先人たちから受け継がれてきた、大いなる遺産「千年の草原」 - 阿蘇
人の手によって守られてきた大草原
阿蘇山という山はありません。
一般にそう呼ばれているのは、阿蘇五岳という五つの山の総称です。この五岳を中心に周囲約130kmを外輪山が取り囲み、世界最大級のカルデラ(火山活動によって出来た巨大な凹地)を形成しています。
「阿蘇=火山」のイメージは、五岳の一つ中岳のもの。もうもうと噴煙を上げる火口のそばまで寄れる火山は他にないとあって、中岳の中央火口丘は観光のメッカとなっています。しかし、阿蘇を訪れて多くの人が感じる印象は、火山のそれではなく、まるで緑の絨毯を思わせる大草原の景色ではないでしょうか。
現在、阿蘇地方に広がる草原の総面積は2万3000ha。国内2位の秋吉台(山口県)の3000haを大幅に上回る、文字通りの大草原です。そして驚くのは、この草原が、人為的に作られたものだということです。阿蘇で草原保全の支援活動を行う阿蘇グリーンストックの山内康二専務理事に話を伺いました。
「草原は放っておくと枯れ草が堆積し、灌木が生い茂り荒れ野となります。ですから畜産を生業としてきた先人たちは、草原に灌木がはびこるのを防ぎ、ネザサやススキなど牛馬が好きなイネ科の植物の芽吹きを良くするために、野焼きをして牧草地を確保してきました。これによって、阿蘇の草原は千年もの間、その景観を保ち続けてきたのです」
平安時代に書かれた『延喜式』にも「肥後国の二重の馬牧」という記述があり、当時から放牧が行われていたことが分かります。ここで育った馬は軍馬として太宰府政庁に奉納されたといいます。現在、草原の主役は馬ではなく牛。特に、あか牛と呼ばれる褐毛和種を始めとする肉牛の生産拠点となっています。
野焼きの炎による熱は、地表から約3〜4cmに伝わるだけでそれより下はほとんど影響を受けません。だから、春が来る度に草の芽が顔を出します。
草原は炎の中から再生する
野焼きが行われるのは2〜3月。枯れた草原に火を入れるのは、阿蘇地域に175ある入会権組合の人たち。総勢7000人による大仕事です。
山林に火が燃え移らないように、あらかじめ木々と草原の境目を10mほど刈り取って防火帯を作っておきます。野焼きの前に行われるこの防火帯作りが最も重労働。草原のほとんどが傾斜地であるため機械を入れることが出来ず、手作業による草刈りを強いられます。しかも木々との境目にはすべて防火帯を作らなければなりません。刈り取る防火帯は直線にして640km、熊本から静岡に届く長さとなります。
野焼きが終わり、1カ月もすれば焼け焦げた山肌はあっという間に新緑に変わり、5月には牛の放牧が始まります。
草原を見渡すと黙々と草を食べ続ける牛の姿。どこを見渡してもエサにありつける状況はうらやましい限りです。牛は1日に体重の10〜12%に当たる草を食べるというから、成牛で約600kgになるあか牛は70kg近い草を食べている計算となります。
5月〜11月の放牧期間に1頭で1〜2haの草を食べるため、草を食べる行為は「舌刈り」とも呼ばれます。長く伸びた牧草を刈り取り、しかも機械とは違い肥料まで撒いてくれます。ススキのような長めの草は人の手で採草され、これも干し草となって冬場の牛の飼料となります。このように牛のエサが年中手に入るのも、毎年多くの人々の手で野焼きが行われるからです。
自然案内人の高村さんが指さす方向に阿蘇五岳が見えるはずだったが…… |
では、野焼きが行われなくなると一体どうなってしまうのでしょう。すぐに草原は荒れ果て、数年で林野に変わってしまいます。牛はエサを失い、畜産農家は生計を立てられなくなるでしょう。それだけではありません。阿蘇は火山灰土壌であるため、土砂流出の危険も高まるといいます。
「野焼きをした後に生える草は、茎が横に広がって成長します。これにより阿蘇の火山灰大地に自然のネットが掛けられた状態になります。草原のおかげで雨などによる土壌流出が抑えられていると考えられます」(山内さん)
何よりも緑の草原が失われれば、年間1800万人が訪れるという観光に悪影響を及ぼします。人の手による草原維持。この大いなる英知は、阿蘇で暮らすすべての人たちに少なからず恩恵を与えています。
自然の恵みこそがいちばんの宝
阿蘇では現在、その自然の恵みを享受する観光が注目されています。例えば阿蘇地域振興デザインセンターが用意するエコツーリズムもその一つ。
「阿蘇を熟知した自然案内人と共に、自らの足で大地を踏みしめながら自然を楽しむというツアーです。原生林や草原の中を歩いたり、阿蘇の火口を楽しんだり、自然案内人が付きっきりで普通の観光では行けないような場所へお連れします」
とは、同センターの石松昭信さん。反響もなかなかで年々参加者が増えているそうです。面白そうなので早速体験してみました。
↑料理に使う野菜のほとんどが自家菜園で手に入る(森の駅どんぐり) 素材の味を生かした田舎料理は、意外にもフランスワインとよく合うという(森の駅どんぐり)↓ |
案内人は、阿蘇の自然保護活動に携わって40年という阿蘇自然案内人協会の高村貴生さん。高村さんが案内してくれたのは、阿蘇北外輪山のとある渓谷。涼やかな渓流の中をザブザブとトレッキングしていくのです。
「ほら、そこにいるオタマジャクシ、しっぽに斑点があるでしょ。これはカジカ(ガエル)の子。上に生えている大きな葉っぱのある木。これ何か分かる? 答えはホウノキ。飛騨の高山で味噌を付けて焼く朴歯っていう葉っぱがあるでしょ。あの葉っぱの木がこれ」
と、こんな調子で、目に入ったものを次から次へとテンポ良く説明してくれます。どこでそんな知識を得たのかを尋ねると、「生まれも育ちも山の中。川端が通学路だったから」と、笑顔を見せました。
自然の恵みを食べることで楽しむ観光客も増えています。「森の駅どんぐり」は、菅乃保留さんと美佐子さん夫婦で始めた農家レストラン。米倉を移築して3年かけて改装したというこちらのお店では、3反ほどの家庭菜園でとれた野菜や地元の食材を使った田舎料理を楽しめます。「阿蘇の田舎の雰囲気をゆっくり楽しんでほしい」というコンセプトに共感したお客さんの口コミでジワジワと人気を広めてきました。
「阿蘇には大自然があります。ここに住んでいる私たちは意外にこの宝に気付いていません。千年も前からこの地に住み着いた人々が残してくれた財産を食、農業を通じて多くの人に知ってほしいのです」
阿蘇に生まれ阿蘇で育ってきたご主人が、ふるさとの魅力を誇らしげに語ってくれたのが印象的でした。
2008年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博 )
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