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12月, 2021の投稿を表示しています

もち米から生まれる甘い露は、料理に奥行き与える名脇役 - 碧南

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それは甘くて高貴なお酒であった グラスに注がれた琥珀色の液体。ウイスキーにも見えますが、実はこれ、キッチンでおなじみのみりんです。調味料のイメージが強いため、グラスより大さじ小さじが似合いそうですが、みりんにはお酒として親しまれてきた歴史があります。 かつては密淋酒とか美醂酒と呼ばれ、宮中などごく限られた人たちの間で甘い口当たりの高級酒として珍重されてきました。アルコール度数は14%程度と清酒並み。正月に飲まれる甘い薬酒「お屠蘇」はその名残で、みりんがベースに使われています。 「みりんを舐めたが、全然酒じゃない」 そんな声も聞こえてきそうですが、しばらくは「みりん=お酒の一種」という前提でお付き合いください。 みりんの原料は、もち米と米こうじです。これに焼酎を混ぜる点を除けば、清酒造りによく似ています。西三河一帯は醸造に適した水に加え、矢作川流域で豊富に収穫される米、麦、大豆などの原材料、更に醸造品を船で出荷する港にも恵まれていたため、200年以上も前から清酒や味噌などの醸造業が盛んでした。特に江戸市中で消費される酒の産地として、数多くの酒造業者が集まりました。三河のみりんは、酒蔵と深いかかわりを持ちながら、この地で独自の発展をしていきます。 「三河の酒は、原材料の水が柔らかいため発酵が盛んになり、辛口になりやすい。戦前までの造石税(出荷時ではなく、酒が出来た時点で課税された)の時代には、この辛い酒に甘さを加えるためにみりんが使われました」 西三河の碧南で明治43年以来、伝統的なみりんの製法を貫く角谷文治郎商店の角谷利夫社長は三河みりんの特徴をこう説明します。他の地域では、清酒を作るかたわらみりんが造られましたが、三河では焼酎造りの原料としてよく使われた酒粕が容易に入手出来たことから、みりん業者の多くが酒蔵から独立。今日もほとんどが専業でみりんを造っており、西三河は業者数も全国で最も多いみりんの銘醸地となっています。 仕込みは花の咲く季節 寒仕込みの清酒と違い、みりんの仕込みは花の季節。梅や桜が咲く春と、菊の薫る秋です。角谷文治郎商店でも、春の仕込みの真っ最中でした。 仕込みは、主原料である蒸したもち米と2日がかりで造った米こうじに、自前で醸したアルコール度数40%を超える焼酎を混ぜ合わせます。そのせいか醸造所内には、微かに焼酎の香りが広がっていました。 「昔は酒粕

和竿にも、鞠にも感じる庄内、藩政時代の面影 - 鶴岡

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刀を竿に持ち替えて 倹約、学問、産業、田畑の開墾。江戸時代、諸藩は実にさまざまな奨励政策を採っていますが、庄内藩が採った策は他に類がありません。文献によると文政10(1827)年に10代藩主、酒井忠器が奨励したのは磯釣り。長く平和が続いたことで武士道が廃れつつあることを憂い、行軍のための足腰の鍛練にもなるという理由で、釣りに出掛けるよう藩士に促しました。 酒井氏の居城である鶴ケ岡城(現在の鶴岡市)から最も近い海岸でも3里(約12km)は離れています。山道が続くこの行程を藩士は竿を担いで歩くのです。とは言っても、今とは違ってそれほど娯楽のない時代。まず間違いなく磯釣りは藩士らの血を騒がせたはずです。まだ見ぬ獲物を思い描いてはほくそ笑む者、先に釣り場所を取られないように夜中のうちに城下町を後にする者も少なくなかったでしょう。 しかし、藩主の勧める磯釣りは体力と胆力の鍛錬の場、娯楽ではありません。それゆえ、釣りに行って自分の不注意で海に落ち、ケガをすると減給されるなど、厳しい処分を受けることもありました。それでも釣り人気は衰えず、後に武士だけではなく庶民にまで広がり、ますます盛んになりました。 磯釣りの話を鶴岡の人にたずねていると、「歩いて釣りに行く」という行為が、意外にもごく最近まで続いていたことを知り驚きました。 「私が子どもの頃はまだ学校で釣り遠足というのがありました。お彼岸が過ぎた頃、各自竿を持って釣り場まで歩くんですよ」と思い出話に目を細めるのは、トキワ釣具店の常盤敬一さん。庄内地方独特の和竿「庄内竿」を作る竿師です。 江戸時代には庄内竿を作る名人が多くいて、こうした名人に習って釣り人自らが竿をこしらえました。出来の善し悪しに一喜一憂しては、名刀を誇りにしたように名竿を自慢し合ったといいます。常盤さんが子どもの頃でもまだ多くの竿師がおり、鶴岡市内の釣具店ならどこでも庄内竿を作って販売していました。しかしそんな竿師も現在は、常盤さんを含め数人となってしまいました。 竿になるのは1000本に1本 漆をかけずに木地を生かした美しさが印象的な庄内竿は、根元から穂先まで1本の竹で作られた和竿です。徒歩で釣りに行った時代には継ぎ目がない延べ竿でしたが、列車に揺られて出掛ける時代になってからは、持ち運びに便利なように2〜3本に分解出来る継ぎ竿が主流となっています。 材料はこの

「梅のチカラ」を実感出来る南高梅発祥の地・みなべ町を行く - みなべ

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「南高梅」が誕生した地 和歌山県みなべ町は、日本有数の梅の産地です。「1目100万本、香り10里」と形容されるように、梅の花の時期ともなると、町は紅白に染まり、辺りは甘い香りに包まれます。その情景は『万葉集』にも詠まれており、古くからこの地に梅が自生していたことを知ることが出来ます。 梅の栽培が盛んになったのは、江戸時代初期。紀州田辺藩が、耕地に恵まれない農民に梅の栽培を奨励したのが始まりです。やがて江戸に梅干しブームが訪れると、紀州産の梅干しが一躍注目を浴びるようになります。 明治時代には管理栽培が始まり、梅を畑で育て、梅干しに加工するまで、一貫した生産が行われるようになりました。が、当時は梅の品種が多岐にわたっていたため、同じ紀州の梅干しでも味や大きさにばらつきが生じていました。 昭和25年に梅の優良品種を統一して市場の安定を図るために、この地に適した梅を探し出すことになり、選定委員会が設けられました。委員長であった南部高校の竹中勝太郎教諭が中心となって、5年間にわたって地元に生えている梅を調査。114あった品種の中から7品種を選び出しました。 中でもよく実が付き耐病性にも優れ、この地の風土に最も適した最優良品種と評価されたのが、高田梅でした。そして、選定者の一人である小山貞一氏と共に調査研究に深くかかわった、竹中教諭と南部高校園芸科の学生たちの努力に敬意を表し、高校の名にちなんで「南高梅」と命名されました。その後、樹の選定者である小山氏の一方ならぬ尽力により、この地が日本一の梅の産地へと導かれることになったのです。 大粒で肉厚なことから、梅干し用途の品種としては最高峰に位置付けられているのはご承知の通り。南高梅は、みなべ町で栽培される梅の7割以上を占めるだけではなく、平成16年調べでは全国で6万700トンの生産量のうち87%が和歌山県産、みなべ町に限っても全国の40%を占めるというから圧倒的な生産量です。 酸っぱ辛い梅干しが、ダイヤに変わる 6月から7月にかけて南高梅は収穫期を迎えます。みなべ町の梅農家が1年で最も忙しいのがこの時期。早朝から一家総出の作業となります。収穫は、枝から青梅をもぎ取るのではなく、梅林の下に張り巡らせたネットの上に落ちる完熟した実を拾い集めます。集められた実は、すぐに洗浄して漬け込みタンクで塩漬けされます。収穫はスピードが命で、柔らか

仔馬はここで競走馬となる。サラブレッドのふるさと日高 - 新ひだか

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「競走馬のふるさと」と呼ばれる理由 千歳空港方面からえりも岬に向かって車を走らせると、国道沿いに牧場が並ぶ景色が目立ち始めます。緑の絨毯の上には、のんびりと過ごす馬の親子。首をもたげて草を食む一家があれば、駆けっこをしてじゃれ合う家族もいます。人間の世界に例えると、さしずめ休日の公園といったところでしょうか。 遠目には牧歌的に映る風景ですが、馬との距離を狭めると印象は違ってきます。たくましい筋肉質の胴体からスラリと伸びる長く美しい脚は躍動感にあふれており、間近で馬の息づかいを感じてみると、ここが競走馬のふるさとであることを改めて実感します。 日本の競走馬の8割がここ日高地方で生まれ育ちます。北海道でも比較的積雪の少ない環境が、馬の生育に適しているといいます。『静内町史』(現、新ひだか町)にも、「明治の初期には野生の馬が群れをなして山野を横行し、農作物に大きな被害を与えていた」という記述があり、一帯は昔から馬には住み良い場所であったに違いありません。 計画的な馬の生産地としてこの地に注目したのは、明治時代に北海道開拓長官を務めた黒田清隆です。明治5年に黒田長官によって区画された大規模な牧場は、後に宮内庁管轄の御料牧場として宮内御料馬や軍馬の拠出を担うことになります。その後次第に軍馬の需要がなくなると、御料牧場は競争馬の育成牧場に転用されていきました。 昭和29年に中央競馬会が設立され、次いで日本軽種馬協会が発足すると、サラブレッド種の育成牧場としての土壌が既にあった日高地方が、生産地として注目されるようになりました。ちなみに軽種馬とは、乗用もしくは乗用の馬車を引くために改良された品種で、サラブレッド種やアングロアラブ種がこれに当たります。 昭和60年代に競馬ブームが興り、競馬産業が大きく拡大すると、それに呼応するかのように、町も活気づいていきました。この時既に新ひだか町における競争馬の生産は、町いちばんの基幹産業になっていました。 レースに備え、英気を養う 競走馬の牧場は、大きく2種類に分けられます。一つは繁殖用の牝馬を保有して仔馬を生産・販売する生産牧場。周囲の景色に溶け込んでのんびり草を食む親子馬がいる牧場は生産牧場と見て間違いありません。もう一つが、馬の調教を目的とする育成牧場です。 新ひだか町は生産牧場が中心ですが、生産を兼ねた牧場を合わせると育成牧場も全体の

アマテラスに、ニニギノミコト。神代の息吹を感じる高千穂紀行 - 高千穂

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神話と渓谷の里を行く 周囲を高い山々に囲まれた高千穂町は、九州の中央部を貫く九州山地の中にあります。人口約1万4000人ですが「山の中にこんなに立派な町があるとは思わなかった」と高千穂を訪れた人は驚くといいます。小さいながらも宮崎県の北西部に位置する西臼杵郡の中心地です。 大きな弧を描くように街中を流れる五ケ瀬川の渓谷は、山の斜面に並ぶ棚田と相まって美しい景観を見せています。実にのどかな風景ですが、生い立ちをたどると、阿蘇山系の溶岩が流れ出し、この地の谷を埋め尽くして出来た地形です。溶岩は数億年もの間、川に浸食されて深いV字型の峡谷を形成しました。両岸には、柱を並べたような岩が連続する「柱状節理」と呼ばれる断崖絶壁が東西に約7km続きます。最も深いところで水面まで100mという険しい切り込みに圧倒されますが、中でも「真名井の滝」の景観は美しさで群を抜きます。高さ17m。放物線を描きながら落ちる水の流れは上からの眺めもすばらしいですが、ひんやりとした渓谷の中を手漕ぎボートで進み、滝しぶきを浴びながら川面から眺める景色も格別です。 ここ高千穂は古来、天孫降臨の聖地として伝えられています。アマテラスオオミカミの孫であるニニギノミコトが高千穂の地に降り立ったことから神話が始まりました。 「ここの他にもう一つ、鹿児島県霧島山の高千穂の峰に天孫が降り立ったという説もあります。高千穂という地名が二つあって混同される人も多いため、あちらを霧島高千穂、こちらを三つの田んぼと三つの井戸があったことから『三田井高千穂』と呼んで区別しています」と教えてくれたのは、高千穂観光協会でガイドを務める山口洋子さん。高千穂の大自然を巡りながら、神代の昔へとタイムスリップさせてくれるナビゲーターです。 高千穂観光は、神々の足跡めぐり 「神話の里」というだけあり、高千穂町の名所はほとんどが神話に関係しています。例えば、石を重ねてお参りすると願い事が叶うという天安河原。有名な「岩戸開き」の話で、アマテラスオオミカミが天岩戸に隠れたことに困った八百万の神々が集まって相談した場所とされています。近くの天岩戸神社がご神体として祀るのは天岩戸という岩窟です。また高千穂に伝わる神楽の起源は、アマテラスを誘い出そうと踊ったアメノウズメノミコトの舞だと言われています。ちなみに、かの有名県知事は天安河原を参拝した時に神の

先人たちから受け継がれてきた、大いなる遺産「千年の草原」 - 阿蘇

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人の手によって守られてきた大草原 阿蘇山という山はありません。 一般にそう呼ばれているのは、阿蘇五岳という五つの山の総称です。この五岳を中心に周囲約130kmを外輪山が取り囲み、世界最大級のカルデラ(火山活動によって出来た巨大な凹地)を形成しています。 「阿蘇=火山」のイメージは、五岳の一つ中岳のもの。もうもうと噴煙を上げる火口のそばまで寄れる火山は他にないとあって、中岳の中央火口丘は観光のメッカとなっています。しかし、阿蘇を訪れて多くの人が感じる印象は、火山のそれではなく、まるで緑の絨毯を思わせる大草原の景色ではないでしょうか。 現在、阿蘇地方に広がる草原の総面積は2万3000ha。国内2位の秋吉台(山口県)の3000haを大幅に上回る、文字通りの大草原です。そして驚くのは、この草原が、人為的に作られたものだということです。阿蘇で草原保全の支援活動を行う阿蘇グリーンストックの山内康二専務理事に話を伺いました。 「草原は放っておくと枯れ草が堆積し、灌木が生い茂り荒れ野となります。ですから畜産を生業としてきた先人たちは、草原に灌木がはびこるのを防ぎ、ネザサやススキなど牛馬が好きなイネ科の植物の芽吹きを良くするために、野焼きをして牧草地を確保してきました。これによって、阿蘇の草原は千年もの間、その景観を保ち続けてきたのです」 平安時代に書かれた『延喜式』にも「肥後国の二重の馬牧」という記述があり、当時から放牧が行われていたことが分かります。ここで育った馬は軍馬として太宰府政庁に奉納されたといいます。現在、草原の主役は馬ではなく牛。特に、あか牛と呼ばれる褐毛和種を始めとする肉牛の生産拠点となっています。 野焼きの炎による熱は、地表から約3〜4cmに伝わるだけでそれより下はほとんど影響を受けません。だから、春が来る度に草の芽が顔を出します。 草原は炎の中から再生する 野焼きが行われるのは2〜3月。枯れた草原に火を入れるのは、阿蘇地域に175ある入会権組合の人たち。総勢7000人による大仕事です。 山林に火が燃え移らないように、あらかじめ木々と草原の境目を10mほど刈り取って防火帯を作っておきます。野焼きの前に行われるこの防火帯作りが最も重労働。草原のほとんどが傾斜地であるため機械を入れることが出来ず、手作業による草刈りを強いられます。しかも木々との境目にはすべて防火帯を作ら

滔々たる真夏の四万十、自然の恵みと人の手が生み出す奇跡 - 四万十

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沈下橋のウォーターボーイズ 夏の四万十川と言えば、入道雲の青空の下、橋の上から川に飛び込む子どもたち・・・そんなイメージを勝手に思い浮かべて四万十入りしたのですが、まさにその通りの光景が飛び込んできました。高さ5m程の橋の上から川面を覗き込んだ後、思い思いのポーズで飛び込んでいく人の姿です。 近くに寄って話を聞くと、高知市から遊びに来たという大学生でした。やはり彼らにとっても四万十の夏はこのダイブだと言います。流域に暮らす者ならば、子どもの頃に一度は経験する水遊びで、飛び込むことで泳ぎの技術と勇気を身に付けていきます。飛べないと意気地なしと言われ、飛べば一目置かれる。子どもながらにその後の評価が大きく変わる、進退を懸けた行事なのです。 飛び込み台となる欄干のない橋は「沈下橋」と言い、氾濫時には水面下に沈むように設計されています。流木などが引っ掛かりその抵抗で橋が倒壊するのを防ぐため余計な装飾はありません。欄干がないのもそのためです。幅5m程の歩行者専用のものもあれば、車同士が橋の上ですれ違えるように幅員が広くなった場所を設けている橋もあります。四万十川には、県の保存対象となっている沈下橋が本流に21、支流に26現存し、そのほとんどが現役で使われています。 全長196km、300を超える支流を集め、豊かな水をたたえる四万十川は、他の多くの河川がダムの建設やコンクリート護岸などの工事により自然の景観を失ってきた中、川本来の姿をとどめている数少ない大河です。「日本最後の清流」などと称されるのはそのためです。 昭和20年の終わりから30年に掛けて沈下橋が流域各所に掛けられる以前、この川唯一の交通手段として舟母(せんば)という帆船が行き交っていましたが、この舟母を模した観光船で川面から四万十川を眺める機会を得ました。確かに人工の建造物は周囲に見当たりません。たまに目に付くのは川岸の木立の枝に引っ掛かっている多少のゴミだけです。増水時にそこまで水位が上がったことを物語っています。3年前にあった大きな台風の時は、四万十各地で浸水するはずのない場所に建つ多くの家屋が水浸しになりました。「自然のまま」が良いと人は言いますが、時に自然は過酷な現実を突きつけます。 真夏の太陽の下、水と緑の豊かな風景に溶け込む沈下橋の姿は、過酷さとは程遠いのどかな日本の原風景を思わせます。 最盛期を迎える