上流から順番に飲用水、野菜や果物を冷やす場所、野菜の泥を落とす場所と水の使い方がきっちりと決められていました。

御清水
御清水
家と家が背中合わせになるその間には、背割水路と呼ばれる排水路も設けられ、一部が今も現役で使われています。簡易型とはいえこの町には、400年前から上下水道が整備されていました。しかし、道路や水路の舗装化、生活水準の向上による水の大量使用が原因で、昭和40年代から急速に湧水は減少。町中にあふれる湧水を見る機会はほとんどなくなりました。それでもまだ7割の家庭が地下水をポンプで汲み上げて飲用水として利用しています。

「水がおいしいから飲んでみて」と地元の人に勧められたので、歴代藩主も飲んだ御清水の名水を柄杓ですくうと、少し下流で洗いものをする女性の姿が目に入りました。近くに住む方で、たまに利用しているそうですが、今ではここで洗い物をする人はほとんどいません。ほんのり甘い水の味を確かめながら、大野の原風景に出会えた偶然に感謝しました。

町を救った藩政改革

金森長近が町の創設者だとすれば、土井利忠は町を発展させた功労者でしょう。1811年江戸生まれ。8歳で土井家7代を継ぎ、19歳で藩主として大野に迎えられました。この当時、洪水や大火といった災害に加え、飢饉が続き大野藩はおよそ10万両もの借金を抱えていました。現在の金額で数億円にも上り、返済は不可能だと考えられていました。このような絶望的な状況にもかかわらず、果敢に財政改革に取り組んだのが藩主の土井利忠でした。

領民に倹約を勧める一方で、財政の立て直しには人材が大切だと考え、学問を奨励。藩校の明倫館を開設し、武士の子弟だけではなく一般家庭の子どもも受け入れ、ここで育った人材が後に大野藩の再建に貢献することになります。また、欧州の進んだ学問を学ばせる洋学館も開きました。厳しい財政ながらも高価な本を買いそろえたところ、全国から優秀な学生が集まりました。多額の借金を抱えながらも学問を奨励してきた利忠の人作りの心は、現在の大野市の教育理念「明倫」に受け継がれています。

藩政改革で大きな成果を上げたのが、利忠が登用した内山良休・良隆兄弟。すばらしいアイデアと行動力で改革に力を尽くしました。兄良休は、藩の地場産品を直営商店を通じて売り出すことを考案。1855年に大坂に大野屋を開業したのを皮切りに、江戸や箱館(現在の函館)など全国各地に37もの大野屋を開きました。今でいうチェーン店の先駆けですが、いずれも繁盛し藩の経営を助けました。弟良隆は、蝦夷地の開拓に挑みました。そのために藩は洋式帆船大野丸を建造。山間にある大野藩が船を持つことが出来たのは、越前海岸に飛び地の領地があったためです。大野丸は蝦夷地との間を何度も往復し、交易物資で利を得ながら、蝦夷地の更に奥にある樺太の開拓調査にも活躍しました。こうして少しずつ借金を返済しながら、土井利忠が果敢に挑んだ事業はいずれも成功。約20年ですべての借金を返済し、藩は大いに活気づきました。

寺町通り
寺町通り


焼きサバを食べる日

大野を取材したこの日、食欲をそそる香ばしい匂いと共に、年に一度のイベントが静かに行われていました。

大野には、夏至から数えて11日目に当たる半夏生の日にサバの丸焼きを食べる風習があります。江戸時代、田植えで疲れた領民に栄養を取らせようと、時の藩主がサバを食べさせたのが始まりです。山間に暮らす大野の人々にとって海でとれるサバは大変珍しいものでしたが、飛び地の領地越前海岸から塩サバにして持ち込まれ、年に一度だけありつけるご馳走でした。

焼きサバ


取材した年は7月2日が半夏生に当たり、市内の魚屋の店先には焼き台が設けられ、串に刺したサバがひっきりなしに焼かれていました。多い店では1日に1500本を焼き、売りさばくといいます。昔から一人で1本を食べるのが決まり。腹を割かずに1本丸ごと焼かれる半夏生サバは、お腹周りの肉が脂で蒸されてふっくら柔らか。この時期にサバを食べることで鋭気が養われ、毎日を元気で健康に過ごせていたからこそ、今なおこの習慣が続いているのでしょう。

2011年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)

写真説明

●本願清水:金森長近が住民の生活・防火用水として活用した湧き水
●御清水:城主の飯米をとぐのに用いられたことから、殿様清水とも呼ばれ、名水百選にも選ばれています
●寺町通り:中世から近世にかけて建てられた九つの宗派の寺院が並びます

七間朝市

●400年以上の伝統がある七間朝市。新鮮な野菜や山菜、花などが路上に並びます

●毎日の地下水位は市内14カ所にある看板に表示されます


●焼きサバ

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