越前竹人形の古里は、日本最古の天守閣を仰ぐ城下町 - 丸岡

越前竹人形
越前竹人形

日本最古の天守を持つ丸岡城

丸岡城が築かれたのは戦国時代の1576(天正4)年。織田信長が、一向一揆の備えとして、柴田勝家の甥勝豊に築造させました。標高17mの丘の上に建ち、現存天守閣では最古と言われています。

外から直接天守へ入るという独立式の城で、2重3階ですが通し柱はなく、1階の上に2階と3階が載っています。更に屋根には全国的にも珍しい石瓦が使われ、城郭建築史上貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されています。

勝豊の死後、城主が何人か変わった後、1613(慶長18)年、徳川家康に仕え勇猛果敢で剛毅な性格から「鬼作左」と呼ばれた本多重次の子成重が入城。日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、重次が妻に宛てた手紙で、文中の「お仙」はこの成重のこと。成重は3000石の旗本でしたが、越前福井藩主松平忠直が幼少であったことから、附家老として4万石を与えられ丸岡に入りました。

忠直が乱行を理由に流罪となり、その子光長が越後高田藩に移封されると、本多家はそのまま大名となって、4万6000石の丸岡藩が成立しました。丸岡城は本来、一国一城令で廃城となるところでしたが、これにより残り、天守を今に伝えることになります。

幕府が諸大名に命じて村の名と村高をまとめさせた統計「正保郷帳」によると、本多氏の所領は計75カ村で、その多くは丸岡を中心とした現在の坂井市に集中していました。それらの中には北陸道の関所近くなど、交通の要所となる村も含まれていました。また三国湊に隣接する滝谷村に設けられた出村(飛び地)には、藩倉も置かれました。

江戸時代の三国湊は「北前船」の寄港地として栄え、松ケ下、上新町、出村と三つの遊里もあって、多くの豪商や船主が足を運びました。三国の花柳界で歌われた「三国節」にも「三国出村の女郎の髪は船頭さんには錨綱」という一節があります。また長崎の丸山遊郭と同じように、「行こか戻ろか」の思案橋と、名残を惜しんで振り返った「見返り橋」もあります。

丸岡城
丸岡城

三国の遊女は「小女郎」と呼ばれ、廓の太夫と同格の芸教養と格式を持つとされていました。その中でも出色なのが、俳人として知られた出村の遊女哥川です。滝谷の永正寺住職に俳諧と書を学び、加賀千代女ら他国の俳人との交流もあったといいます。代表作「おく底の しれぬ寒さや 海の音」からは、鉛色の空を持つ冬の日本海の海鳴りが聞こえてくるようです。

四方を山に囲まれた美しい山里・竹田地区

丸岡城から車で20分ほど山側へ走ると、江戸初期に建てられた県内最古の民家「千古の家」があります。柱や梁の仕上げに丸刃の手斧を使った跡がそのまま残っていることや、母屋と下屋の桁を支える柱に木の股を利用して、先端を二分した股柱が使われるなど特徴的な構造で、国の重要文化財に指定されています。

千古の家
千古の家

千古の家がある竹田地区は四方を山に囲まれた静かな山里ですが、近年は過疎化に悩んでいます。昭和30年代には約1200人が暮らしていましたが、今では約400人にまで減少。更に2006年に地区内唯一の保育園が休園、10年には100年以上の歴史がある地区内唯一の小中学校も休校となるなど、少子高齢化が進行しています。

千本しだれ桜の里
千本しだれ桜の里
そんな中、09年には地域住民による自主的なまちづくりを進めようと、「竹田の里づくり協議会」が発足。地域の活性化と観光客誘致を目指して、竹田地区にあるレクリエーション施設「たけくらべ広場」に枝垂れ桜を植える「千本しだれ桜の里」作りを始めました。そしてここ数年でその取り組みが実を結び、シーズン中には県内外から人口の約200倍となる8万人近い観光客が訪れるようになりました。竹田には、老舗豆腐店谷口屋の油揚げや、料理旅館大すぎの米糠さばなど名物料理もあり、それもまた観光資源となっています。

竹田地区の南の入口には大型の観光バスも訪れる「越前竹人形の里」があります。越前竹人形というと、水上勉の小説が有名ですが、小説の中の竹人形と実際の竹人形に接点はありません。越前・若狭にはかつて竹林が多く、良質な真竹や孟宗竹がありました。これを利用した竹細工も盛んで、若狭で生まれた水上の父も、大工仕事の傍ら副業で竹細工師をしていたといいます。水上は父の姿から『越前竹人形』を着想したとも言われています。

ただ、竹細工はあっても、越前に竹人形はありませんでした。しかし、小説が発表される少し前の昭和27年、竹細工師の師田保隆・三四郎兄弟が、竹人形を作り始めました。最初は竹細工の製作工程で出る竹の切れ端を使い、余技として小さな人形を作ったのが始まりだったそうです。そして昭和30年、人形を出展した全国竹製品展で中小企業長官賞を受賞してからは、人形を中心に制作するようになりました。水上が実際の竹人形を知ったのは、小説を発表した後のことで、その偶然に驚いたそうですが、小説が有名になるにつれ、竹細工から転じた「越前竹人形」もまた、全国に広く知られるようになっていきました。

2015年取材(写真/田中勝明 取材/鈴木秀晃)

▼福井県 坂井市丸岡

丸岡は福井県北部、2006年に坂井郡内3町(三国町、春江町、坂井町)と合併して坂井市となりました。日本一短い手紙と呼ばれる「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、戦国武将本多重次が妻に送ったもので、お仙とは重次の息子仙千代(後の初代丸岡藩主本多成重)のこと。これにちなんで、丸岡では毎年、日本一短い手紙のコンテストを行っています。この「一筆啓上賞」は自治体による公募イベントの先駆けで、全国で同じような公募が行われるきっかけとなりました。
【交通アクセス】
北陸本線丸岡駅があり、福井駅から約11分、特急を芦原温泉駅で乗り換えると金沢駅からでも約25分
北陸自動車道の丸岡ICから市役所まで約15分


●丸岡藩砲台跡:幕末に外国船渡来に備え、丸岡藩の砲術家栗原源左衛門によって築かれた砲台跡で、国の史跡に指定されています。ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航する前年のことで、砲台の周辺は丸岡藩の飛び地になっていました。現存する遺構は、日本海に向かって弓形に五つの砲眼が開かれています


●三国町を流れる辰巳川の河口付近に「思案橋」があります。橋の先には丸岡藩の出村遊郭があり、江戸中期には遊女100人を擁する花街として栄え、昭和初期までそのにぎわいが続きました。出村遊郭の一方の端には「見返り橋」もあり、橋を渡って地蔵坂を上ると、福井藩の上新町遊郭がありました


●最近の竹人形は、竹で表現したつややかな髪が特徴の一つになっています。真竹を太さ0.2mm以下に割き続け、人形1体に約5000~7000本を植え付けます


●この道40年、越前竹人形協同組合の技術指導顧問を務める内田勝美さん(67歳)。素材の竹を生かすためには、何よりも創造性が大切だと話します



●米糠(こんか)さば:福井の郷土料理に「へしこ」があります。サバに塩を振って糠に漬け込んだもの。若狭地方の伝統料理で、漁師が魚を樽に漬け込むことを「へしこむ」と言うことからその名が付きました。同じ福井でも坂井地区では米糠を「こんか」と呼ぶことから「こんかさば」とも言います。丸岡の料理旅館大すぎでは、塩を使わず生のサバを糠に漬け込んでいます。塩分が少ない分、日持ちはしませんが、とてもやさしい味で地元では大人気。中には、ご飯を食べ過ぎると禁止令が出るお宅もあるそうです。


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