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待ちに待った季節の到来に、氷上の太公望は、寒さを忘れて竿を振る - 高崎

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ファン待望の全面氷結 冬期に湖面が全面氷結する榛名湖は、氷上ワカサギ釣りのメッカ。例年1月下旬から2月にかけて氷上開きが行われ、最長で3月初旬sまで氷上の釣りが楽しめる。多い時で1日3000人もの人が、氷穴から釣り糸を垂らすといいます。 暖冬の影響で氷結がなかなか進まなかった2007年は、氷上ワカサギ釣りが異例の中止に。9月から11月末までのボート釣りでしかワカサギ釣りを楽しむことが出来ませんでした。 「中止になるとお客さんが来ない。当然経済的な打撃が大きい」 そう話すのは、榛名湖漁業協同組合の野口正博組合長。遊漁券による収入を見込む同組合だけではなく、ホテルや旅館など地域経済全体に大きな影響が出ます。 取材した2008年も、直前まで中止に傾いていましたが、1月下旬に急な冷え込みがあり湖面が全面氷結。氷の厚さも基準の15cmを満たし、例年より1週間ほど遅い2月6日に解禁されました。 2年越しとなる氷上の釣りですが、食いは活発なようで、1日に1000匹を超える釣果を挙げた人もいました。 水が奇麗だからワカサギがうまい 湖畔のどこからでも眺められる榛名富士の麓に広がる榛名湖は周囲約6km、標高1100mの山上湖。全面凍結する冬以外にも、春は新緑、夏は避暑、秋には紅葉でにぎわいます。 湖には注ぎ込む川がなく湧き水で満たされているため、水深約5mまで湖底が見えるほどの透明度を誇ります。 「榛名湖のワカサギが味が良いのは、この奇麗な水のおかげなんです」 と、湖畔のボートハウスのご主人園田一孝さんが教えてくれました。 この味を求めてか、遠くは山梨や長野からも釣り客が集まって来ます。取材で訪れた日も、平日だというのに氷上には大勢の人々。土日ともなると車の置き場に困るほどの釣り客であふれます。 榛名湖でワカサギ釣りが始まったのは昭和25年頃と言われています。ワカサギは、マスを育成するための餌として入ってきました。水温が低いためマスは思ったように育ちませんでしたが、餌のワカサギは湖に適応しました。ワカサギは水温が下がれば下がるほど、動きが活発になる魚なのです。 全国的にもワカサギ釣りが盛んな群馬県内でも、榛名湖の名がその筆頭に挙がるのは「誰でも簡単に釣れる」ため。訪れる人にたくさん釣ってもらうために漁協では毎年8万粒もの発眼卵を放流しています。 「ワカサギは1年魚。7割はその年のうち

古き良き情緒あふれる石段のある温泉街 - 渋川

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湯の町伊香保、誕生譚 群馬県のほぼ中央、標高700mの榛名山の中腹で湯煙を上げる伊香保温泉は、草津温泉と共に県を代表する、いや日本が誇る名湯です。 開湯は第11代垂仁天皇の御代、すなわち紀元前後という神話めいた言い伝えもありますが、6世紀末から7世紀の初めにかけて、榛名山の東にそびえる二ツ岳の二度にわたる噴火で湯の湧出が始まったと考えられています。当時、都のあった奈良からは、はるか遠方の地ですが、8世紀後半には伊香保の名は都人の知るところとなります。 と言うのも、『万葉集』に伊香保の名が登場するのです。全4516首中、東国14カ国を舞台とした東歌は230首収録されていますが、中でも上野の国(現在の群馬県)を詠んだ歌が他国を上回る25首、うち伊香保を詠んだものが9首もあります。現在の伊香保より広い範囲を指す地名であったようですが、この地が都人の旅情をかき立てたことは間違いありません。ただし9首の中に伊香保が温泉であったという記述はなく、歴史に伊香保温泉が登場するのは南北朝時代(1300年代)になってからのことです。 ところでこの伊香保という地名ですが、「湯がたぎる」状態をアイヌ語で「イカホップ」と言いますが、どうやらこれが語源であるようです。 日本の多くの温泉街が川沿いに形成されているのに対し、伊香保は石段に沿っているのが大きな特徴です。伊香保温泉のシンボルとも言えるこの長い石段が出来たのは戦国時代。1575年の長篠の戦いで織田信長に敗れた武田勝頼が、支配地であった伊香保に負傷兵を連れて来たことに始まります。 この頃、浴場や旅籠は山中の源泉近くにありましたが、武田軍はより多くの負傷兵を収容するために、今の石段のある辺りに湯宿を移転させ、療養場所として整備しました。これが現在の石段街の原型となっています。 勝頼は、長篠の戦いで鉄砲の威力を目の当たりにしたこともあって、石段建設の際、攻められても玉が届かないよう石段を真っすぐにせず、あえて見通しが悪くなるように作らせました。鉄砲の威力が最大限に発揮された長篠の戦いは、これまでの戦を変えた戦いとして知られますが、こと伊香保に関しては街の景観を決定付けた戦でした。 伊香保温泉のメーンストリート石段街 石段街と黄金の湯 両側に土産店や飲食店などが軒を連ねる現在の石段は、温泉街のメーンストリート。いちばん下からてっぺんの伊香保神社

懐かしいノコギリ屋根工場に新たな息吹をもたらす試み - 桐生

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旧金谷レース工業 織都・桐生の象徴ノコギリ屋根工場群 「西の西陣、東の桐生」と称される織物の町・桐生。桐生織は約1300年の歴史を持つと言われます。 1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで、徳川家康は新田義貞の旗揚げの由来で縁起が良いとされていた桐生の白絹の旗を用い、桐生織の名は全国に知られるようになりました。江戸幕府が成立すると、織物産地として高い評価を得ていた桐生は天領となり、桐生織はますます発展することになります。しかも江戸後期には工程を分業化し、マニュファクチュア制度を確立していたといいます。 明治に入ると、機械化にも積極的に取り組み、市内を流れる渡良瀬川を堰き止めて発電し、織物工場に動力と電灯を供給するようになりました。また、群馬県の桐生、伊勢崎、前橋、高崎と栃木県の小山、栃木、佐野、足利の各繊維都市を結ぶ鉄道・両毛線がいち早く開設されました。こうして桐生織は、高級織物を中心に、昭和初期まで日本の基幹産業として栄えることになります。 その桐生で今、ノコギリ屋根の建物群が注目を集めています。これらは明治から昭和の半ばにかけて建てられた織物工場で、現在、桐生には約220棟が残っています。 ノコギリ屋根工場は19世紀、産業革命の時代にイギリスの紡績工場で採用されたのが最初だと言われます。手工業から機械工業に移行していく中で、工場規模の拡大が必要となり、天井が高いノコギリ屋根工場が採用されたと考えられています。日本では1882(明治15)年、大阪紡績会社が、イギリスの紡績工場を模範にノコギリ屋根工場を建てています。 桐生でも1889(明治22)年、現在の桐生市役所や桐生厚生病院の周辺に、日本織物㈱がレンガ造りの大規模なノコギリ屋根工場を建設しました。以後、幾つかの織物会社が工場にノコギリ屋根を採用、そのトレンドは周辺の中小織物工場へも広がりました。最盛期、桐生には約350棟のノコギリ屋根工場があり、町のあちこちから「ガッチャン、ガッチャン」という織機の音が聞こえていました。 和菓子店青柳 ノコギリ屋根では北側に天窓が設けられ、そこから差す柔らかな光が、一日中安定した明るさをもたらし、糸や織物の色を見るのを助けていました。また屋根が高いため織機の騒音を抑える効果もあり、まさに織物工場のた