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カレーライスの脇役が、ここでは主役。鳥取が誇る「砂丘の宝石」を訪ねて - 鳥取

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砂丘地という特異な環境が生み出した地場作物 総務省が都道府県庁所在地を対象に行った家計調査によると、取材時点で3年平均のカレールウ購入数量と消費金額が最も多かったのが鳥取市でした。この話を聞いて思い当たったのが、ラッキョウです。二十世紀梨と共に鳥取を代表する特産品です。 ラッキョウが福神漬けと並んでカレーの付け合わせとして人気が高いのは周知の事実。「うまいラッキョウがあるからカレーもすすむのだろう」。そう考えるのも無理はないと思うのですが、結果、それは的外れだったようです。真偽のほどは定かではありませんが、女性の就業率が高い鳥取市では共働きが多く、作り置きが出来るカレーが重宝されているのだそうです。 東西16km、南北2kmに及ぶ鳥取砂丘の東部にある福部町は、日本全国にその名を轟かせる「砂丘ラッキョウ」の一大生産地です。年間の出荷量は1400トン。東京ドーム26個分に相当する125ヘクタールの砂丘地で、約300軒の生産者によって作られる砂丘ラッキョウは、パリッとした歯切れの良さとみずみずしさが特長です。水分を多く含むのは、水を溜め込まない砂地で育てられるためです。また、土ではなく鳥取砂丘の細かな砂粒で栽培されるので、粒の白さが際立っています。土で栽培されたラッキョウはこれほど白くはならないそうです。 歴史は古く、江戸時代に小石川薬園(東京)から持ち帰ったラッキョウが広がったという説が有力です。その後、農家の庭先で自家用として栽培され続けてきましたが、本格的な大規模栽培が始まったのは1953(昭和28)年にスプリンクラー灌水が導入されてからのことです。古くから砂丘の農業利用について研究を行ってきた鳥取大学乾燥地研究センターの上山逸彦さんは、「砂地の特性を理解して灌水のコントロールさえうまく行えば、砂丘地での作物栽培は比較的容易」と話します。 ラッキョウはほとんど水いらずで育つ作物ですが、植え付けの時には多くの水を必要とします。 「スプリンクラーなどの灌水施設がない時代は、農家(主に女性)が桶に水を汲んで灌水しました」(上山さん)。桶の底には穴が空いており、その穴を栓で塞いで畑まで運び、畑では栓を抜いて、水が1カ所にたまらないよう走ったといいます。しかも、夏には地表面温度が50度以上にもなる灼熱の砂地をです。あまりの苛酷さから、後にこの桶には「嫁殺し」という名が付けられ

活気に満ちた岸壁を紅一色に染め上げる深海の美味 - 境港

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水揚げ量日本一、境港の赤い華 寒さが増す晩秋から冬にかけて、日本屈指の漁獲量を誇る境港は日に日に活気が増していきます。主役は山陰を代表する味覚のカニ。 11月初旬には「カニの王様」の呼び声が高い松葉ガニ漁が解禁となるのです。この時期、待ちに待ったとばかりに上品で繊細な松葉ガニの味を求めて境港を訪れる人が後を絶ちません。最近ではインターネットでも簡単に購入出来るようになり、ブランドガニとしてその名は一気に全国に広まりました。 そんな松葉ガニの陰に隠れて知名度はさほど高くはありませんが、境港にはもう一つ誇るべきカニがいます。ベニズワイガニ、通称ベニガニです。 その名の通り、表も裏も鮮やかな紅色をしたカニです。日本海全域と東北地方の太平洋岸から犬吠埼(千葉県)の沖合にかけて分布する日本固有種で、国内の67%が境港で水揚げされ、その量は日本一です。多くは棒肉やフレークなど加工用として流通し、ちらし寿司やカニグラタン、カニクリームコロッケなどの原料に利用されます。 ベニガニの見た目が、ゆでて赤く色づいた松葉ガニとそっくりなのは、近縁種であるため。とは言っても生きている松葉ガニの甲羅は茶褐色で、裏側は生でもゆでても白いことから、見た目の区別は容易です。ちなみに福井の越前ガニ、京都の間人ガニ、そして松葉ガニは名前こそ違いますが、実はみな同じズワイガニです。 棲息する場所は松葉ガニとベニガニでは全く異なります。松葉ガニが暖流と寒流が交わる隠岐島周辺の水深200~400mの海域に棲息するのに対し、ベニガニは800~1200mの深海、主な漁場は領有権をめぐって緊張状態が続く竹島周辺や、日本海のほぼ中央です。いちばん遠い漁場は港から36時間もかかります。 江戸時代から漁が行われていた松葉ガニと違い、ベニガニ漁の歴史は浅く、ほんの最近のこと。乱獲で減少の著しい松葉ガニに代わる資源として漁獲されるようになってからまだ40年ほどしか経っていません。松葉ガニを取っていたこの辺の漁師は、更に深い所に違う種類のカニがいることは知っていましたが、長らく漁法が分かりませんでした。同じ日本海に面し、眼前に日本三大深湾の一つに数えられる湾を抱える富山では、ベニガニの漁法が早くに確立されており、ここの漁師を呼び寄せたことから境港のベニガニ漁が始まったと言われています。 カニかごを作る工場 資源保護に配慮した漁

暮らしやすさ日本一。進取の気性に富む山陰の商都 - 米子

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旧加茂川沿いの白壁土蔵群 大山山麓の町に根付く地蔵信仰 米子市は市内のどこからでも、中国地方の最高峰・大山を望むことが出来ます。米子から見る大山は、なだらかで富士山のような美しい姿を見せることから「伯耆富士」とも呼ばれますが、米子の人たちは親しみを込めて「大山さん」と呼びます。 大山は奈良時代の718(養老2)年に、山岳信仰の山として開かれました。伝説では、猟師が誤って地蔵菩薩を弓で射止めてしまい、その罪を悔いて出家し、地蔵菩薩を祭ったのが始まりとされます。そしてこれが、日本の地蔵信仰のルーツとも言われています。 それから1300年が経った2016年、大山山麓の米子・大山・伯耆・江府の1市3町が「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市」の物語で、日本遺産に認定されました。 平安時代、山腹で牛馬の放牧を奨励していた大山寺は、地蔵菩薩は生きとし生けるもの全てを救う仏様だとして、牛馬安全を祈願する守り札を配りました。人々は牛馬を連れて大山寺にお参りし、時には参拝者同士で牛比べや馬比べを行いました。やがてそれが、牛馬の交換や売買、更には牛馬市へと発展。江戸時代には日本最大の牛馬市として隆盛を極めました。 また、大山寺に祭られる地蔵菩薩は、山頂の池から現れたとされ、水と地蔵菩薩が結びついた大山特有の信仰も生まれました。その信仰の広がりを現すのが、日本遺産構成文化財の一つ「旧加茂川の地蔵」です。 加茂川は、昔から大雨が降ると増水し、子どもたちが、しばしば水害の犠牲になりました。それを哀れんだ大坂の宮大工・彦祖伊兵衛が、江戸時代の安永年間(1773~81)に、川で命を落とした子どもたちの供養のために地蔵を造り、橋のたもとなど36カ所に奉納しました。彦祖は出雲の日御碕神社造営に携わった帰途、子どもが出来たため、米子に永住して大工頭を務めることになったといいます。 旧加茂川沿いには海運業で栄えた頃の蔵が点在します その後、大山の影響もあり、米子の地蔵信仰はますます盛んになり、現在では70体を超える地蔵群が、旧加茂川沿いを中心とした市街地に見られます。町の中心部にこれだけ多くの地蔵が集中している都市は全国的にも珍しく、米子は大きな災害や戦災がなく、400年前の町割りがほぼそのまま残るためと言われています。