懐かしいノコギリ屋根工場に新たな息吹をもたらす試み - 桐生
旧金谷レース工業
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織都・桐生の象徴ノコギリ屋根工場群
「西の西陣、東の桐生」と称される織物の町・桐生。桐生織は約1300年の歴史を持つと言われます。
1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで、徳川家康は新田義貞の旗揚げの由来で縁起が良いとされていた桐生の白絹の旗を用い、桐生織の名は全国に知られるようになりました。江戸幕府が成立すると、織物産地として高い評価を得ていた桐生は天領となり、桐生織はますます発展することになります。しかも江戸後期には工程を分業化し、マニュファクチュア制度を確立していたといいます。
明治に入ると、機械化にも積極的に取り組み、市内を流れる渡良瀬川を堰き止めて発電し、織物工場に動力と電灯を供給するようになりました。また、群馬県の桐生、伊勢崎、前橋、高崎と栃木県の小山、栃木、佐野、足利の各繊維都市を結ぶ鉄道・両毛線がいち早く開設されました。こうして桐生織は、高級織物を中心に、昭和初期まで日本の基幹産業として栄えることになります。
その桐生で今、ノコギリ屋根の建物群が注目を集めています。これらは明治から昭和の半ばにかけて建てられた織物工場で、現在、桐生には約220棟が残っています。
ノコギリ屋根工場は19世紀、産業革命の時代にイギリスの紡績工場で採用されたのが最初だと言われます。手工業から機械工業に移行していく中で、工場規模の拡大が必要となり、天井が高いノコギリ屋根工場が採用されたと考えられています。日本では1882(明治15)年、大阪紡績会社が、イギリスの紡績工場を模範にノコギリ屋根工場を建てています。
桐生でも1889(明治22)年、現在の桐生市役所や桐生厚生病院の周辺に、日本織物㈱がレンガ造りの大規模なノコギリ屋根工場を建設しました。以後、幾つかの織物会社が工場にノコギリ屋根を採用、そのトレンドは周辺の中小織物工場へも広がりました。最盛期、桐生には約350棟のノコギリ屋根工場があり、町のあちこちから「ガッチャン、ガッチャン」という織機の音が聞こえていました。
和菓子店青柳 |
ノコギリ屋根では北側に天窓が設けられ、そこから差す柔らかな光が、一日中安定した明るさをもたらし、糸や織物の色を見るのを助けていました。また屋根が高いため織機の騒音を抑える効果もあり、まさに織物工場のための形状と言える建物でした。
ワイン貯蔵庫 |
が、電力事情が良くなり、照明器具が安価になると、わざわざノコギリ屋根にする必要がなくなってきました。更に戦後は中国や韓国の追い上げにより、日本の織物産業全体が衰退の道をたどるようになります。織都と言われた桐生も例外ではなく、1960(昭和35)年以降、ノコギリ屋根工場はどんどん姿を消していきました。
美容室アッシュ
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主役の座に躍り出たノコギリ屋根
90年代に入ると、そんなノコギリ屋根工場に、光を当てる動きが出てきました。きっかけとなったのは、桐生在住の高校教諭、野口三郎さんによるノコギリ屋根工場の実態調査でした。野口さんは89年から10年間、棟数の推移や建築規模などさまざまな調査を行いました。これが、桐生市による近代化遺産調査の実施につながり、市内に残存するノコギリ屋根工場が脚光を浴びるようになります。
旧小林絹撚工場
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また、これとは別に、東京の美大生らが桐生の町並みや建物を芸術表現の場とするアートイベントに取り組み始めました。アートを通じて「休演」中の古い町並みや建物を蘇生し「再演」させられれば、との思いで「桐生再演」と名付けたプロジェクトを、94年から2010年まで開催しました。
旧住善織物工場
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そんな中、ノコギリ屋根工場を商業施設やアトリエなどへ再生活用する動きも広がってきました。
その一つ、旧金谷レース工業のノコギリ屋根工場は2008年、パン製造販売・飲食店の「ベーカリーカフェレンガ」となりました。店主の武田敏央さんは、ノコギリ屋根工場を持つ織物会社の3代目でした。しかし、会社は不況により40年前に廃業。その時、ノコギリ屋根の工場も取り壊していました。その苦い思い出から、国の登録有形文化財にもなっている旧金谷レース工業の工場再生を決意しました。今では市民だけではなく、観光客も大勢訪れ、店が休みの日にはコンサート会場として提供するなど、町の活性化に貢献しています。
また、旧東洋紡織工場だった石造3連・木造3連の工場は、「桐生再演」の会場を経て、現在は和菓子店「青柳(宮地由高社長)」の店舗及び菓子工房に生まれ変わっています。こちらも木造3連の建物はイベントホールとして活用、コンサートや展示会などに無償で提供しています。表通りから引っ込んでいるため、知人らからは出店を反対されたそうですが、桐生市ボランティア協会の代表を務めるなど、地域貢献に積極的な宮地社長が、桐生の象徴であるノコギリ屋根を残したいと、店舗として改装しました。今では、インターネットなどで調べ、わざわざ探して訪ねてくれる県外のお客さんもいるそうです。
これら桐生のノコギリ屋根工場は、「優れた生産体制等により支えられる両毛地域の絹織物業の歩みを物語る近代化産業遺産群」として、経済産業省の近代化産業遺産群33の一つに選ばれています。桐生織物は江戸時代には既に分業制を取っていたわけですが、機械化された後も各工程の業者が織元と賃業契約によって結ばれ、多様で柔軟な生産を行ってきました。桐生に小規模ノコギリ屋根工場が多いのは、こうした多品種少量生産を特徴とする産地であるためです。
旧井甚織物
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また産地としての桐生織を見た場合、一口に織物と言っても、近年は伝統的な和装関連商品から婦人服地やインテリア資材に至るまで、さまざまな形態に分かれています。例えば、星誠織物(星野公男社長)は、製紙メーカーや建材メーカーなどのために、産業資材織物を受注生産。中国や東南アジアなどにはない技術力で、一つの分野に特化した織物を作っています。桐生には他にも、特別の技術力を持つ工場や、優れた意匠によって高い評価を得ている会社も多くあります。
桐生のノコギリ屋根工場もまた、桐生織と同様、柔軟で多様な形態での生き残りを図っているところです。
桐生のノコギリ屋根工場もまた、桐生織と同様、柔軟で多様な形態での生き残りを図っているところです。
森山芳平工場
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▼群馬県桐生市
群馬県東部、北には足尾山地が連なり、市内を渡良瀬川と桐生川が流れます。日本を代表する絹織物の産地で、桐生織は京都の西陣織と並び称されました。織物業がもたらした富は、桐生明治館、桐生倶楽部など多くの文化財や桐生が岡公園、大川美術館などを生みました。また、織物によって育まれた技術力によって、自動車部品産業やパチンコ機械産業なども派生しました。2005年に新里村、黒保根村と合併しましたが、両地区と桐生の旧市街地はみどり市を挟んで飛び地になっています。新里、黒保根両地区と旧市街地の面積はほぼ同じで、これほど大きな飛び地が存在するのは全国的にも珍しい事例です。
【交通アクセス】
県随一の鉄道密集地帯で、JR、わたらせ渓谷鐵道、上毛電気鉄道、東武鉄道の4社が市内に乗り入れています。東京駅から上越新幹線高崎駅経由で、JR両毛線桐生駅まで、また浅草駅から東武線特急で新桐生まで、それぞれ約1時間40分
主要道は国道50号、北関東自動車道・太田桐生ICから市街地まで約20分
日本最古のスパニッシュコロニアル様式の建物とされる桐生倶楽部会館
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写真説明
●旧金谷レース工業:国の登録有形文化財となっていた旧金谷レース工業のノコギリ屋根工場は、2008年にベーカリーカフェとして再生されました
●和菓子店「青柳」:青柳のノコギリ屋根店はその名の通り、ノコギリ屋根の織物工場を改装し店舗にしました。店内には天窓から柔らかい光が降り注いでいます
●ワイン貯蔵庫:有機栽培のブドウから作ったワインを直輸入する㈱かないのワイン貯蔵庫は、温度管理に適した大谷石造りの旧ノコギリ屋根工場(昭和2年建築)
●美容室アッシュ:桐生駅近くにある美容室アッシュは大谷石で造られた旧織物工場。造船所をイメージしたという窓枠や扉の赤も印象的な建物です
●旧小林絹撚工場:木造5連の旧小林絹撚工場の左側3連は、とうふと京風ゆば料理「若宮」、右側2連は洋菓子店「パティスリーウチヤマ」が使用しています
●旧住善織物工場:大正11年に建築された鉄筋コンクリート造りの旧住善織物工場は現在、40代のアーティスト5人が共同アトリエとして使っています
●旧井甚織物:旧井甚織物の工場は「INOJIN」としてリフォームされ、工芸教室、ギャラリーを併設したカフェとして利用されています
●森山芳平工場:昭和初年に建てられた森山芳平工場は、桐生再演の作家や学生たちの熱意により修復され、現在は桐生森芳工場運営委員会が管理に当たっています
現役工場
●桐生駅の近くにあり、両毛線の車窓から見える森盈織物(森山英一郎社長)は今も婦人服地などを中心に織る現役のノコギリ屋根工場
●近代化産業遺産に指定されている織物参考館紫(ゆかり)は森秀織物の現役工場でもあります
●星誠織物(星野公男社長)のノコギリ屋根工場。星誠織物の織機は4~8mと幅が広く、太い糸を使った高張力の織物や巾の広い織物が作られています(写真下)
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