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時間が作り上げた地上の奇跡、地下の神秘。カルスト台地を巡る3億年の旅 - 美祢

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カルスト台地、秋吉台の正体 「草原で、のどかに遊ぶ羊の群れ」か、それとも「荒野に立ち並ぶ無数の墓標」か。ここは日本最大のカルスト台地・秋吉台です。カルスト台地とは、雨水によって石灰岩が少しずつ浸食されて出来た台地のこと。羊や墓に例えられる石灰岩柱の凹凸は、長い年月をかけて雨水が作り出したものというから驚きです。驚きついでに言えば、秋吉台がある場所はもともとサンゴ礁でした。今でこそ海抜250mの山の中だが、3億5000万年から2億2000万年前頃まではアジア大陸に面した海の底でした。もちろん日本列島はまだありません。サンゴを始め、そこにすんでいた殻を持つ生物の死骸が大量に積み重なり、長い時間をかけて固まったものが一つの大きな石灰岩となりました。これが秋吉台の正体です。秋吉科学博物館の藤川将之学芸員は、秋吉台の生い立ちについて次のように説明します。 「海底火山の噴火により、海面近くに頂を持つ丘が誕生しました。丘の浅瀬には生物がすみ着き、次第にサンゴ礁が発達します。長い年月をかけてプレートが移動するのに伴い、サンゴ礁の浅瀬が海中に沈むと、その上に更に新しいサンゴがすみ着くということを繰り返し、巨大な塊が出来ていったのだと推測されています」 現在、秋吉台の石灰岩は約130平方kmにわたる広い範囲に分布し、その厚さは770m以上あると言われています。 時と雨水が作り上げた奇跡 美祢が誇る名所をもう一つ。秋吉台の地下100m、その南麓に大きく口を開ける秋芳洞は、東洋屈指の大鍾乳洞。大正15年に、皇太子であった昭和天皇がここを訪れ「秋芳洞」と命名しました。今から650年前に発見されましたが、秋吉台の周辺には確認されているだけで440の洞窟があり、まだ知られていないものも多数あるといいます。 これらの洞窟は、やはり石灰岩の浸食作用によって形成されました。岩の割れ目から雨水が地下にしみ込み、石灰岩の隙間に狭い地下水路が作られます。流れる水は周囲の石灰岩を溶かしながら水路径を広げ、次第に洞窟となっていきます。その後、洞窟の天井や壁面が石灰岩の溶食によって出来る洞窟生成物で装飾されるようになったものを一般に鍾乳洞と呼びます。洞窟生成物の主なものと言えば、天井からつららのように下がる鍾乳石と、鍾乳石に対して下から盛り上がるように出来た石筍が有名です。鍾乳石と石筍は上下相対するように伸びてい

月待ちがにと、彫刻に彩られた街 - 宇部

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月待ちがに 満月の度に育つカニ 宇部沖で漁獲されるワタリガニを、宇部市では「月待ちがに」と呼んでいます。満月の度に脱皮して大きくなることから、1997年に宇部観光コンベンション協会が命名して以来、知る人ぞ知る宇部名物となっています。波が静かで比較的水温が高い場所を好むワタリガニにとって、瀬戸内海はどこもが棲みよい環境。そんな中でも、宇部近海は特に漁が盛んです。漁業者が多いこともありますが、1年を通してワタリガニの水揚げがあります。 最も多く捕れるのが春先。卵を産むために沿岸部に寄ってきたのをカニカゴで捕獲します。時期によっては刺し網漁も行われますが、寒くなってくるとカゴにも網にも入らなくなります。ワタリガニは秋から冬に入ると海底の砂の中に潜ってしまい、動きがにぶくなる習性があります。だから冬期はマンガン漁と呼ばれる桁網漁が主流となります。クワのような漁具で底の砂ごと掘り起こして、クワの後ろに付いている網で獲物を捕獲する底引き漁の一種です。他地域ではあまり見掛けることのない宇部独特のワタリガニ漁です。 浅瀬は禁漁区となっているため、主な漁場は港から1時間近く沖に出た海域。漁が出来るのが7時から17時と決まっているので、多くの船が早めに漁場に着いて待機します。時間になると、例のクワを海底に下ろして船を40分ほど移動させ、網を揚げること8~9回。ヒトデや貝に混じって月待ちがにが姿を現します。 マンガン漁が行われる冬、ワタリガニはちょうど旬を迎え、1年の中で最もおいしく頂くことが出来ます。身の甘さと味の濃さもさることながら、甲羅の裏には鮮やかなオレンジ色の内子と濃厚なカニみそがびっしり詰まっているため、この時期を心待ちにしている地元ファンも多くいます。水揚げされたワタリガニは、一部が宇部で消費される他は他県へ流通します。事前に予約をすれば市内の料理店でも「月待ちがに」にありつくことが出来るので、機会があれば、ぜひとも味わってもらいたいものです。 ツアーで体感する宇部 瀬戸内工業地帯の一角をなす宇部市の今日の発展は、1897年に海底炭田が開鉱されたことに始まります。海底を掘り進んで石炭を採取した後、掘り上げた土で臨海部を埋め立てて用地を造成し、現在の工業地帯が築かれました。その中心的な役割を果たしたのが、今も本社機能の一部