会津始まりの地で味わう温故知新の旅 - 会津美里
会津本郷焼と高田梅パスタ |
会津の暮らしを彩る美しき生活雑器たち
400年の歴史を持つ会津本郷焼には、「陶祖」と呼ばれる人物が二人います。一人は水野源左衛門。そしてもう一人は佐藤伊兵衛です。
水野源左衛門は、美濃国(岐阜県)の出身で、岩代国長沼(福島県須賀川市)で窯業を営んでいたところ、会津松平藩主保科正之に見いだされ、焼き物産業を興すよう命じられました。原料を探して会津の山々を歩いた源左衛門は、本郷村で良質の原土を発見、この地で陶器製造を始めました。
その後、本郷村で磁器に適した土も見つかり、藩は磁器の製造にも乗り出しましたが、あえなく失敗。それを打開したのが、佐藤伊兵衛でした。伊兵衛は故郷を離れ、日本唯一の磁器生産地であった九州の有田へと赴きました。
当時、佐賀藩では磁器製法の技術漏えいを警戒し、他藩の人間を入れず、自藩の人間を外に出さない二重鎖国を敷いていました。しかし、伊兵街の思いに心を動かされた高傳寺の住職が、伊兵衛を寺の下僕にし、有田へ出入りさせました。高傳寺は藩主鍋島家の菩提寺で、住職は有田の出身だったこともあり、伊兵衛は築窯や磁器の製法、道具類の寸法など、多くを学んで有田を離れたといいます。
伊兵衛が帰国すると、藩は磁器製造に向けて体制を整備。そして1800年、ついに悲願の磁器焼成に成功しました。
当時、佐賀藩では磁器製法の技術漏えいを警戒し、他藩の人間を入れず、自藩の人間を外に出さない二重鎖国を敷いていました。しかし、伊兵街の思いに心を動かされた高傳寺の住職が、伊兵衛を寺の下僕にし、有田へ出入りさせました。高傳寺は藩主鍋島家の菩提寺で、住職は有田の出身だったこともあり、伊兵衛は築窯や磁器の製法、道具類の寸法など、多くを学んで有田を離れたといいます。
伊兵衛が帰国すると、藩は磁器製造に向けて体制を整備。そして1800年、ついに悲願の磁器焼成に成功しました。
こうして、会津本郷焼は陶器と磁器を製造する稀有な産地として、隆盛を極めることとなります。戊辰戦争で、会津本郷焼も壊滅的な打撃をこうむりましたが、伊兵衛の志を受け継ぐ陶工らの努力により、敗戦から10年を経ずして復興。明治中期には窯元が100軒を超えるほどに盛り返し、最盛期を迎えました。が、大正5年、町中を焼き尽くす大火事に見舞われ、多くの陶工が本郷から去って行きました。
会津本郷焼が、再び脚光を浴びるようになったのは、柳宗悦や濱田庄司、河井寛次郎らが主導した民芸運動によってでした。彼らは、特に宗像窯の仕事ぶりに注目し、会津粗物(日用雑器)の代表格「にしん鉢」を激賞しました。にしん鉢とは、会津の郷土料理ニシンの山椒漬け専用の鉢で、宗像窯のにしん鉢は1958年、ブリュッセルの万国博覧会でグランプリを獲得。これらが会津本郷焼の名を高め、現在へとつながっています。
宗像窯に現存する東北最古の登り窯
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宗像窯は、美しく実用的であることを信条とする会津本郷焼の老舗窯元。8代目当主利浩さんの代表作「利鉢」など、用の美を具現化した器が中心ですが、長男・利訓さんは宗像窯伝統の緑釉を改良した白緑釉によって、新たな表現にも挑戦しています。
会津本郷焼の老舗・宗像窯8代当主利浩さん
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現在、本郷に残る窯元13軒の中には、利訓さんのような若手作家も活躍しています。樹ノ音工房もそんな若手窯元の一つで、佐藤大寿さん、朱音さんの夫婦二人で作陶。大寿さんは本郷焼窯元の家に生まれ、大学卒業後は家業を手伝っていましたが、朱音さんとの結婚を機に独立しました。樹ノ音工房の作品には、柔らかい白色をした粉引きの器が多く、それに可愛いらしい絵を描いたり、表面を削ったしのぎのラインを入れるなど、モダンなデザインで女性に人気となっています。
その樹ノ音工房では、焼き物に限らず若手作家に作品発表の場を提供しようと、工房の近くに土日祝日だけ営業のカフェ兼ギャラリー「cafe yuinoba」をオープン。その名の通り「結いの場」となって、本郷を盛り上げたいと活動しています。
会津の歴史遺産を巡る
会津は、古くは相津と書きました。『古事記』によれば、崇神天皇の命により、諸国平定の任務を終えた大毘古命と建沼河別命の親子が、この地で合流したことに由来します。会津美里にある伊佐須美神社の縁起にも同様の伝承があり、二人が御神楽岳の頂に、伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神を祭ったのが、同社の創祀とされます。以来今日まで、伊佐須美神社は会津総鎮守として人々の崇敬を集めています。
伊佐須美神社の境内にはうっそうとした森が広がり、さまざまな鳥の鳴き声が聞こえてきます。社殿は2008年の火災で焼失したため、現在は仮社殿を設けた上で再建しています。計画では、現在の楼門から北へ100m後方に新たな社殿を建設しますが、本殿の高さは約32mになるといい、完成すれば古代出雲大社の社殿のような姿を現すことになります。
最近、そんな会津発祥の地・会津美里町のあちこちで「あいづじげん」という不思議なキャラクターを見掛けます。これは、比叡山の再建や日光東照宮の造営に尽力した天海大僧正(慈眼大師)をモチーフにしたもの。天海大僧正は会津美里町高田の出身とされ、生誕の地や、出家した天台宗の古刹龍興寺など、ゆかりの地を巡るために会津美里町を訪れる人も多くいます。
2015年取材(写真/田中勝明 取材/鈴木秀晃)
会津発祥の故事に由来する伊佐須美神社
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▼福島県 会津美里町
福島県は地形や気候、交通などの面から浜通り、中通り、会津の3地域に分けられます。会津美里町はその名の通り会津地方にあり、2005年に会津高田町、会津本郷町、新鶴村が合併して発足しました。北部と東部は会津盆地の平野部が広がり、コシヒカリなどを中心とした稲作が盛ん。一方、南部と西部は山間地となっており、南会津の会津高原へとつながっています。陸奥国二宮・会津総鎮守の伊佐須美神社は、「会津」という地名の由来となったと伝えられます。また、徳川家康の側近として江戸幕府初期の政策に関与した天海大僧正(慈眼大師)生誕の地とも言われています。
【交通アクセス】
JR東日本只見線の会津本郷、会津高田、根岸、新鶴の4駅があります。
町内を磐越自動車道が通り、新鶴パーキングエリアにETC車載器専用のスマートインターチェンジがあります。
●天海大僧正の両親が眠る龍興寺のハス池
●830年に徳一大師が建立したと伝えられる左下(さくだり)観音堂。現在の建物は1358年に葦名家の家臣富田将監裕義が改修したものとされ、5間四方、高さ約15mの三層懸造り。観音堂には石像の秘仏が安置され、俗に「無頸(くびなし)観音」とも呼ばれています。会津三十三観音霊場の第二十一番札所にもなっています
●高田梅:日本一大きな梅として知られる高田梅。室町時代に旅の僧が豊後(大分県)の梅をこの地に植えたのが起源とされますが、大きいのは突然変異らしいです。種が小さく果肉が肉厚で、高田ではカリカリ梅と言って干さずに漬け物として食べるのが一般的。うす塩だけのものと、氷砂糖を入れる甘塩の2種類があります。本来は小さく割って漬け込みますが、写真のように大粒の高田梅を丸ごと漬けた「丸漬け」もあります。会津美里町では毎年、伊佐須美神社のあやめ祭りに合わせ、高田梅種とばし選手権世界大会が開催されます。(撮影協力:有機果菜食品)
●表面を削りしのぎのラインを入れる作業(撮影協力:樹ノ音工房/右の写真も)
写真説明
●会津本郷焼と高田梅パスタ:会津本郷焼の器(樹ノ音工房作)に盛り付けられた高田梅パスタ(撮影協力:Café & marché Hattando)
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