古き良き情緒あふれる石段のある温泉街 - 渋川
湯の町伊香保、誕生譚
群馬県のほぼ中央、標高700mの榛名山の中腹で湯煙を上げる伊香保温泉は、草津温泉と共に県を代表する、いや日本が誇る名湯です。
開湯は第11代垂仁天皇の御代、すなわち紀元前後という神話めいた言い伝えもありますが、6世紀末から7世紀の初めにかけて、榛名山の東にそびえる二ツ岳の二度にわたる噴火で湯の湧出が始まったと考えられています。当時、都のあった奈良からは、はるか遠方の地ですが、8世紀後半には伊香保の名は都人の知るところとなります。
と言うのも、『万葉集』に伊香保の名が登場するのです。全4516首中、東国14カ国を舞台とした東歌は230首収録されていますが、中でも上野の国(現在の群馬県)を詠んだ歌が他国を上回る25首、うち伊香保を詠んだものが9首もあります。現在の伊香保より広い範囲を指す地名であったようですが、この地が都人の旅情をかき立てたことは間違いありません。ただし9首の中に伊香保が温泉であったという記述はなく、歴史に伊香保温泉が登場するのは南北朝時代(1300年代)になってからのことです。
ところでこの伊香保という地名ですが、「湯がたぎる」状態をアイヌ語で「イカホップ」と言いますが、どうやらこれが語源であるようです。
日本の多くの温泉街が川沿いに形成されているのに対し、伊香保は石段に沿っているのが大きな特徴です。伊香保温泉のシンボルとも言えるこの長い石段が出来たのは戦国時代。1575年の長篠の戦いで織田信長に敗れた武田勝頼が、支配地であった伊香保に負傷兵を連れて来たことに始まります。
この頃、浴場や旅籠は山中の源泉近くにありましたが、武田軍はより多くの負傷兵を収容するために、今の石段のある辺りに湯宿を移転させ、療養場所として整備しました。これが現在の石段街の原型となっています。
勝頼は、長篠の戦いで鉄砲の威力を目の当たりにしたこともあって、石段建設の際、攻められても玉が届かないよう石段を真っすぐにせず、あえて見通しが悪くなるように作らせました。鉄砲の威力が最大限に発揮された長篠の戦いは、これまでの戦を変えた戦いとして知られますが、こと伊香保に関しては街の景観を決定付けた戦でした。
伊香保温泉のメーンストリート石段街 |
石段街と黄金の湯
両側に土産店や飲食店などが軒を連ねる現在の石段は、温泉街のメーンストリート。いちばん下からてっぺんの伊香保神社まで約80m続く石段は公表365段ですが、実際はもっと多くの段があります。将来は石段に日付を入れて、記念日石段にしようという計画もあるようで、誕生日や結婚記念日が刻まれた石段の上で記念写真、という光景が見られる日も近いかもしれません。
石段には所々、地面にガラス窓が付いていて、中をのぞけるようになっています。ガラスに顔を近づけると、木製の樋に勢いよく湯が流れるのが見えました。これは、石段の下に埋めた湯樋に山上の源泉を引き込み、石段にある湯宿に分湯する伊香保独特のシステムです。江戸初期に考案されたこの仕組みをガラス越しに見られるようになっています。
本流の湯樋から湯を振り分ける取り口「小間口」が設けられており、そこへ一定の決められた量の湯が流れ込み、旅館まで引かれています。この小間口を所有出来るのは、湯を使う権利のある14軒の「大家」と呼ばれる人たち。それ以外の湯宿はいずれかの大家から湯を分けてもらうことになります。
もともと武田氏の配下であった大家らは、広大な土地だけではなく引湯権の特権が与えられ、独占的に温泉経営を行うことが認められていました。やがて大家のもとにはそれぞれ「門屋」と呼ばれる大工や畳屋といった人々、店舗を営む「店借」らが集いました。いつしか、石段に沿って店借の店舗が並び、その奥に門屋、更に奥には温泉宿を兼ねた大家の屋敷が建てられ、伊香保の温泉街が形成されていきました。小間口制度は現在も継続しており、小間口を所有する9軒の旅館が源泉を守るべく組合を形成、厳しい適正使用を定めています。
源泉は、茶褐色をしていることから、長く「黄金の湯」の名で親しまれてきました。湧出時には無色透明ですが、空気中の酸素に触れると湯に含まれる鉄分が酸化し茶褐色に変わります。しかも、白い手ぬぐいがうっすら染まるほどの濃い茶褐色です。
今とは違って旅行に出かける機会が少なかった江戸時代、旅行先として格が高かった伊香保を訪れた証拠として、茶色に染まった白手ぬぐいを持ち帰ることが一種のステータスだった、というエピソードも耳にしました。黄金の湯を求めて訪れる客の多くは湯治目的の長期滞在者でした。刺激の少ないやわらかい湯は身体を芯から温めて血行を促すため、特に女性には「子宝の湯」として喜ばれました。
石段中央に埋められた湯樋 |
明治に入ると、夏目漱石や徳富蘆花、竹久夢二といった文人、政府高官や実業家、外国人らが、夏は避暑地として、冬は温泉で温まりに伊香保を訪れました。当時は御用邸もあったため、幼少期の昭和天皇を始め、皇族方も数多く滞在しました。
そんなわけで、ますます有名になった伊香保温泉は歓楽地として大いに栄え、現在に至っています。最近では、1996年に新たに無色透明のメタけい酸単純泉、いわゆる「白銀の湯」が掘られ、現在は黄金と白銀、タイプの違う二つの湯を楽しめるようになりました。
水沢うどん |
二大名物をご賞味あれ
伊香保温泉を訪れたなら、ぜひとも押さえておきたいのが、湯の花まんじゅうと水沢うどんです。
湯の花まんじゅうは伊香保を代表する土産で、温泉まんじゅうの元祖とも言われています。今でこそ茶色のまんじゅうは珍しくはありませんが、黄金の湯の色に似せるため、薄皮には黒糖が使われています。
水澤寺(水沢観音)の参道に沿って軒を並べる13のうどん店で提供されるのが水沢うどんです。もともとは伊香保温泉の客や水沢観音の参拝者にふるまう目的で作られました。
爆発的に知名度が上がったのは新聞社が企画したうどん談義でした。大平正芳元首相が出身地の讃岐うどんを自慢した際、やはり元首相の福田赳夫氏が地元の水沢うどんで対抗しました。これがきっかけで、水沢うどんは全国にその名を知られるようになります。やや細めの麺で、ゆでた時に透明感があるのが水沢うどん最大の特徴。もちもち感のあるコシの強さと、つるんと喉を通る滑らかさが際立ちます。地元では冷やしてざるうどんにして食べるのが定番です。
2012年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)
写真説明
●石段中央に埋められた湯樋:湯元から湧き出た温泉は、ここを通って分湯され、湯を使う権利のある旅館に配湯されます
●水沢うどん:稲庭、讃岐と共に三大うどんに数えられています。水澤寺の門前で参拝客に振る舞われたうどんがルーツです
●石段の中腹には、伊香保伝統の「黄金の湯」かけ流しの足湯がありました
●源泉湧出口の近くにある飲泉所。明治期にドイツ人医師ベルツ博士が推奨した飲泉療法の名残です
●創建は推古天皇の時代と伝えられる水澤寺。一般には水澤観音の名で親しまれています
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